第四話 前編(1)
五月の終わり、草木の青々としてくるころ。
「今日から一緒に勉強することになった橘州男です。 クニオって呼んでくれ」
黒板を背に、新品の学生制服を身に着けた男が微笑みながら自己紹介をした。クニオは、人生で初めて胃が痛くなった。静まり返った教室から、罵詈雑言やペンや消しゴムが飛んでこなかっただけでも良かったと安心したが、向けられている視線には決して好意などなかった。季節外れの転入生ほど、注目されやすいものである。そしてどのような人物が来たのか、様々な方面から観察し分析されるのである。彼らはしっかり見ただろう、転入生が黒髪の青年であることを。そして思ったに違いない、なぜこの学校に、よりよってこの教室に劣等人種がきてしまったのかと。
「……そんな乾いた寿司眺めるような目で見ないでくれよ。 同じ校舎の学生同志、仲良くしようぜ」
クニオなりのジョークであったが、座っている生徒からは一切の反応が得られなかった。いっそのことヤジでも飛んでくればやりやすかったのだが、生徒たちは無視を貫き通した。まるで壁と話しをしている気分になってくる。クニオは、とっさに担任教師の方に顔を向けるが、
「自己紹介終わったなら、さっさと席つけ」
けっしてフォローをしなかった。教師は、面倒くさいとばかりにファイルで顔を仰ぎ教団にあがる。そしてクニオが席に着く前に、学校行事のクラスマッチや連絡事項を軽く話し、職員室に行ってしまった。
クニオが現在いる場所は、東日本では高等学校、つまり高校である。木を基調とした明るい教室は、たちまち賑やかになった。クニオとお揃いの制服を着た生徒達は、他の生徒と会話するためや授業に必要なものを揃えるために立ち上がる。会話をする者たちの内容は、突然やって来た男の話題が主だった。クニオには会話の内容が聞こえなかったが、どんな内容なのかの想像は容易かった。クニオとしては、気になるならいっそのこと話しかけて来てほしいものだったが、生徒たちは遠巻きに見ているだけで結して近づいてこなかった。
クニオの代わりに、礼子の周りには人だかりができていた。いったい男は何者なのか、どうして学校にいるのか。はたまた礼子に文句を言う輩もいた。そんな質問の山に、礼子は嘘を交えながら当たり障りのない回答を繰り返した。
クニオは頭を抱えることを止め、諦めて授業の準備をし始めた。このあいだ渡された授業割表によると、一時間目は英語の教材が必要らしい。机の下から教材を引っ張り上げると、クニオは簡単に中を見直した。いくら英語の教科書のページをめくってみても、相変わらず内容が分からなかった。これがこの学校のレベルなのだと、再び頭を抱えだす。なにせこの学校は近畿では名の知れた進学校だったからである。くわえて、クニオは元から英語があまりできなかった。もはや学校の教育レベルが、どの位凄いレベルなのかわからない。
「……前途多難だぜ、泣けてくる」
誰にも聞こえないようにささやく。こんなことなら家に引きこもってバットでも振ってた方がマシだった。あの提案を受け入れた数日前の自身を殴りに行きたい心境だった。
数日前――――――。
「ねぇ、学校行ってみない?」
橘の屋敷の隅の部屋でくつろぐ男の元に、いきなり襖をあけて橘家当主の千代が入り込んできた。
「いったいどうされたのですか、お母様」
西日本に来てから二週間、すでに千代をそう呼ぶのに抵抗はなくなっていた。クニオは姿勢を正座にすると、千代は近くに腰を下ろし雑誌の様なものを渡す。 ――――国語の教科書であった、西でも基本的な言葉は東日本と大差なかったので教科書であることはわかった。しかし渡された意味は理解できなかった。
「せっかくなら礼子と同じ学校が良いわ。 こっちなら東より良い授業が受けられるし。 教科書と必要なものは全部用意してあげるから」
「待ってください‼」
勝手に話を進める千代を、クニオは必死に止めた。こういう千代のキテレツな思い付きが、面倒なことになると察していたからだ。差し出された教科書を千代に返すが、千代は更に大量の教科書を使って押し返してきた。
「いいのよ、面倒な手続きは私が済ましておくから、心配しないでね」
とどめに大量の教科書を俺の胸に押し込んで、千代はあっという間に出て行ってしまった。慣れ始めたことだが、あの突発的な思い付きで周りを振り回す千代の強引さには呆れてしまう。千代の思い付きの一番の被害者は、今まで一つ屋根の下で過ごしてきた礼子だった。その礼子は「すぐに慣れるわ」と言っていたが、慣れたころには胃に穴が開いて居そうな気がした。
千代は言葉通りすぐさま学校と話をつけると、あろうことか礼子と同クラスへの転入を決めてしまった。しかも恐ろしい事に、礼子への相談を一切なく手続きを完了してしまったのだ。このことを知った礼子は、発狂し真っ先に千代へ抗議の訴えをしていた。屋敷の何処で千代に考えを披露されたか知らないが、礼子の怒鳴り声が聞こえてきたのをクニオはしっかり覚えていた。結局礼子が何時もの様に折れたのだが、礼子はあれから機嫌が悪かった。今も淡々と会話をしているが、言葉の節々に苛立ちを感じさせる。
今思い返してみれば、なんと無茶苦茶なことだっただろうか。差別意識の強いフルヒトが通っている学校に、たった一人で乗り込もうだなんて。しかもクニオは学習レベルに対応できる学力を持っていなかった。たのみの礼子も近寄りがたかく、クニオは完全に孤立していた。
クニオがふさぎ込んでいると、英語教師が教室に入り教壇に上がった。教師は室内を見渡しクニオを見つけるが、特に何をするわけでもなく目線を落とした。生徒たちは、いつの間にか着席しており静かになっていた。 英語の授業が始まる。
クニオにとって苦しい時間が、やっと授業が終わった。教師が何を言っているのか、何を教えているのか分からなかったのだ。クニオが通っていた故郷の高校で真面目に英語を習っていれば、少しは太刀打ちできたかもしれない。それでも故郷の高校よりレベルの高い教育が行われていた、これが学校のレベルだったのだ。一時間目からこの調子なら、後の授業も準ずる難しさであることが想像にかたくなかった。 四苦八苦しているクニオに対して、新しいクラスメイトの反応は様々だった。笑う者に呆れているものもいただろう、内心憤慨している奴もいるかもしれない。クニオは「知ったこっちゃない、帰ったら千代に直談判して明日は来なくて済むようにしてやる」と胸の中で息巻いた。こっちだって来たくて来ているわけでないのだ。
クニオはフルヒトの教育水準の高さに、正直に言うと舌を巻いていた。西日本に来るまでは、フルヒトは力任せの脳筋化物のイメージを抱いていた。それが完全に打ち壊されてしまったのである。礼子から携帯を渡されたときから、嫌な予感はしていたのだ。もしかしたら東日本の人々は、力だけでなく技術や頭脳でも負けているのではないかと。こうしてフルヒト高校生に交じって授業を受け、その予感が間違っていなかったことを確信したのだ。クニオの学校を辞めようという決心は、実のところ臭い物に蓋をする気分に近かった。
舌を巻いたのはクニオだけでなく、教師やクラスメイトもそうだった。決してレベルが高くなかったが、劣等人種がそれなりの学力を持っていたからだ。彼らにとって、劣等人種が読み書きをし、しかも外国語の学習に従事していることが衝撃的な光景に映ったのだ。これは彼らの劣等人種のイメージを覆すものとなった。実際には東日本で教育を受けた人物だったわけなのだが、その事情を知っているのは礼子だけだった。




