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第三話 前編(1)


 この家に男がやってきたことが、礼子にとって非常に不愉快なことだった。礼子自身が男性を嫌っていたわけではなかったが、急に生活環境に異性が登場することが気疎いものにさせたのだ。

 彼女が家に男が来ることを千代から伝えられたのは、今日の朝だった。いつものように朝食を作ろうと台所に出向くと、朝に弱いはずの母親が機嫌よく待っていたので嫌な予感はしていた。その機嫌の良かった千代が、いきなり家族が増えると言い出し、もう一人分追加して朝食を作る様にと迫ってきたのだ。礼子は、普段から母親である千代の突飛な思い付きに振り回されているので、それなりの無茶ぶりは耐えられる自信があった。しかし今回は違った。一つ屋根の下で異性と、しかも劣等人種と暮らす。しかも千代が言うには、東側から連れてきたという面倒な事情もあるのだ。


 礼子は東側のことをよく知っていた。緩衝地帯から東のことを、一部の劣等人種が独裁体制をしく国とも言えないような地域であり、おまけに太平洋を挟んだ大国の属国として辛うじて存続するような、実力のない連中が住んでいる所のことだと評価していた。それに加えて、最近は緩衝地帯に自衛隊を出して活動させていることが、彼女には挑発されているように感じられ、ますます印象が悪くなっている。

 千代はそんな所から連れてきた男を、今日の朝にいきなり「家族にする」と言い出したのだ。普段は静かに従っていた礼子も、この時ばかりは抗議した。しかし千代は耳を貸さず、さらに着替えさせて「離れ」に連れてこいと切り返したのだ。今まで口喧嘩をして、礼子は千代を言い負かしたことがない。最後はすがる様に訴えたが、千代は「面倒見てあげて」ととり合いもしなかった。



 そして先ほど、やっと着替えさせて連れていくことができた。礼子にとって、今まで劣等人種と接する機会が何度かあった。しかしどの交流も、彼女の先鋭的な劣等人種像を緩和させるものにはならなかった。どれもビクついていたり、しょうもない事で謝り続けたりと卑屈な態度をとるものばかりだった。当然のことである。礼子のようなフルヒトを怒らせれば、命の危機なのだから。しかし、そんな卑屈な態度を取り続ける劣等人を、礼子はよく思っていなかった。たとえ何もかもが劣っていても、毅然とした態度をとるべきなのだ。そんなこともできない、誇りもないような生き方をする奴らが嫌いだった。


 そんな印象の悪い劣等人種の中で、今日やってきた男は礼子にとって最悪だった。まず服の着用方法が分からないことが、彼女がこれから受けるトラブルを悟らせてしまったのだ。もしかしたら東側の劣等人種は裸で過ごしているのかもしれない、そう自己をナダめつつ接したのだ。そして破れた障子である。男を離れに連れて行って、男の使っていた布団を畳もうと部屋に言ったら、障子紙が破れている事に気が付いた。男の眠っていた部屋の障子を礼子が貼り直したのは、つい最近のことだった。あの男が破ったことに間違いはない。さらに許せないことが、礼子を劣等人種であると言った事だ。こんなひどい侮辱を礼子は受けたことがなかった。


 礼子はどうしようもない怒りと嫌悪感を思い出しながら朝御飯を作っていた。しかも今日は苛立ちの原因であるあの男の分を含めて朝食を作らなければならないのだ。いったいいつまで男の食事も作らなくてはいけないのかと、礼子はいっそう気が滅入ってしまう。

 朝食を準備していると、離れからあの男がトボトボと歩いてくるのに気が付いた。見るからに歩き方がおかしく、足を引きずったり伸ばしたり屈伸しながら母屋に向かって来た。まるで猿だわという言葉を飲み込んで、男のところに向かう。

 礼子が男の近くに寄ると、男は気が付いて情けない声を出しながら手を伸ばした。


「なあ、支えてくれないか。 足がしびれててあるけないんだ」

「いやよ。 自分で立ちなさい」


 どうやら足が痺れていたらしい、馬鹿げた屈伸動作は痺れを紛らわすためのものだった。礼子は四苦八苦している男を見ると、腹立ちが収まってくることに気づいた。こんな弱く愚かしい存在に、不満をぶつけたり嘆いたりする自身が滑稽に思えたからだ。一種の諦めに近い感情である。

 この男がどれだけ礼子にとって面倒な相手でも、所詮は劣等。強く押し倒すだけで死んでしまう存在なのだ。


「ハァ、橘礼子よ。 よろしくなんて言わないわ」


 礼子は腕を組んで自身の名前を言い放った。決して仲良くなるつもりはないが、ともかく面倒は見てやるという気持ちの表れである。そんな自己紹介を受けて、目の前の男は少しだけ姿勢を正し「よろしく」と返した。


「俺の名前は――」


 そこまで言いかけた時に、礼子は男が紙を一枚持っていることに気が付いた。引っ手繰って広げると『橘州男』と書いてある。そういえば今朝、千代が男には新しい名前をつけると言っていたことを思い出した。まるでペットを飼うような気軽な発言だったが、東側で名乗っていた名前を続けることが危険であることが理解していたので特に反論はしなかった。礼子は無難に偽名を与える程度かと思っていたが、この紙には自身と同じ姓が書かれていたのである。ここで初めて千代の言った「家族が増える」の意味を正確に理解したのだ。


「クニオねぇ……。お母様は本当にこんな奴に橘の性をあげるつもりなのね」


 そう呟いて礼子は千代のいる離れを睨みつける。睨みつけることが、礼子にできる唯一の抗議だった。礼子は母親の頼みを正しく理解していた。つまり千代は、礼子にメンドクサイ世話を全て押し付けたのである。


「えっ、それクニオって読むの?」


 やっと痺れから解放された男が、離れとの視線に入ってきて紙を引っ張る。男は漢字が読めなかったのが恥ずかしかったのか、じゃっかん顔を赤らめた。小さく頭を掻く男を見て礼子は、劣等人種にも恥の概念があるのかと感心した。


「東の劣等人種は文字も読めないのね。 なんだかかわいそうだわ」


 礼子にとっては本気で憐れんでいたからこその発言である。生まれた場所、人種によってこうも優劣が出てしまうことが少し残酷に思えたからである。口角の上がった彼女を、男は怒ることをしなかった。怒りの感情以上に、自身の置かれている状況への疑問が大きかったからである。


「露骨に馬鹿にしないでくれ。 こっちだって大変なんだ。 本当にここは西日本なのか?」

「そうよ」

「君は本当にフルヒトなのか?」

「……そうよ」


 男はもはや西日本にいることを、納得せざるを得なくなっていた。きっと夢だ、質の悪い冗談だ、そんな現実逃避みたいなノゾミがついに絶たれてしまったのだ。


「まぁ、読めたところでどうでもいいけどな」


 男は、礼子をよそにスッキリとした表情で背伸びをした。それが今できる唯一の強がりだった。その動作の中で一瞬曇った表情を礼子は見逃さなかったが、あえて触れずに台所まで男を誘導しようとした。この男が何を思ったところで、自分にできることなどなかったからだ。

 素直について行く男は、礼子に後ろから質問をした。先ほどの離れで会った女性についてである。


「なぁ、あの人は何者なんだ?」

「私のお母様よ。 政治関係の仕事をしているわ」

「政治家か。 どおりで屋敷もでっかいわけだ」


 礼子は自らの母の素性を話すと、男は更に疑問を深めた。政治家のような立場のある者が、なぜ拉致の様なマネをしたのか。そして家に連れてきて家族扱いをするのか。礼子は男の疑問を聞いて「知らない」と簡単に答えた。


「どうせ戯れよ。 お母様が飽きれば東に帰れるわよ、きっと」


 この予想は礼子の希望を含んだ予測であった。どうせ男は直ぐに出ていく、自分はそれまで辛抱すれば良い。そうすれば簡単に日常に戻れるだろう。


 ともかく、この男に朝食を振舞わなければならなかった。劣等人種とフルヒトは、同じものを食べることができる。同程度の食事内容で、体の維持は可能なのだ。しかし男は東日本の出身である。口に合わない可能性もあったが、礼子は配慮せず調理を済ました。

 普段礼子は食事を一人で済ましていた。千代の食事のタイミングはバラバラで、一緒に食べることはマレであった。家での食事で、久しぶりに他人と食べることになる。


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