ニンジン色のクラリス・エヴァンジェリンは金色の王子と対峙した
目を覚ましたが、頭痛がする。
見覚えのない華やかな天井をぼんやりと見上げながら、クラリスは首をかしげた。
ここはどこだっけ。
目の奥の痛みと僅かに残る吐き気。起き上がると目が回る。かけられた布団から手を出すと、見慣れない衣類を着せられていた。
「…?」
頭をあまり動かさないように身体を改めると、それは触り心地の良いコットン生地の寝巻きだとわかった。
確かランヴァリオンについて、フェリクスに連れ込まれた婦人服の店で購入…した……。
「!」
記憶が一気に蘇る。と同時に、突き刺すような痛みが目の奥で火花を散らせた。
「いたぁい……!!」
頭を抱えながら、この状況になる前の事が思い出され、指先が冷え込んでいく。
たぶん、恐らく、絶対に、フェリクスの後から姿を見せたのは王太子殿下だ。
異常事態ではあったが(クラリスだけが)、かなりの失態を犯してしまった。高貴な身分の方の前で吐いたり鼻血を出したり。挙句、気絶したり。
「最悪だ…!どうしよう…」
顔色を失くして呻く。言い訳などできる相手ではない。不敬罪で牢に入れられても文句は言えない。
フカフカのベッドの上で恐怖に震えていると、部屋のドアが控えめにノックされた。
「!?」
「お嬢様、執事でございます。入室してもよろしいですか」
品のいい穏やかな声に、クラリスは上掛けを胸元まで引き上げる。
「どうぞ」
たどたどしく返事をすると、ドアが静かに開かれ、記憶に新しい老執事が入ってきた。
老執事はバルタザール・サヴァランと名乗った。
クラリスは丸1日寝込んでいたという。
勝手に着替えさせた事を詫び、また体調不良に気づかなかったことも詫びられた。
クラリスがまだ頭痛と吐き気があることを伝えると、医者を手配してくれると言う。診察が終わったら、風呂とご飯の準備もするから、どうかゆっくり寛いで欲しい。
バルタザールの穏やかな言葉に、クラリスはようやく息をついた。
「あの、バルタザールさん」
「なんでしょうか」
「ここは、こちらはどなたのお屋敷なのですか」
クラリスの問に、バルタザールは優雅に頷く。
「当宅は、カステロ公爵家が王家より預かっておりますタウンハウスでございます。現在はフェリクス様が管理されております」
「…あのバルタザールさん、もしかしてフェリクスさんは…公爵様…?」
「左様でございます」
公爵様だったのか。やっぱり高位階級の人だった。
色々と納得がいった。
そして、同時にここでもとんでもない不敬の数々を、フェリクスに対して仕出かしてしまった記憶が蘇る。出会い頭からしてそうだった。道中の船酔いで、船のへりで吐いてばっかりいた事も思い出す。
「…やってしまった」
「お嬢様?どうなさいましたか」
心配そうにこちらを気遣うバルタザールを見上げる。
「バルタザールさん、私…どうしましょう…。王太子殿下にもフェリクスさんにも、無礼な事ばかりしてしまいました」
クラリスの絶望的な言葉にバルタザールが微笑む。
「大丈夫でございますよ。お二人ともそのような些事を騒ぎ立てるようなことはなさいません」
些事…?些事なのかしら。
「でも、不敬罪にあたります…」
「そのようなことは無いと、このバルタザールがお約束いたします」
穏やかで力強い言葉に、何故だか涙が出てきた。
色々と思い出して布団を頭から被ると、バルタザールが医者を呼んでくると言って出ていく。
「帰りたい」
既に心は折られている。無事に帝国へ帰れる気がしないが、せめて折檻などの痛い事だけは免除してくれれば良いと密かに思いながら、クラリスは横になった。
「クラリス・エヴァンジェリンが、王太子殿下にご挨拶申しあげます」
一日置いて、クラリスは復活した。というよりは復活させられた。
バルタザールの他に、身の回りの世話をする侍女が二人付けられ、貴族令嬢に相応しい装いと化粧をしてもらった。
本日の服装は、港の婦人服店の軽量ドレスではなく、南国ランヴァリオンの貴族令嬢らしい軽くて涼しげな、それでいて美しいラインをしたドレスだ。
気を失っていた間に隅々まで計測されたのだろう。貧相な身体にフィットしているが、女性らしく洗練された刺繍が散らされていて、非常に着心地が良かった。
残念ながら、クラリスはこの美しいドレスの名前を知らない。だが、こういった雰囲気のドレスがクロークにズラリと掛けられていた。全てフェリクスが用意してくれたという…。
帝国式にカーテシーで挨拶をする先には、ソファに悠然と座り、長い脚を組む美青年がいる。
部屋の中は、金色の数式の渦が巻いており、ソファの主を中心に螺旋の嵐が起きていた。
ランヴァリオンの空気とは違う、焼き尽くすような熱がクラリスをつつき回している。これが美青年の視線の矢印であろう事がわかる。とにかく目を逸らさずに見られている事だけはわかった。
「長旅をさせて済まなかったな」
大してそう思ってもいない風に言いながら、顔をあげるように言われる。
目線を床に落としたまま、クラリスは大人しく顔をあげて王太子の言葉を待った。
「私はキリアン・オーリック・ランヴァリオン。ランヴァリオン王家の第一王子で王太子だ」
キリアン王子の自己紹介にクラリスは再度、ぎこちなく御礼を示すようにカーテシーをした。目に鮮やかな絨毯の模様が、クラリスを物珍し気に見上げてくる。模様同士で何かを囁き交わしている雰囲気を感じながら、クラリスはまたぎこちなく直立した。
クラリスを刺す黄金の熱が強くなった。
「クラリス嬢、フェリクスから何か聞いているか」
「えっと…」
「殿下が古代の蒸留機修復の依頼主であることは伝えてます」
緊張と怯えの色を隠しきれてないクラリスに代わり、フェリクスが淡々と告げる。
「ではどんなものを修復するのかもわかってるな?」
「はい」
「図面を見せました。不具合のある箇所に目星がある様子でした」
またもやフェリクスが答えると、絨毯の先にある王子のブーツの爪先が苛立ちを見せるように揺れる。
「フェリクス、お前は黙ってろ」
「…。失礼いたしました」
クラリスの視線の先で揺れていたブーツが絨毯に下ろされる。立ち上がった気配に、クラリスは身体を固くした。金色の数式がザワザワと騒ぎ出す。無意識の異能を発現させないように絨毯を見つめていると、視線の矢印熱がさらに強くなった。
大股で近づいてきたキリアンが、クラリスの目の前で立ち止まる。
「ニンジン色のクラリス・エヴァンジェリン。顔を上げて私の顔を見よ」
ニンジンって…。他の言いようは無いのかと思ったが、当然口にできない。
「あの、…恐れ多くて、その」
「不敬罪など問わん。牢獄にも入れん」
「なんでそれを?」
目線を上げかけて、慌てて逸らす。クラリスがわざと顔を合わせないようにしているのを確信したのか、キリアンは鼻で息をついた。
「そこのバルタザールが言っていた。私やフェリクスに対して不敬をやらかしまくって怯えているとな」
「!」
咄嗟にバルタザールのいる方を振り返る。彼は相変わらず穏やかに微笑んでいた。言ったでしょう?と。
「私は見ずにバルタザールは見るか」
強めの声に、観念したようにクラリスがノロノロと顔を上げていく。可能な限り最後の瞬間までキリアンを見ないように気をつけていたが、最後の最後で、怖ろしいまでに整った男の顔面が視界に飛び込んできた。
「ひ…」
飛び出そうになった悲鳴を飲み込んで、こちらを覗き込んできたキリアンの顔を見る。息を止めたまま。
1.2.3…
キリアンの少し長めの髪は緩いうねりがあり、日に焼けた茶色い髪に混ざる金糸のようなメッシュが、美しく瞬いていた。
激しく渦を巻いていた数式達が、いつの間にかシンと静まり返っている。
本来であれば、眼福と目を細めるクラリスだが。相手は王太子だ。これ以上の不敬を重ねたくないし、そんな余裕もない。
なんで数式達が静止してるんだろう?
そう思った瞬間、クラリスは咳き込んだ。
そこからゆっくり10を数える頃になって顔を背けて、さらに息を吐き出す。
肩で荒い息を繰り返すクラリスを見下ろしながら、キリアンが可笑しそうに声を上げて笑う。キリアンの向こうでは、フェリクスがやれやれといった顔でため息をついていた。
「フェリクス!よくやった」
上機嫌で声をあげるキリアンに、フェリクスが頭を下げる。何が何だか分からず顔を上げると、キリアンと目が合った。
「!」
「そう怯えるな、ニンジン」
若干残る咳に、バルタザールが優しく背中を叩いてくれる。
「恐れながら殿下。お嬢様に対して失礼が過ぎます」
バルタザールの言葉にキリアンは笑って流す。
座るように言われ、指し示されたソファに恐る恐る座ると、正面にキリアンが座った。
「!」
「ソファはお前を食わん。茶でも飲め」
バルタザールに指示を出してから、キリアンは座り直す。冷えきった指先を温めるように揉んでいると、温かい紅茶が差し出された。
「時間もないので率直に聴くが、お前は俺に何を見た」
反射的にフェリクスを伺いみると、彼は横目でこちらを見てから頷く。正直に話せ、と言うことらしかった。
ひどい船酔いをしていたが、少しだけ体調が良くなった時は、フェリクスと異能について話していた。
フェリクスが灰の谷で話していた、クラリスを調べあげた内容の答え合わせのようなものがほとんどであった。
全てが数式で見えること、やがてそれは言葉になり声となって聞こえてくることを信じられる人がどれだけいるのだろう。
考えるようにしていると、キリアンは美しい顔面を少しだけ前に伸ばしてきた。反射的に仰け反ると、彼はまた可笑しそうに笑う。笑うとひどく子どものように見えた。
クラリスは意を決して切り出す。
「キリアン殿下の周りに、黄金の数式が渦巻いて見えました。それらはぶつかりながら嵐を起こしているようで、そのせいで大音量の不協和音が直接頭の中に響いてきたので…その、吐いたり倒れたりしました」
ごめんなさい。と付け足すが、キリアンは一蹴した。
「他には。例えば今さっき」
顔を合わせた瞬間のことだろう。
「数式が静止してました。音も消えて、静かになったので…びっくりしました」
「息を止めてたのは?」
「…。また吐くかと思って…その…」
視線を意味している矢印熱が、さっきとは違う穏やかさで触れてきたのを感じた。きっと、気まずくなってモソモソと話すクラリスを、キリアンが珍しい動物を眺めるかのように見ているせいだろう。
これで満足か?というように顔をあげると、キリアンは革手袋をはめた手の甲に顎を乗せて、やはり興味深そうにこちらを見ていた。
キリアンを取り巻く数式は渦をまくことなく、静かに漂っている。
改めて気づいたが、これは異能を使って見ているのではない。溢れて止まらない源泉のような数式達は、キリアンが生来持っている力なのだろう。落ち着いて見ていれば、穏やかで安定しているのが本来の姿なのかもしれない。
クラリスを傷つけるものでは無いと理解できれば、自然と緊張も抜けた。
「落ち着いたようだな」
「…ご無礼ばかりしました。申し訳ありません」
「気にしてない。私も悪かった」
え?というあからさまな疑問が顔に出ていたのだろう。キリアンが肩をすくめた。
「王族の血統能力を知らせてなかったからな」
「血統、能力とは」
「フェリクスから予め説明させておくべきだったが」
そう前置きして、キリアンは話し始める。
両手にはめた革手袋を組んでこちらを見据えた。
「いいか、ニンジン。この世界には五つの大きな血の流れ……神の恩寵を宿した氏族がいる。
一つは、我がランヴァリオンの王家が宿す『放出・熱』。命の火そのものであるラムの熱量だ。男神ラムの恩寵を受けている。お前が見た私の黄金の数式はその片鱗と思っていい。
二つ目に、テキラナ。存在を香気へと作り変える『変換・香気』。女神アガベピニャが統治と祭祀、それぞれの王に分け与えた能力。
三つ目に、帝国。未来の演算によって全てを跪かせる『予知・支配』。男神ディオスノエタの先見を預かっている。
四つ目に、スピリタス。すべてを無に還し、白銀の静寂へ導く『濾過・還元』……謎多き原初の神、ヴァダの加護だ」
革手袋をはめた指が四本立てられた。
「さて、五つ目だが、どこの国の血統かわかるか?」
小さく首を振るクラリスに、キリアンは最後の指をゆっくりと立てる。
「五つ目は、帝国が歴史から抹消しようとしたジュネヴァの末裔。万物を素因数分解し、不純物を見抜く『解析・分解』……女神ジュニパーが司った知恵の氷と呼ばれる特異な力だ」
こくり。と唾を必死に飲み込んだ。カラカラに乾いた喉に、粘り気を帯びた唾液が引っかかる。
キリアンが深紅の瞳を細めた。
「お前の能力そのものだろう」
ドキドキと、心臓が骨を打つ。聴いていい話なのか。重大な秘密を打ち明けられた気がする。
天賦の才を磨いた先に発現したと思っていた能力が、実は女神から授かったとは。
父が話していた女神の恩寵の話がここで聞けるとは思わなかった。
「しかし、私は帝国の生まれです」
「女神ジュニパーの信徒だろう」
「それはそうなんですが」
無意識に胸から下げている懐中時計をドレスの上から触る。父の形見のこれは、代々受け継がれメンテナンスされ続けてきた物だった。
「何故エヴァンジェリン家が、帝国で禁教とされるジュニパーを信仰していると思う」
「分かりません。生まれた時からジュニパー様を崇めてたので」
「本当に何も知らんのか」
「…申し訳…」
「謝らんでいい」
ソファに持たれるように背を預けたキリアンは、淀みなく続ける。
「真実の信憑性など、膨大な時間の中に埋もれていく物だ。私が聞いている話を聞かせてやる」
クラリスが小さく頷く。
「……お前のその『解析・分解』の力は、帝国にとっては呪い以外の何物でもない」
冷めた瞳で、まるで遠くの燃える都市でも見ているかのように淡々と話すキリアン。
「帝国の誇る『ロイヤル・ヴィジョン(予知・支配)』は皇帝共が描く『完璧な未来のシナリオ』。ジュネヴァの知性は、万物を丸裸にする素因数分解。帝国側が邪眼と解釈し忌み嫌うのも相性が悪すぎるからだ。
その昔は、ジュネヴァ王国から帝国へ政略結婚の為に姫が送り出された程の友好関係を持っていたと聞く。だがいつの頃からか、その関係は断然され、ジュネヴァの血統を持つ当時の皇家(ミード一族)は一掃された。
何があったかはわからん。ただ一つ言えるのは、ジュネヴァの血統能力を強く引き継いだ王が、帝国に反旗を翻した事が発端だと言われている」
強大な帝国に、小国のジュネヴァが勝てるはずもない。無謀とも言える戦争は、あっけなく組み伏せられて終わった。
革手袋で覆い隠した手を固く組みながら、キリアンは続けた。
「ジュネヴァは傍流を密かに国外へ逃がしたと聞いている。恐らくその傍流家系がエヴァンジェリン家だろう。何故に帝国の片隅で爵位を貰ったかまでは分からんが、これで点と点が繋がっただろうよ。危険を犯してまで禁教信仰をする理由が」
皇帝に決して知られてはいけない信仰と能力。
キリアンの話す歴史が、クラリスの知らずに培ってきた価値観を保証していた。
「ニンジン。支配者にとって、自分の嘘を計算で証明してしまう存在など邪魔なだけだろう。
『解析』とは、言い換えれば『支配からの脱却』だ。だから帝国は、お前たちの血を歴史の塵にしようとした」
「そんな…」
「まぁ、そんな事もあったという話だ」
気を取り直すようにキリアンが脚を組みかえる。
やや疲れたように背もたれに腕をかけながら、キリアンは口を開いた。
「というわけで、お前はただのニンジンではなく、ジュネヴァの末裔であり、世が世なら王家の姫君ニンジンだ」
「はぁ」
ニンジンはもう定着したらしい。
「お前が空中に数式を見たり、色を見たり、言葉や声を聴くのは驚かん。血統能力なのだから当たり前の恩寵とみなす。私の暴れ回っていた熱を沈静させたのもお前の分解能力の一端だ。感謝してやってもいい。おかげで私も楽になった。今夜は数年ぶりによく寝れそうだ」
キリアンと目が合った。返事を待ってるらしい。
「あの、はぁ…。ありがとう、ございます…?」
本当にわかってるのか。と美しい顔面が僅かに歪められた。クラリスはクラリスで、なんで疑われているのか分からずに、少しだけ眉を寄せる。
ややあってから、キリアンが息をついた。
「さて、本題に入るが。古代の蒸留機の修復についてだ」
そうだった。
ここまでイレギュラーな展開や話ばかりですっかり忘れていた。
先程までとちがい、ぐっと背筋を伸ばしたクラリスを見て、キリアンがククッと笑った。
「顔つきが変わったな」
「そのために来ましたから」
真っ直ぐにキリアンを見るクラリスは、怯える元子爵令嬢ではなかった。
「ではクラリス嬢。早速、現地に向かおうではないか」
ニンジンから名前に変化したのは、クラリスの状態を見てそうしてるのだろう。
キリアンの周りの空気がさっきよりも落ち着いている。肩の荷がおりたのだろう。刺すように鋭かった放射熱のような数式達が、穏やかにフワフワと漂っている。
足取りも軽く先導し始めるキリアンの後を、フェリクスが大股で追い抜いて行った。
一気に説明されたので覚えきれなかったが、ジュネヴァの血統能力の解析と分解は、もしかしたら色々な可能性を秘めているのでは?と思う。
それでも対象物が喋り出す理由は見つけられないのだが、そんな事はどうでもよかった。
原因不明の病に苦しんでいたのに、病名がつけられた途端に楽になったような、変な感覚が胸に残る。
必死に隠してきた秘密を、ここでは隠さなくてもいい安心感が出たのかもしれない。
(ひとまず不敬罪と投獄は免れたみたいだから良かった……)
何かを誤魔化すようにそんなことを考えながら、クラリスは二人の後を追いかけた。




