平民クラリス・エヴァンジェリンは女皇帝の即位を知る
それは即位の式典まで一週間となった頃だった。
タウンハウスでバルトロメウスから、古代語の解釈についての講義を受けていた所に、慌てた様子のフェリクスが飛び込んできた。
「どうしたのじゃ」
バルトロメウスの戸惑いはクラリスも同じく感じた事で、息を切らしたフェリクスが、物言わずに緊急事態を告げる。
「キリアン殿下に何か…」
立ち上がってフェリクスに駆け寄るクラリスを、フェリクスがその腕を掴んだ。
「殿下はご無事だ。…帝国から新たに客が来た。その事で王宮が大騒ぎになっている」
「新たな客って」
バルトロメウスと顔を見合せたクラリスの顔に不安が広がった。
「クラリス嬢、一緒に来て欲しい。危険がないよう十分に配慮するから」
ただならぬ様子に頷くしかない。
大急ぎで外出着に着替えさせてもらってから、クラリスはフェリクスの乗ってきた車に飛び込んだ。
ランヴァリオンの国境上空を、テキラナ国の神獣である大鷲に乗ってその人はやってきた。
チトニア・ルルーレイ・フォン・オストファーレン。
老皇帝の孫姫で、次期皇位継承者に指名された美姫。
皇族の父とテキラナ国の現統治王の娘を母に持つ、正真正銘の純血の姫。
銀色に近いプラチナブロンドの髪に、翡翠色の瞳が印象的だった。浮世離れした美しい皇女は、帝国では誕生の頃から妖精姫と謳われる人物で、クラリスもその噂はよく知っており、皇城での式典などで何度か見かけた。
この世のものとは思えない儚げで美しい夢のような姫だった記憶がある。
「チトニア皇女様がなんで…」
クラリスの記憶では、そんな無謀や無礼を犯すような姫には見えなかった。なので、わざわざ大鷲に乗ってまでランヴァリオンに乗り込んできた意味が分からない。
理由があるとすれば…帝国の邪教信仰者であるクラリスの捕縛しかないのだが。
暗く沈むクラリスに、フェリクスが肩を撫でる。
「クラリス嬢との面会を、皇女殿下が望まれた。キリアン殿下とルシアン殿下も立ち会う。もちろん私も」
だから何も心配するな、とフェリクスは言うが。
心が重く沈んでしまうのは仕方がない。
父には皇帝には信仰を隠せとずっと言われ続けてきた。
キリアンの即位が確実になった今、その理由がクラリスにあるのも予想はつく。だから、命を狙われて来たのだ。
覚悟を決めるしかないのか。クラリスはそう密かに思うのだった。
王家の人間との特別な懇談をする豪奢な部屋にはキリアンが居て、その隣にはキリアンによく似た、でも雰囲気はまるで正反対の美貌の青年が、柔和な微笑みを浮かべて立っている。その人が度々話に出ていたルシアンだとわかったのは、彼が小声で「兄上」と囁いたからだった。
チトニア皇女は、豪奢なひとりがけのソファに座っていて、クラリスの記憶通り…この世の人間とは思えない美しさを発光させていた。
彼女の傍には、護衛と思われる騎士が二人立っていて、ひとりは女性の護衛官のようだった。
言葉を無くして立ち尽くすクラリスを、キリアンが引っ張ってソファに座らせる。フェリクスは入口を固めるようにして、直立した。
「急に呼び立ててしまってごめんなさいませ」
鈴を転がすような声に、クラリスが緊張する。
立場が上の者から話しかけられない限り、下位の者は何も話せない。クラリスは恐る恐る挨拶をした。
チトニア皇女はクラリスを見て微笑んだ。
「ランヴァリオンの新王誕生を心よりお祝い申し上げますわ」
「…。お祝いをわざわざ皇太子殿下から頂戴できるとは、夢にも思いませんでした」
聞いたこともないキリアンの他所向きの言葉遣いに、クラリスがこっそり驚く。そんなこともしらず、チトニア皇女は少し眉を下げた。
「無礼と不調法を犯してしまった事をまず謝罪致します。急を要する事案が発生致しましたので、わたくし自身が参った次第ですの」
「一体どのような事が?」
ルシアンが微笑みを浮かべたまま、妖精のようなチトニア皇女を見ている。見ているが、目の奥が全く笑ってない事は、チトニア皇女も、そしてクラリスも気づいていた。
「ランヴァリオン王家の神聖な即位の儀式の前に、お伝えしたい事がありますの」
「…聴きましょう」
「皇帝であった祖父が薨去しましたわ」
「!」
なんてことも無いように告げたチトニア皇女は、相変わらず微笑みを浮かべている。
「薨去の翌日に、わたくしが皇帝位を継承致しました」
「それは…お悔やみ申し上げる。そしておめでとうございます」
チトニア皇女は首を振った。
「儀式のさなかの訃報は、男神の威信を貶めましょう。それで急いで参りました」
「お気遣い痛み入ります」
ルシアンの言葉にチトニア皇女は首を振る。
「本題はここからですの。わたくしの先見がこの先の帝国の未来を憂いておりまして、その原因を回収し駆除するために参りました」
チトニア皇女と目が合う。顔が青ざめていくのがわかる。駆除と言う言葉が、鋭く心を突いた。思わず顔を伏せると、膝に乗せた手に柔らかく冷たい手が重ねられる。
顔をあげると、チトニア皇女の翡翠色の瞳が細められていた。
「クラリス様、貴方の事ではありませんわ」
「…。皇女様…本当ですか…?」
緊張と恐怖で震えるクラリスを安心させるように、チトニア皇女が微笑む。
チトニア皇女はキリアンを見上げると、うっすらと微笑んだ。
「こちらに、帝国皇帝の名代の一員として…ベルンシュタインがお邪魔しておりますわね?」
「ええ…」
訝しむキリアンに、皇女は呼んできて欲しいと頼む。
フェリクスが廊下に待機していた侍従に託けると、しばらくして、ベルンシュタインがやって来た。
「皇太子殿下…!!」
チトニア皇女の姿にベルンシュタインが驚き、そして傍に座るクラリスを見て激高した。
「そこの邪教信徒!神聖な帝国の皇太子殿下の傍に侍るとは何たる不敬……」
「やめなさい、ベルンシュタイン」
チトニア皇女の一喝でベルンシュタインは黙る。だがクラリスを見る目は憎悪に燃えていた。
「ベルンシュタイン、祖父が身罷りました」
「…な、なんですって…」
顔色を失うベルンシュタインを見ながら、チトニア皇女は続ける。
「わたくしが現皇帝です」
チトニア皇女の宣言にベルンシュタインが跪く。
「おめでとうございます…このベルンシュタイン、陛下の御代でも変わらず忠誠を誓い…」
「その必要はありませんわ」
素っ気ない物言いに、ベルンシュタインが勢いよく顔をあげる。
「なぜ、なぜです?皇家の血統管理は私めがこれまで…」
「だから、それはもう必要ありませんの」
言い募るベルンシュタインを見下ろしながら、チトニア皇女は微笑んだ。
「ベルンシュタイン、あなたにひとつ、おじい様の秘密を教えてあげましょう」
「…秘密、ですと?」
「…。おじい様は、先見の能力を持ってはいませんでした」
「?!」
これにはクラリスも驚く。キリアンもルシアンも同じように顔を見合せた。
「馬鹿な、そんなことが可能であるはずかありません!」
「実際にそうでしたわ」
つまらなさそうにそう言いながら、チトニア皇女はベルンシュタインを見下ろしながら続ける。
「能力があるように見せていましたが、それは側近達が上手に隠し覆せていたからですの」
「そんな……わ、私は陛下に能力を買われ、お仕えして参りました。陛下の先見が私を見出したと自負しておりましたのに……!!」
「…。わたくしの先見はあなたを選びませんわ」
どんどんと青ざめていくベルンシュタインは、口を開けるが何も言えない。
「おじい様の御代は、男神ディオスノエタの望む物ではなかった。その証拠にわたくしの先見が、叫んで止まらないのです」
チトニア皇女の視線がクラリスを見つめる。
「血統能力を途絶えさせるな、と」
「そんなはずは、そんなはずはありません。そこのジュネヴァの血統は、殿下の先見の天敵。存在を許してはなりません、お目覚めください…っ」
「黙りなさい、ベルンシュタイン。お前をこのさき生かしておくことは、わたくしの治世に暗雲をもたらす」
ピシャリと言いつけたチトニア皇女は、ベルンシュタインに氷のような視線を向ける。
「お前が祖父の元で何してきたか、わたくしは全て把握していますわ。能力のない強欲な祖父の言いなりのお前は、帝国の未来に災いをもたらす凶星」
ガタガタと震えるベルンシュタインが、チトニア皇女に縋りつこうと手を伸ばすが。皇女の護衛がその手を足で踏みつけた。悲鳴をあげるベルンシュタインがのたうち回る。
「私は、皇帝の名においてお前を捕縛し、お前が祖父の元で行ってきた血なまぐさい過去の悪行を、臣民に明らかにします。…お前が祖父の命で手にかけてきた皇族達は……お前が崇敬してやまない先見能力の継承者ばかりでしたのよ?」
クラリスが口を覆う。まさか皇族殺しを、そして血統能力のある者を葬ってきたと言う言葉に、ショックを受ける。
先代の御代では、確かに幼い皇族や年若い皇族達が不審な死を遂げていた。
貴族令嬢だった頃の話だが、大きく話題になったことも記憶している。
妖精姫がそんなに環境下で生きながらえて来れたのは、何か秘密があったのだろうか。きっと綱渡りのような日々を過ごしてきたのは、クラリスにも想像できた。比べるまでもないくらいだが、自分にも魔の手が伸びようとしていたのだから、それを思うとクラリスの胸が痛む。
「お前は、皇家の血統管理の責任者と名乗っているわね?……確かに管理はできていたでしょう。祖父の邪魔になる能力者を葬ることにはね?」
「皇女…!!!」
浮世離れしていた妖精姫だったチトニア皇女は、いつの間にか為政者としてここにいた。
「連れて行ってちょうだい。帝国でじっくり話を聞かせてもらうわ」
冷たく告げたチトニア皇女に、ベルンシュタインは尚も何かを喚いて言い募る。
見ていられなくなったクラリスが顔を伏せると。
暴れだしたベルンシュタインがクラリス目掛けて、懐から取り出したナイフを振り上げた。
「おのれ……!!!邪教の信徒め……っっ」
血走った目、落窪んだ瞳、痩けた頬。荒みきった精神が暴走を始める。
押さえる手を振り払ったベルンシュタインが、クラリス目掛けて倒れ込むように襲いかかる。
恐怖で動けないクラリスは、振り下ろされる刃物が鈍く光っているのを見ていた。
「!」
突然。
クラリスの背後で、光熱が湧き上がった。部屋中に躍り出た数式達が一瞬で収束すると、それはクラリスの背後から鋭い槍となってベルンシュタインの肩を貫く。
腐った肉の焦げる臭いがする。
そして、芳醇で濃厚なラムの香気がクラリスを包んだ。
光の槍はベルンシュタインの中に抉り込むように刺さると、光の粒となって霧散した。
一拍置いてベルンシュタインの口から、聞いたこともないような咆哮があがる。獣のような、魔獣のような、とても醜悪で聞くに絶えない轟音にクラリスが耳を押さえる。
いつの間にかナイフを取り落としたベルンシュタインを、フェリクスと護衛騎士が組み伏せていて、チトニア皇女の前には女性の護衛官が立ちはだかっていた。
…ご無事だった。
真っ先にチトニア皇女の、皇家の心配をするのは、クラリスが帝国民である事を忘れてなかったためだ。
先代にはずいぶんと嫌われていたが、それでも皇族は帝国の誇りであり、信頼を寄せる存在であった。
チトニア皇女を見ていたクラリスの肩が、背後から強く掴まれた。振り返ると、キリアンが玉のような汗を浮かべてこちらを見下ろしている。
余韻のように渦をまく黄金の数式の残渣が、キリアンの周りを回りながら薄く立ち消えていく。
熱放射の最終段階の辺りでよく見た光景、そして汗のかきかた。キリアンの能力が精緻に調整され武器を錬成させたことがわかった。
「怪我はないか、ニンジン」
久しぶりに見るキリアンの顔だ。美しい顔面は相変わらずだが、精悍さがより顕著になったように見えた。
王の顔だ、とクラリスは思った。
「殿下…ありがとうございます。見事な熱制御の御業でした」
クラリスの言葉に、キリアンが安堵したように少しだけ笑う。
そんな二人を見つめていたチトニア皇女は、クスクスと可笑しそうに笑った。
「お邪魔のようですから帰りますわ。この害虫はわたくしが責任をもって始末致しますので、どうかご安心を」
立ち上がったチトニア皇女を追いかけるようにクラリスも立ち上がる。
目が合ったチトニア皇女は、何か言いたそうにしていたが、結局口を開くことはなく、また人間離れした美しい妖精姫の顔に戻って微笑む。
「あの、皇女様…いえ、陛下」
皇族に対する緊張と、チトニア皇女の神々しさに、クラリスの声がうわずる。そんなクラリスを見て、女皇帝となった妖精姫は済まなそうに眉を下げた。
「わたくしの力が及ばず、不自由な思いをさせてしまって申し訳ありませんでした」
「そんな、いいえ…!!」
没落寸前の時に、皇家が手を差し伸べようとしてくれていたのは、チトニア皇女の進言があったからだと後で聞かされていた。
表向きは老皇帝が監視がてら囲い込む算段であったと言うが。皇女は、監視目的ではなく優秀な官吏としてクラリスの能力を傍に置こうと尽力していたらしかった。
結局断ってしまったが、選択が違えばクラリスの生きてきた道はまるで違うものになっていただろう。そして、アンバーカノープスとの出会いもなかったし、キリアンと関わる事もなかったと思う。
お互いに言いたいことが山のようにある。
でもそれを断ち切るように、チトニア皇女は微笑んで部屋を出ていった。
「貴方とゆっくり話ができますように」
そう囁いて、妖精姫は花のような残り香を置き土産に、帝国へ帰って行った。




