第6話 囚われの花嫁
軍勢は、ゆっくりと谷を上がってきていた。
歩兵の列が、まだ谷の曲がり角から湧きでてくる。百や二百ではなかった。
シュリンは、壁の虎の絵の前で眠る虎を見下ろした。
背中の傷に当てた布が、赤く染まっていた。寝息は深かった。肩を揺すっても、耳がわずかに動くだけだった。
この砦に兵が来れば、虎は見つかる。
眠ったままの虎に、槍が何十本も向けられる。二十両の首。
運んで逃げることはできない。あの大きな体だ。起きるのを待っていたら、間に合わない。
自分が下りていけば、兵はここまで来ないかもしれない。
来るかもしれない。
シュリンは、帯の小袋を、上から押さえた。手が、少しふるえていた。
それから、立ちあがった。
焚き火の跡から、燃えのこった炭を一本拾った。
虎の絵の横の、まだ白い漆喰の壁に、炭を当てた。
王宮では毎朝、師の前で手習いをした。背筋をのばし、筆を立てて。炭は、筆より太くて、書きにくかった。
——国境の砦。
この輿が着くはずだった先。ゴウの本陣。
少し考えて、もう一行、書き足した。
——前金の残りを、取りに来なさい。
帯の小袋を開けた。金のかんざしが、二本。
一本を、自分の短い髪に挿した。
もう一本を、眠る虎の前足のそばに、そっと置いた。
「前金よ」
虎の耳が、ぴくりと動いた。
シュリンは、虎の額の毛を、一度だけ撫でた。
それから、砦の門を出て、斜面を下りはじめた。
*
軍勢の先頭が、シュリンに気づいた。
槍が、いっせいにこちらを向いた。
シュリンは、止まらなかった。斜面の途中の、大きな岩の上に立って、軍勢を見下ろした。
「わたしは、シュリン」
声を張った。
「ゴウ将軍の花嫁よ。将軍に、会わせなさい」
兵たちが、ざわめいた。
やがて、列が左右に割れた。
黒い馬に乗った男が、ゆっくりと上がってきた。
大きな男だった。年は五十を過ぎているだろう。白いものの混じった髭を短く刈りこみ、黒い鎧の上に、毛皮の外套をはおっている。顔に、刀傷が一本走っていた。
男は、岩の手前で馬を止めた。
黒い馬が、鼻を鳴らした。耳を伏せて、一歩、後ずさった。
男は手綱を引いて、馬をおさえた。馬の耳を見た。それから、シュリンの手を見た。指先に、乾いた血がこびりついていた。
男の目が、静かだった。怒ってもいない。笑ってもいない。値踏みをする目だった。
「髪を、切られたか」
低い、よく通る声だった。
「惜しいことを」
「伸びるわ」
男の口もとが、わずかに動いた。
「わしがゴウだ。花嫁殿」
ゴウは、手綱を握りなおした。
「ゲンは、良い将だった」
シュリンの指が、こわばった。
「城の門で、三日、持ちこたえた。わしの兵を、ずいぶん死なせてくれた。……惜しい男だった」
シュリンは、膝の横で、手を握りしめた。指の節が、白く浮いた。
顔は、動かさなかった。
「取引をしましょう」
声は、ふるえなかった。
「ほう」
「わたしは、もう逃げない。あなたのところへ行くわ。婚礼も挙げる。そのかわり、山狩りはやめて」
「虎か」
「虎は、山の奥へ逃げたわ。わたしを置いて」
ゴウの後ろに、もう一頭の馬がいた。乗っているのは、バイだった。黒い外套は泥にまみれ、片頬が擦りむけていた。剣を、帯びていなかった。
ゴウは、振りむかずに手を出した。
「バイ。札を」
バイの顔が、こわばった。
それから、腰に下げた黒い札を外して、ゴウの手に載せた。副将の印だった。
「剣を拾えぬ者に、兵は預けられぬ」
ゴウは、札を自分の懐にしまった。
「泥が、よく似合う」
バイは、何も言わなかった。顔を伏せた。
ゴウは、尾根の上の、焼けた砦を見あげた。
シュリンは、息を止めた。
「物見を出せ。あの砦を見てこい」
「わしが」
兵のなかから、声がした。
白髪まじりの、年寄りの兵だった。焼けた砦の前で、片膝をついた兵だ。
年寄りの兵は、シュリンのほうを見なかった。まっすぐに、斜面を登っていった。
長い時間がたったように思えた。
やがて、年寄りの兵が、斜面を下りてきた。
「もぬけの殻でございました。焚き火の跡と、血の跡のみ。山の奥へ向かう足跡が」
ゴウは、年寄りの兵の顔を、しばらく見ていた。
それから、馬の耳を見た。まだ、伏せたままだった。
「よかろう」
ゴウは、馬首を返した。
「山狩りはせぬ」
シュリンは、拍子抜けした。
「門ひとつの石の砦で、手負いの獣を狩れば、兵を何十と失う。バイが、それを見せてくれた」
ゴウは、肩ごしに言った。
「それに、眠っている獣を突いたと言っても、民は信じぬ。兵どもの目の前で、起きている虎を討ってこそ、話が民に伝わる」
シュリンの背中が、冷たくなった。
「花嫁殿。あの虎は、あなたを置いて逃げたりはせぬよ。放っておけば、向こうから来る。……こちらの庭へな」
ゴウは、年寄りの兵に顎をしゃくった。
「お前。あの砦に残って、見張っておれ。虎が山から戻ったら、知らせに来い」
「……はっ」
「国境の砦へ戻る。花嫁殿を、輿に」
兵が、シュリンのまわりに集まってきた。
年寄りの兵は、斜面の上へ戻っていった。一度だけ振りかえって、ほんのわずか、シュリンに頭を下げた。
*
国境の砦は、焼けた見張り台とはまるで違った。
高い石の壁が、谷をふさぐように建っていた。壁の上に、黒い旗が何十本もひるがえっていた。門は二重で、そのあいだに、石畳の広場があった。
シュリンが通されたのは、奥の楼閣の、二階の部屋だった。窓には、格子がはまっていた。
戸が開いて、娘が一人、入ってきた。
十五、六の、痩せた娘だった。目が細く、口がとがっている。腕に、衣装の箱を山のように抱えていた。
「スイ。あんたの世話係」
娘は、箱をどさりと床に置いた。
「ついでに、見張り。逃げたら、あたしが鞭で打たれる。だから逃げないで」
「正直なのね」
「嘘ついても、得しないもん」
スイは、箱を開けた。
赤い衣が、出てきた。金糸の鳳凰。青い裏地。峠で着ていたものよりも、さらに重たそうな、婚礼の衣だった。
それから、冠。金の台に、紅玉と翡翠。赤い花の飾り。金の房が、何十本も垂れていた。
「重っ。これ、首折れない?」
「折れないわ。慣れてるもの」
スイが、シュリンの野良着の帯をほどいた。
帯の内側から、布の袋と、小さな小袋と、布にくるんだ髪の束と、質札が落ちた。袋のなかで、銀貨がじゃらりと鳴った。
スイの手が、止まった。
シュリンは、黙って、ひとつずつ拾った。新しい婚礼の帯の内側に、押しこんだ。
スイは、それを見ていた。
それから、何も見なかったような顔で、衣を広げた。
衣を着せ、帯を締め、短い髪をうなじの上で小さなまげに結った。前髪はそのままにした。
最後に、冠を載せた。
かんざしで、留めていった。十二本。
冠が重い。
首に、ずしりと来た。額の上で、金の房がしゃらしゃらと鳴った。
鏡のなかに、婚礼の花嫁がいた。赤と青と金の衣。鳳凰の冠。切りそろえた前髪の下の、笑わない目。
峠を出たときと、同じ顔だった。違うのは、髪の長さと、帯の内側の銀貨だった。
「スイ」
「なに」
「あなた、お金は好き?」
スイの細い目が、少しだけ大きくなった。
「……嫌いなやつ、いる?」
シュリンは、銀貨を一枚つまみだした。
「この砦の、見取り図が欲しいの。描ける?」
「……一枚じゃ、無理」
「いくら?」
「十枚」
「五枚」
「八枚」
「七枚。それと、婚礼の夜の見張りの交代を教えてくれたら、もう十枚」
スイは、口をぱくぱくさせた。それから、銀貨を、さっと袖のなかにしまった。
「……あんた、ほんとに姫さま? 商人の娘じゃなくて?」
「よく言われるわ」
*
まる一日が過ぎて、次の日が傾き、焼けた見張り台のなかが赤く染まったころだった。
レツは、目を開けた。
石の床が、冷たかった。体を起こすと、まわりに、血のついた布と、ほどけた細縄が落ちていた。背中が、ひきつれるように痛んだ。
人の手だった。
「……シュリン?」
返事は、なかった。
砦の隅に落ちていた赤い上衣を拾って、体に巻いた。
足もとで、何かが光った。
金のかんざしが、一本、石の上に置いてあった。
拾った。それから、壁を見た。
虎の絵の横に、炭で、字が書いてあった。まっすぐで、きちんとした字だった。手習いの手本のような字だった。
——国境の砦。
——前金の残りを、取りに来なさい。
レツは、しばらく、その字を見ていた。
手のなかの、かんざしを見た。
「……前金の残り」
声が、かすれた。
「一本じゃねえか。……二本って、言ったろ」
笑おうとした。
笑えなかった。
レツは、壁に背中をあずけて、ずるずると座りこんだ。かんざしを、握りしめた。
峠では、一晩だった。宿のあとは、ほぼ一日。今度は、窓の外の空を見ても、どれだけ眠っていたのか分からなかった。
次にあれになったら、戻ってこられるのか。
レツは、自分の手を見た。握って、ひらいた。
それから、立ちあがった。
壁に立てかけてあった弩を、肩にかついだ。外の石の上に置き去りになっていた、バイの剣を拾った。
構えた。一振りした。
夕日のなかで、刃が鳴った。いい剣だった。
「……悪くねえ」
かんざしを、懐の奥にしまった。
門を出ようとしたとき、外で、砂利を踏む音がした。
門の外に、白髪まじりの、年寄りの兵が立っていた。
兵は、レツの顔を見ると、その場に片膝をついた。
「……レツ様」
「様はやめろ。あんた、誰だ?」
「ロウと申します。ゲン将軍の麾下で、三十年、槍を担いでおりました。九年前の北の遠征にも、おりました」
ロウは、顔を上げた。
「きのう、ゴウに物見を命じられて、この砦に参りました。あなた様が、ここでお眠りでした。……もぬけの殻と、申しあげました。そのまま、ここを見張れと言われて、残っておりました」
「……物好きなじいさんだな」
「物好きは、ゲン将軍のほうでございます」
ロウは、言った。
「あなた様が谷へ落ちたとき、わしは、崖の上におりました。綱を下ろせと、将軍は言われた。綱は、谷底まで届きませなんだ。三日、崖の上で待った。けれど、谷底は霧で、何も見えなんだ。……四日めに、撤収の命が下りました」
ロウは、また頭を下げた。
「お迎えに、行けませなんだ」
レツは、長いあいだ、黙っていた。
それから、焼けた天井を見上げた。
「……三日も待ってたのかよ。将軍も、物好きだな」
声が、少しだけ、震えていた。
「で?」
「姫さまのことを」
ロウは、懐から、折りたたんだ布を出した。広げると、炭で描いた砦の図だった。
「婚礼は、明日の夜と決まりました。昼過ぎに、食い物を運んできた同郷の者から聞いたのでございますが。弓を三十、城壁と楼閣の屋根に伏せる。毒の矢だと。……それと、婚礼の夜、外の門の当番は、わしらセイランの兵だそうで」
「へえ」
「わしらは、門を開けておきます。わしらは、もう、あなた様にも、姫さまにも、剣は向けませぬ」
レツは、布の図を受けとった。
外の門と、内の門。そのあいだの、四角い広場。広場を囲む城壁。
しばらく、黙ってそれを見ていた。
「……外の門は、開けとけ。それだけでいい。あとは、俺がやる」
「しかし、毒矢が——」
「知ってる」
レツは、図を懐にしまった。かんざしの横に。
それから、にやりと笑った。いつもの、ふてぶてしい笑いだった。
「前金の残りを、取りに行かなきゃならねえんだ。雇い主が、そう書いてる」
*
婚礼の前の晩、ゴウが、シュリンの部屋に来た。
スイは、部屋の隅で、小さくなっていた。
ゴウは、窓辺の椅子に腰を下ろした。格子ごしに、暗い山を見ていた。
「明日の夜だ」
「知っているわ」
「虎は、来る」
ゴウは、山を見たまま言った。
「外の門は、降った兵どもに任せた。あれらは、虎を通すだろう」
シュリンは、息をのんだ。
「通したら、門を閉める。門のあいだの広場が、虎の墓だ」
ゴウは、それ以上は言わなかった。ようやくシュリンを見た。
「花嫁殿の席は、楼閣の露台だ。広場が、よく見える」
シュリンの指先が、冷たくなった。
「虎を仕留めたら、その首を広間に飾って、婚礼を挙げる。民も、それを聞けば、誰に従えばよいか分かろう」
「……どうして、そこまでするの?」
「花嫁殿は、民の心の在りかだ。虎は、花嫁殿の心の在りかだ」
ゴウは、低く言った。
「西の都の陛下は、遠い。この地は、わしが治める。在りかを二つとも手に入れねば、国は手に入らぬ。……たかが近衛崩れ一匹、首にしてしまえば、花嫁殿の心も、どこへも行けぬ」
シュリンは、ゴウの目を見かえした。
静かな目だった。怒りも、欲も、見えなかった。
この男は、愚かではない。だから、怖かった。
「あの人は、来るわ」
シュリンは、言った。
「来て、あなたは、後悔するわ」
ゴウは、怒らなかった。低く、笑った。
立ちあがって、シュリンの前に来た。
大きな手が、のびてきた。シュリンの冠の、金の房を一本、指先でつまんで持ちあげた。
「明日の夜からは、その目も、わしのものだ」
シュリンは、目をそらさなかった。
ゴウは、房を離した。房が、しゃらりと鳴った。
戸の前で、ゴウは足を止めた。
「その、髪のかんざし。その冠のものとは、細工が違うな。セイランの宮中の品か」
「前金の、残りよ」
ゴウは、意味が分からないという顔をした。
それから、肩をすくめて、出ていった。
*
戸が閉まると、シュリンは、その場に座りこんだ。
冠が、急に重くなった。
髪に挿した、一本だけのかんざしに、指で触れた。
門のあいだの広場。虎の墓。
あの人は、それを知らない。
知らずに、来る。
来ないで、と思った。
来て、と思った。
どちらも、本当だった。
シュリンは、格子の窓の外を見た。暗い山が、星の下に黒く横たわっていた。
スイが、部屋の隅から這いだしてきた。
「……あんた、ほんとに怖いもの知らずだね」
「怖いわよ」
シュリンは、自分の手を見た。まだ、震えていた。
「怖くても、言うことは言うの」
スイは、しばらくシュリンを見ていた。
それから、袖のなかから、小さく折りたたんだ紙を出した。
「……見張りの交代。明日の夜、亥の刻。乾杯があって、裏の番にも酒が回る。楼閣の裏の回廊が、四半刻だけ、空く」
「残りの十枚ね」
「……五枚でいい」
スイは、そっぽを向いた。
「……鞭。あいつの命令なんだ。あたしの前の世話係、それで、歩けなくなった」
シュリンは、黙って、銀貨を十枚、スイの手に握らせた。
*
婚礼の夜が来た。
門のあいだの広場に、篝火が焚かれていた。太鼓が、腹の底に響くように鳴っていた。兵たちが、酒の甕を運んでいた。
シュリンは、楼閣の回廊を歩いていた。
赤と青と金の衣。鳳凰の冠。金の房が、一歩ごとに、しゃらしゃらと鳴った。
両脇に、兵がついていた。前を、スイが灯りを持って歩いていた。
見あげると、城壁の上にも、楼閣の屋根の上にも、黒い影がいくつも伏せていた。弓の影だった。広場の隅には、槍の穂先と、巻いた網が見えた。
冠が重い。
けれど、峠の輿のなかで感じた重さとは、どこか違った。
シュリンは、回廊の端で、足を止めた。
「花嫁殿?」
「……静かに」
夜風が、尾根のほうから吹いてきた。
太鼓の音の切れ目に、それは聞こえた。
遠い尾根のほうから。低く、長く、夜を渡ってくる声。
虎の咆哮だった。
回廊の兵たちが、ざわめいた。
城壁の上の弓の影が、いっせいに、尾根のほうへ向きなおった。
シュリンは、前を向いた。
冠の金の房の下で、誰にも見えないように、少しだけ、笑った。




