亡国の末裔クラリス・エヴァンジェリンは始祖の王達の愛を見せられた
潮騒の神殿を抜けでて、海岸沿いの獣道をひたすら走る。
「もうすぐ完全に潮が引く。今じゃなきゃ入れん」
キリアンがフェリクスに説明するのを、クラリスはキリアンの背中で黙って聞いていた。走るのがあまりにも遅いクラリスに業を煮やしたキリアンが、強引に背負い込んだせいである。
干潮時でないと入口が現れない洞窟の奥に、目的の人物がいるらしい。
バルトロメウスと言うその老人は、王宮図書館で禁書庫の番をしていた歴史学者でキリアンの師匠でもある人だった。
隠遁生活に入ったのは遺物の保管と管理のためと言われているらしいが、偏屈者で、ただ日がな一日、真鍮を磨いたりする事に情熱を向けているとの事だった。
目的地に着くと、クラリスは背中から下ろされ、フェリクスは入口で見張りをすると言う。それぞれの役割を確認した後、キリアンはクラリスの腕を掴んで、滑る岩肌の洞窟の最奥部まで突き進んで行った。
「誰じゃい」
潮騒の音の向こうから、しゃがれた声音が飛んでくる。
「俺だ、ジジィ」
声を張るキリアンに、しゃがれ声が向こう側で「なに!?」と驚いたように返ってきた。
そこは不思議な場所だった。
干潮時でなければ入れない洞窟は、満潮時には閉ざされる。潮はかなり奥の方まで来るようだったが、緩い緩慢な登り坂を登りきってしまえば、地面はすっかり乾いていて、バルトロメウスが立ちはだかる向こう側は陽光が差し込む広い空間となっていた。
「キリアン?」
思わぬ来客にバルトロメウスが駆け寄る。
「なんでまたこんな所に」
「先生に聴きたいことがあってきた。時間が惜しいからわかる事を教えてくれ」
キリアンの後ろで、肩で息をするクラリスを見たバルトロメウスが、入れと空間に招き入れる。
海風と走り抜けるキリアンの疾風に晒されていたクラリスは、陽光が差し込む空間の暖かさにホッとした。
キリアンがアンバーカノープスを起動させる準備をしている事などを説明している。
冷えきった身体を両手で擦りながら、クラリスはバルトロメウスの生活空間らしいその場所をぼんやりと眺める。
穏やかで優しげな数式があちこちで湧き上がってははじけ飛んで、また循環の中に潜り込むように空気に消えていく。それと同時に、幼い子どものような笑い声も聴こえた。
遺物の保管と管理のために隠遁したというが、本当に愛情を持ってそれを行っているのだろう。保管場所とされているらしい奥の方でも、楽しげに囁き交わすような声が聴こえた。
「ジュネヴァがいないと無理じゃ」
キリアンの話を一蹴したバルトロメウスだったが、キリアンが掴んだままのクラリスの腕を差し出す。
「ジュネヴァならいる、ここに」
空間の数式に意識を向けていたクラリスは、キリアンに言葉に意識を取り戻した。
「…こんにちは」
ぎこちなく挨拶をしたクラリスを、バルトロメウスは信じられない表情を浮かべて見つめる。
「お嬢さん、あんたは…」
クラリスが首からぶら下げている懐中時計を、キリアンが引っ張り出して、意匠を見せた。
懐中時計を両手で捧げ持ったバルトロメウスは、じっと見つめて確認した後、クラリスにそっと返す。
「お嬢さん、名前は?」
「クラ…」
「クラリス・エヴァンジェリン。帝国に亡命していた傍流だ」
キリアンが答える。バルトロメウスはクラリスの顔を見つめた。
「陽のあまり差さない地域に住む民がもつ特有の目の色をしているな。肌の青白さも北方の特徴だ」
バルトロメウスが頷く。
「女神ジュニパーを信仰しているな?」
黙って頷いたクラリスに、バルトロメウスも頷き返した。
「で、何が訊きたいんじゃ?」
「王の樽の在処を」
キリアンの言葉にバルトロメウスが目を見開いた。
「アンバーカノープスの解析がようやく終わり、ラム酒のレシピまで辿り着けた。だが、王の樽だけは所在がわからん」
「…要するにそれが必要だと…」
「そうだ、わかるか」
キリアンの言葉に、バルトロメウスは目を逸らす。
「バルト、時間が無い」
「…。あれば差し出すが…そんなものは存在せん」
「?!」
バルトロメウスの言葉に、キリアンも、そしてクラリスも絶望する。
「始祖の時代の代物じゃぞ?そんなもの…」
いいかけて、バルトロメウスが口を噤む。
「バルト?」
「…お嬢さん、解析ができるんだったな?」
頷くクラリスをみて、バルトロメウスが着いてくるように言う。
連れていかれたのは、遺物達の囁き声が聞こえたエリアだった。
流れ着いた板を目隠しにしていたのか、重そうなそれをバルトロメウスが退かす。途端に溢れかえる数式と金と銀の軽やかな螺旋が、空中に霧散していった。
立てかけている板や壺などを押しのけて、バルトロメウスは一枚の丸い木の板を取り出す。
あまりの眩しさにクラリスが顔を背けた。金色の濃く大きな数式が目の前で弾けた。
キリアンが歩み寄ってくる。
「これは?」
「樽の鏡板じゃ」
「鏡板…」
そう言いながらキリアンが受け取った瞬間だった。
{Mi Rex, Mi Sol... Zarvan}
「?!」
頭の中に直接響く低い穏やかな男の声。金色一色に染まる視界に、目の奥がチカチカと刺される。硬直したクラリスに気づいたキリアンが、肩を掴む。
「何が見えた」
「…声が、しました」
「…なんと言っていた」
「み れくす、み、そー、ざるば」
バルトロメウスがクラリスの手を掴んだ。
「ミ レクス、ミ ソル、ザルヴァン、じゃな?」
正しい読み方なのだろう。頭の中の声と同じ発音だった。キリアンが頷く。
「我が王、我が太陽、ザルヴァン…始祖王の名前か」
知りたくてたまらなかった始祖王の名前に、キリアンが震える。
「キリアン、これで間違いない」
バルトロメウスがキリアンに抱かれた鏡板を撫でる。
「しかし、この板だけでどうする…」
キリアンがクラリスを振り返る。鏡板を凝視したままのクラリスは「大丈夫です」と呟いた。
鏡板から溢れる情報を見ているのか、小さく口を動かしながら小さく何度も頷く。
「はい、…はい」
何かと会話をしだすクラリスを見つめるバルトロメウスが、キリアンを見て笑う。
「アンバーカノープスの起動、儂も見ていいか」
「もちろんだ、先生。始祖に纏わる歴史が新たに発見されたぞ」
「それは本当か!」
ニヤリと笑うキリアンを見上げてから、バルトロメウスは出かける準備を始める。
クラリスの解析が終わったら、潮騒の宮殿へ戻る。
それまでつかの間の休息をとることにした。
バルトロメウスが先頭になり、洞窟の入口まで歩いてる時だった。
入口付近で争う声と、激しく交わる金属音が聞こえた。
「ジジィ、クラリスと隠れてろ」
キリアンに言われるまでもなく、バルトロメウスはクラリスの手を引いて、奥の方の窪みに身を潜ませた。それを確認してから、キリアンは落ちていた流木を拾い上げ、静かに走る。
身を屈めて様子を伺うと、三人の男を相手に、フェリクスがひとりで応戦していた。よく見てみると、二人ばかり倒れている。死角になってるあたりから倒れた男の剣を拾うと、キリアンも戦闘に加わった。
「殿下?!」
「持ちこたえろフェリクス」
キリアンの言葉に、フェリクスが息を短く吐き出す。
「殿下、覚悟!!!」
剣を持った男の一人が突進してきた。迎え撃つ体勢を整えた瞬間、男の動きが止まる。そして、フェリクスが相手をしていた二人もバタバタと倒れた。
倒れた男達の背中には、矢が三本、深々と突き刺さっている。顔をあげると、崖の上から矢をつがえた男の姿が見えた。
「殿下!ご無事ですか!」
「大事無い、ご苦労」
キリアンの言葉に、弓を持った男は下がって行った。
「ルシアン殿下直属の暗躍部隊ですね」
拾った剣を放り投げて、キリアンが笑う。
「良く気の付く弟を持って、俺は幸せだ」
「…。出来れば私が応戦している時に手伝って貰いたかったんですがね…」
少しばかり恨みがましい口調のフェリクスに、キリアンがその肩を叩く。
キリアンが姿を見せた途端に、彼は動いたのだから当然の反応と思う。
「ルシアンは少しばかり、俺の事を愛しすぎてるからな」
「…」
少しどころではないだろう、と言う顔をしてフェリクスは剣を仕舞った。
「先に戻ってください。雇い主を吐かせてから合流しますので」
そう言って、フェリクスは倒れている二人の男を引きずって、岩場の向こうに消えていった。
隠れていた二人を迎えに行くと、クラリスから説明を求められた。
隠していても仕方がないので、クラリスを追ってきた帝国の監視役が来ている事、自分に暗殺者が向けられていることなどを簡潔に話す。
少なからず動揺していたものの、クラリスは承知したように頷いた。
「…やる事を片付けましょう」
そう呟いた顔には、アンバーカノープスの起動を急ぐ決意が見て取れた。
アンバーカノープスの元に戻ると、解体と部品の交換、そして新しい部品の発注までが終わっていた。
キリアンが翻訳したアンバーカノープス(アンブリエル)の昔話の書き起こしを、バルトロメウスが両手に捧げ持って部屋の隅で読み始める。クラリスの口から書き起こされた音での読み方と並行して、検証するつもりのようだった。
内蔵部分の写取りも進められていて、クラリスが言わなくても、担当者は心得たように細部まで目を凝らしながら、細かく精緻に作業を進めていく。
クラリスはキリアンを部屋の隅まで連れていくと、改まった口調で切り出した。
「部品ができたら、組み立てて元の姿に戻します。その後からやることは、全て殿下の熱の制御に関わってきます」
クラリスが床に座ろうとするので、キリアンはそれを止めて、クッションを持ってきてそこに座らせる。そして同じようにしてクラリスの正面に座ると、まっすぐに前を見据えた。
「俺は何をすればいい」
「まず、殿下が熱を放射する時に、どの程度の熱さを放出するのかを見ます」
タウンハウスの応接間で、渦のように暴走させていた時の熱量の計算式は、データとして頭に残っている。
「あの時、殿下はエネルギーを飼い殺していたと話してました。飼い殺しの状態は、殿下の感覚としてどれくらいなのかを知りたいです」
クラリスが数枚の紙を手繰り寄せ、そのうちの一枚に、横に一本線を引いた。それを十の間隔に区切る。
「俺が意識的に放出しているのか、無意識でやっているのか、という事か?」
「はい。この先は、最適な温度を殿下自身に身体で覚えてもらわなくてはいけないのです。無意識で最大値に近い熱を出してしまうと、全て焦げます」
レシピ通りが絶対条件だ。やるしかない。
「わかった」
キリアンが頷いたのをみて、クラリスは解体をしていた職人たちの元へかけていく。何かを二、三話したあと、彼女は駆け戻ってきた。
「では、話を戻します。タウンハウスの玄関先で初めてお見かけした時の感覚は、このラインのどのあたりですか」
一から十のどこか。キリアンは一を指した。
クラリスが息を飲む。吐いて鼻血を出して気絶までしたのだ。ある程度の威力だったと思ってたような表情をしている。だが、クラリスはすぐに、そこに印をつけて何かを書きつける。
二枚目の紙にも同じように線を引いて、十に区切った。
「では、私と初めて応接間で対面した後は?」
数式の暴走が止まり、静かに凪いだ時は。
キリアンは、ゼロより左の何も無い空間に指を置いた。
「今もですか?」
「言ったろう。俺はうたた寝すらできなかったのだ」
仮眠まで取れたのだから、クラリスの無意識の分解の異能の凄さを改めて感じさせられた。
クラリスが頷いて、欄外のそこに丸をつけて状況を書き付けた。
また紙に線を引き、区切りを書く。
「では、熱を全開にするとしたら、どの辺になりますか」
キリアンが黙り込む。クラリスは静かに返答を待った。
「無限に出せるだろうな」
「…。わかりました」
クラリスがそう呟いた時だった。
「クラリス嬢、外せましたよ」
職人が二人がかりで琥珀を持ってきた。キリアンが目を剝く。
「なぜ…」
「組み立てまで時間はあります。アンバーカノープスは組み立てられる前に、心臓の状態で始祖の王に預けられていたんです」
そうか、キリアンは納得する。
「コアに熱を与えていた期間があったな」
「はい。ここに殿下の熱を与えて、その時に現れる数式を書き留めます。それを繰り返して行くことで、レシピの材料にとっての最適解を調整していくんです」
気の遠くなりそうな作業に思えた。
「…期間は?」
「…」
クラリスが俯く。
「内蔵部分の部品の交換が終わるまでには…」
言いにくそうに呟いたクラリスの頭を、キリアンが叩く。
「痛いです」
「俯くな。やるぞ」
「…、はい」
恐らく、実質二日か三日くらいしかない。
二日かかると話していたクラリスの解析はほぼ終わっている。ここまで来て足を引っ張るわけにはいかなかった。
キリアンはやる気を出すように、彫像のような顔を両手で叩いて気持ちを切り替える。
深紅の瞳に闘志が灯る瞬間を、クラリスは静かに見つめていた。
それから丸一日が経った。
部品が来るまで、職人達、写取り、書記、買い出し、などの作業要員は休日を与えられた。
バルトロメウスは残っていて、相変わらず部屋の隅でアンバーカノープスの記憶を読み込み、自分の手帳に何かを書き付ける事を繰り返している。
フェリクスは一度だけ顔を見せた後、ルシアンの元に行くといって出ていった。
風呂や食事もままならない地下の広い石室で、キリアンとクラリスは汗だくで、放熱と計測を繰り返す。
なかなか熱量を下げられないキリアンが苛立って、突発的に海に飛び込んで頭を冷やす等をしながらも、二人は心臓を挟んで、地道に最適解を探っていた。
それは、休憩のつもりで横になった時に起こった。
心臓を挟んだ向こうでキリアンが眠っている。何の気はなしにその寝顔を見つめていた時に、コアが囁き始めた。
「!」
古代語だ。傍の紙を手繰り寄せて、音を必死に拾っていると、背後からバルトロメウスが手元を覗き込んできているのに気づく。
「そのまま続けるのじゃ」
頷きながら、必死に鉛筆を走らせる。
何の意味かは分からないが、歌うように繰り返し囁かれる一定の節回りが、呪文のように思える。
少しだけ慌ただしい気配に目を覚ましたキリアンが、バルトロメウスの隣でクラリスの手元を覗き込む。
『——Flamma Tua, Cor Meum. Duo Animae, Unum Calorem.』
(あなたの炎、私の心。二つの魂、一つの熱。)
『——Error Levis, Risus Dulcis. Iterum, Ut Sol et Luna.』
(小さな過ち、甘い笑い。再び、太陽と月のように。)
『——Harmonia Perfecta. Vita Nostra, Aeternum. Per Hoc, In Calorem.』
(完全なる調和。我らの命、永遠に。これを通じて、熱の中に。)
手が止まったクラリスが、コアを凝視している。
バルトロメウスと目が合ったキリアンは、クラリスの手にした書き付けを取り上げる。
「殿下、バルトロメウス先生…」
ぼんやりとした顔でコアを見つめながら、クラリスが二人を呼ぶ。
書き付けをバルトロメウスに押し付けたキリアンは、しゃがんでクラリスと目線を合わせた。
「どうした」
キリアンの顔を見たクラリスが惚けた様な表情をしている。
「始祖の王には、奥様がいらしたんですか」
「記録にない」
バルトロメウスを振り返るが、彼も首を傾げていた。
「見えたのか?」
うん。と子どものように呟いてから、クラリスは言う。
「コアの前で熱の調整をしていました。…月の女神のような女性が側にいて、二人で笑いながら、手を取り合いながら、手を…こうやって重ねて」
キリアンの手に、こうやって、とやって見せながらクラリスが言う。
「…。それなら、この内容も合点がいきますな」
バルトロメウスの言葉にキリアンも頷く。
「採用する」
「ん?」
キリアンがそう言うと、バルトロメウスも「それが早いかものぅ」と肯定した。
「殿下、なにを採用す…」
「お前が見た光景を再現すれば早いだろうと言う話だ」
「ジュネヴァの血統なら、熱の分解はお手の物じゃろ」
なるほど、とクラリスは納得したが。
「いえ、あの…再現はちょっと」
無駄と分かりつつ、クラリスは抵抗する。
案の定、眉を寄せる不機嫌な彫像と化したキリアンが、下目遣いで睨んできた。
「話だけは聞いてやろう」
「あー、あの…見えたのはご夫婦だったので」
「そうだったな」
「そのぅ…仲睦まじくていらっしゃったので、まぁ、その…」
最大限に言葉を逃がすクラリスをみて、バルトロメウスはふむ。と頷く。キリアンだけが分からず、クラリスににじり寄った。
「だからなんだ」
「だからイチャイチャしてたんですよっ!」
「は?」
「は?じゃなくて。熱の調整に成功したら、二人で抱き合ったんです。嬉しくてそうするのは分かりますよ?そこまでは分かりますけど。その後キスして、そして、そして……っ」
情熱的に愛し合っていたところまで見せられた。余すところなく。
コアはなんでじっくり観察してたんだよ、と文句を言いたかった。
真っ赤な顔で、だから再現はヤダとゴネるクラリスをみて、キリアンが眉を寄せる。
「抱き合う以降は省略すればいい」
「…」
そりゃそうなんだけど。と心の中でクラリスが突っ込む。不服そうなクラリスを見下ろしながら、キリアンは、ははぁん?と笑った。
「ニンジンが望むのであれば、俺はやぶさかでないが?」
「望みませんよ?!」
「まぁ、俺としては女はふくよかな方が好みではあるが、お前は恩人でもあるしな。構わん」
「ねぇ馬鹿なの?」
咄嗟に出た暴言に、慌てて口を押さえたが遅かった。
仁王立ちになったキリアンの顔がヒクヒクと引きつっている。
「殿下、ごめんなさい」
速やかに土下座をするクラリスを見下ろし、キリアンは呟く。
「女から馬鹿など言われたのは初めての経験だ」
「…。良い経験をしたのぅ」
バルトロメウスののんびりとした声でクラリスは顔をあげる。存外に優しい表情をしていたキリアンが、少しだけ笑っていた。




