第5話 虎のほかは
月の出ない夜だった。
二人は、川から離れて、山へ入った。
レツが先を歩いた。肩に弩をかつぎ、裏返しの赤い上衣の裾を、膝のところで縛りあげている。足もとは、片方だけ草鞋だった。
包みに入れておいたレツの替えの草鞋は、川を渡ったときに片方が流された。残った片方を、シュリンが無理やり履かせたのだ。
「片方だけ履いてどうすんだよ」
「両方痛いより、片方のほうがましでしょう」
そう言われて、レツは黙って右足に履いた。
「見られたからな。夜のうちに、できるだけ稼ぐ」
「どこへ行くの?」
「この尾根を三つ越えると、国境の峠だ。ゴウの本陣の脇を抜ける裏道でな。目と鼻の先だが、抜けちまえば手は届かねえ」
けれど、月のない山道は、思っていたよりずっと暗かった。
シュリンは、何度も石につまずいた。三度めに膝をついたとき、レツが振りむいた。
レツの裸のほうの足が、黒く濡れているのが見えた。
「……あなた、足」
「あんたこそ、膝」
夜半を過ぎたころ、尾根の上に、黒い影が見えた。
石を積んだ、四角い建物だった。屋根が半分、落ちていた。
「見張りの砦だ。……いや、だったもんだ」
近づくと、焦げた匂いがした。古い匂いだった。門の扉はなく、焼け落ちた柱の跡だけが、門の両脇に黒く残っていた。
レツは、砦と、真っ暗な山道とを見くらべた。
「夜明けまで、ここで休む。この暗さで尾根を歩くほうが、よっぽど危ねえ」
「火は?」
「壁の奥で焚けば、外からは見えねえ。小さくな」
*
レツが、落ちた梁の端を集めて、奥の壁ぎわに小さな火をおこした。
火が燃えあがって、壁を照らした。
シュリンは、息を止めた。
正面の壁に、絵があった。
虎の絵だった。
漆喰の壁いっぱいに、大きな虎が描かれていた。煤で半分黒くなっていたが、金色の目と、黒い縞は、まだ見えた。前足を踏んばって、こちらをにらんでいる。
セイランの守り神の、虎だった。
兵の詰め所や、城の門や、王宮の大広間に、いつも描かれていた虎。
シュリンは、火のそばに座った。干し肉を取りだして、半分をレツに渡した。自分の分を、かじった。
味が、しなかった。
「……一年前」
シュリンは、火を見たまま言った。
「城が落ちた夜。わたし、奥庭に行ったの」
レツが、干し肉をかじる手を止めた。
「宮殿のあちこちから、火が出ていた。侍女たちが、こっちへ、こっちへって、わたしの手を引っぱった。でも、わたし、振りほどいて、奥庭へ走ったの」
薪が、ぱちりとはぜた。
「虎の囲いの、鍵を開けようと思って。年寄りの虎が、いたでしょう。あの子、もう、ほとんど歩けなかったの。囲いのなかにいたら、逃げられないと思って」
シュリンは、膝を抱えた。
「鍵は、侍従長が持っていたの。わたしは、持っていなかった。格子を引っぱったわ。揺すったわ。開かなかった」
声が、平らだった。平らにしようとして、平らになっていた。
「あの子、格子のそばまで来て、わたしの手を、舐めたの。それから、侍女たちが来て、わたしを担いで、連れていった」
火が、壁の虎を、ゆらゆらと照らしていた。
「翌朝、奥庭は、全部、焼けていたって」
シュリンは、膝に顔を押しつけた。
肩が、震えはじめた。
声は、出さなかった。出さないようにしていた。それでも、息が、ひきつれるように漏れた。
一年、泣かなかった。
離宮に閉じこめられても。父上と兄上たちの訃報を聞いても。仇の妻になれと言われても。王女は、人前で泣かないものだった。
それが、いまになって、止まらなかった。
火の向こうで、レツが身じろぎする気配がした。
手が、こちらへのびてきた。
シュリンの肩に触れる手前で、止まった。宙で、しばらく迷っていた。それから、引っこんだ。
薪を一本、火にくべる音がした。
もう一本。
それから、レツが立ちあがった。
足音が、火のまわりを回った。シュリンの横を通りすぎて、壁のほうへ行った。
シュリンは、膝から、少しだけ顔を上げた。
レツが、壁の虎の絵の前に、あぐらをかいて座っていた。
シュリンに、背中を向けて。
「……俺は、あの虎を見張ってる」
壁の虎を見たまま、レツは言った。
「虎のほかは、何も見てねえよ」
*
涙が、止まった。
シュリンは、レツの背中を見ていた。
くすんだ茶色の、上衣の背中。
その向こうに、別の背中が、重なって見えた。
池のほうを向いて立っていた、若い兵の背中。
夜の奥庭。絹の衣の膝についた土。格子の向こうで片目だけ開けていた、年寄りの虎。叱られると思って、唇が震えていた。
——私は、虎を見張っております。
——虎のほかは、何も見ておりません。
あのとき、自分は笑ったのだ。声を出して。宴の広間では、一度も笑わなかったのに。
侍女の灯りが来るまで、あの背中は、ずっとそこにあった。
「……いまの」
声が、かすれていた。
「もう一度、言って」
レツの背中が、固まった。
振りむかなかった。
「九年前」
シュリンは、ゆっくりと言った。
「叔父上が、北へ魔物を退治しに行く前の晩。宴のあとの、奥庭。虎の囲いの前で、わたしに背中を向けて、立っていてくれた人がいたの」
レツは、何も言わなかった。
「叔父上の側近だった、若い兵。名前も知らなかった。北で、魔物に食べられたって、あとで聞いたわ」
壁の虎の、金色の目が、火に揺れていた。
「……あなたなの?」
長い沈黙だった。
「……さあな」
「レツ」
「…………」
「こっちを見て」
「見張り中だ」
シュリンは、立ちあがった。
火のそばを回って、レツの横に行った。壁の虎とレツのあいだに、しゃがみこんだ。
レツの顔を、のぞきこんだ。
レツは、目をそらさなかった。そらす先が、なかった。
「……あなたなのね」
「…………ああ」
レツは、観念したように、息を吐いた。
「食われてねえよ。ご覧のとおりだ」
「どうして」
シュリンの声が、また、震えかけた。
「どうして、帰ってこなかったの?」
レツは、壁の虎を見上げた。
「北の山で、でかい魔物とやりあった。虎みてえなやつだ。組みあったまま、谷底まで落ちてな」
軽い声だった。昔話でもするような。
「谷底で、どうにか仕留めた。仕留めたけど、そいつの血を、頭からかぶった。……で、こうなった」
レツは、自分の手を、ひらいて見せた。
「何日か谷底で待ってたが、迎えは来なかった。まあ、あの崖じゃ、死んだと思うわな」
「……」
「最初は、ちょっとがっかりしたけどな。虎の耳つけたまんま、都に帰れるわけもねえ。で、あちこち流れて、用心棒やって、饅頭食って、昼寝して」
レツは、にやりと笑った。
「そしたら、こっちのほうが、ずっと気楽でよかった。礼儀作法も、上官も、宮仕えもねえ」
シュリンは、黙ってそれを聞いていた。
「叔父上は」
シュリンは、言った。
「一年前、城の門で、亡くなったわ」
レツの笑いが、消えた。
「……知ってる」
短い声だった。
「峠の向こうの町で、聞いた」
それ以上、レツは何も言わなかった。
シュリンも、何も聞かなかった。
火が、ぱちぱちと鳴っていた。
シュリンは、レツの横に、壁を背にして座りなおした。二人で、壁の虎に並ぶ形になった。
「あの夜」
シュリンは、火を見ながら言った。
「あなたが、背中を向けてくれたから、わたし、一度だけ笑えたの。お城にいるあいだで、たった一度だけ」
レツは、答えなかった。
「峠でも、そうだったわね。休みのとき、わたしが薄絹を上げても、あなただけ、こっちを見なかった」
「……あれは、昼寝してただけだ」
「あくびをして、山を見てたわ」
「……」
「それに、最初の朝。『姫さま、お怪我は』って言って、言いなおしたわね」
レツが、ぐっと詰まった。
「……耳と一緒で、引っこまねえんだよ。ああいうのは」
レツは、ふいっと顔をそむけた。耳の先が、赤かった。人の耳だった。
*
火が小さくなったころ、シュリンは、ふと言った。
「……いつから、気づいてたの? わたしだって」
「麓の町で、花嫁行列の噂を聞いたときだ。セイランの姫が、ゴウのとこへ嫁がされるってな」
レツは、火に薪を一本くべた。
「……だから、用心棒に雇われに行った。峠で輿の薄絹が上がったとき、顔は見なかったが、声で分かった。最初の朝に顔を見て、間違いねえと思った」
「最初から」
「最初からだ」
「言ってくれればよかったのに」
「言えるかよ。九年前に死んだはずの、下っ端の兵です、なんて」
レツは、鼻を鳴らした。
「それに、貴族さまには近づかねえことにしてんだよ。面倒くせえから」
「もう、近づいてるわ」
「……雇われてんだから、しょうがねえだろ」
シュリンは、膝を抱えて、壁の虎を見上げた。
「近衛に、戻る気はないの?」
「ねえよ」
レツは、即座に言った。
「近衛には戻らねえぞ。……用心棒なら、続けてやる」
シュリンは、壁の虎を見たまま、少しだけ笑った。
「この虎、少しあなたに似てるわ」
「どこがだよ」
「目が」
レツは、何か言い返そうとして、やめた。
それから、ごろりと横になって、背中を向けた。
「寝ろ。見張りは、俺がやる」
「虎を見張るの?」
「……うるせえ」
シュリンは、横になった。
目を閉じる前に、レツの背中を、もう一度だけ見た。
九年前と、同じ背中だった。少しだけ、広くなっていた。
*
肩を揺すられて、目が覚めた。
まだ暗かった。レツが、門の脇に立っていた。瞳が、金色に光っていた。
「起きたか。……騎馬が二十。尾根を登ってくる」
シュリンは、跳ね起きた。
「いつから?」
「とっくに聞こえてた。けど、真っ暗な尾根道で囲まれるよりは、門がひとつの砦で迎えたほうがましだ」
崩れた壁の隙間から、外をのぞいた。斜面を、松明の列が上がってきていた。宿で散らした馬を、集めなおしたのだ。先頭に、黒い外套が見えた。
騎兵たちが、砦の前で馬を下りた。馬は、斜面の下の木立につながれた。剣を抜き、槍をそろえて、兵たちが門へ迫ってきた。
門は、人ひとりが通れる幅しかなかった。
レツは、壁に立てかけた弩を、ちらりと見た。
「使わないの?」
「毒矢は、人には使わねえ」
最初の兵が、槍を突きだして飛びこんできた。
レツは、穂先をかわした。柄をつかんで、引いた。つんのめった兵の腰から剣を抜きとって、兵を門の外へ蹴りかえした。
兵は、後ろの兵を巻きこんで転がった。
「よし。得物、いただき」
レツは、奪った剣を一振りした。
「ちょっとだけな」
腕に、黒い縞が走った。頭の上で、丸い耳が跳ねあがった。
門の外で、兵たちがどよめいた。
「耳だ!」
「手配書の、虎男だ!」
二人めが斬りこんできた。レツは、剣で受けて、流した。流した勢いのまま、柄頭で兵の顎を打ちあげた。三人めの槍は、刃で叩き折った。刃が欠けて、火花が散った。四人めは、刃の平で横っ面を張って、門柱に叩きつけた。
誰も、斬られてはいなかった。
動きに、迷いがなかった。
荒っぽい用心棒の剣ではなかった。足の運びが、まっすぐだった。受けて、流して、打つ。そのたびに、体の軸がぶれなかった。
シュリンは、知っていた。
王宮の中庭で、近衛の兵たちが朝ごとに稽古していた、あの剣だった。
シュリンは、崩れた石段を駆けあがった。砦の、半分落ちた屋根の上に出た。
下に、兵たちの頭が見えた。門の前でひしめいている。そのなかに、ためらうように後ろへ下がっている兵が、何人かいた。
峠の行列で、弓を下ろした兵と、同じ顔つきだった。
シュリンは、屋根の端に立った。
明けがたの風が、短い髪を巻きあげた。
「セイランの兵は、下がりなさい!」
声が、尾根に響いた。
門の前の兵たちが、いっせいに屋根を見上げた。
「わたしは、シュリン。セイランの王の娘です。あなたたちが斬ろうとしている人は、ゲン将軍の側近だった、セイランの近衛です。セイランの兵が、セイランの近衛に剣を向けるの?」
兵たちのなかで、ざわめきが起きた。
後ろのほうにいた、白髪まじりの兵が、門のレツをじっと見た。
「……近衛の、レツ様?」
その兵は、目をみはっていた。
「ゲン将軍の、側の……生きて、おいでだったのか」
門の下で、レツが、虎の耳を立てたまま、屋根を見上げた。
「……ばらすなよ」
ぼそりと言った。
白髪まじりの兵が、剣を下ろした。それから、その場に片膝をついた。
まわりの兵が、一人、また一人と、剣を下ろした。四人、五人。黙って、門の前から離れていった。
門の前の列が、乱れた。
「下がれ」
静かな声がした。
兵たちが、左右に割れた。
黒い外套の男が、門の前に歩みでてきた。
バイだった。
*
「約束どおり、人の姿だな。近衛殿」
バイは、剣を抜いた。
「名を聞いておこう」
「レツ」
「レツ。……覚えておく」
バイが、踏みこんだ。
剣と剣が、ぶつかった。
宿の裏庭のときとは、違った。
今度は、レツが押していた。
バイの剣は、速かった。角度を変えて、同じところを狙ってきた。けれど、レツの剣は、それを受けなかった。受けずに、流した。流して、一歩踏みこんだ。
バイが、下がった。もう一合。レツが、また一歩踏みこんだ。バイが、また下がった。
七合め。
レツの剣が、バイの剣の根もとを、下から跳ねあげた。
バイの剣が、くるくると回って、宙を飛んだ。石の上に落ちて、乾いた音をたてた。
門の前が、しんと静まった。
レツは、切っ先を、バイの喉もとに突きつけた。
「……二十両じゃ、安すぎたろ?」
バイは、喉もとの切っ先を見下ろした。
それから、小さく笑った。
「ああ。安すぎた」
バイの目が、ほんの一瞬、尾根の上の岩陰へ動いた。
レツの虎の耳が、ぴくりと立った。
岩陰のほうから、かすかな音がした。
ぎり、と、弦を引きしぼる音だった。
「一人ずつ門に当てたのは——」
バイが、ゆっくりと片手を上げはじめた。
「弓を、岩陰に回すあいだの、時間稼ぎだ」
バイの手が上がりきる前に、レツは、もう動いていた。
バイの胸を蹴り倒した。そのまま、振りむきもせずに、崩れた石段へ跳んだ。
「射て。……娘には当てるな。あの男が、必ず受ける」
バイの声が、背中で聞こえた。
弦が、鳴った。
シュリンは、屋根の上にいた。矢が、来るのが見えた。
見えたのに、体が動かなかった。
横から、何かがぶつかってきた。
レツの腕だった。
石段を駆けあがってきたレツが、シュリンを胸に抱えこんで、そのまま屋根の上に押し倒した。
どすっ、と鈍い音がした。
二本め。三本め。
シュリンの顔のすぐ上で、レツの体が、そのたびに揺れた。
「……っ」
シュリンは、レツの胸の下で、目を見ひらいていた。
「レツ」
レツは、シュリンを抱えこんだまま、少しだけ顔を上げた。
額に、汗が浮いていた。口もとが、引きつっていた。それでも、いつもの、ふてぶてしい顔を作ろうとしていた。
「……怪我、ねえか」
かすれた声だった。
「——姫さま」
次の瞬間、レツの目が、金色に燃えあがった。
縞が、腕から肩へ、肩から首へ、止まらずに走った。抗う暇もなかった。
シュリンを抱えていた腕が、太い前足に変わっていった。
レツは、シュリンの上から、転がるようにどいた。
突きたった矢ごと、背中の肉が盛りあがり、毛がざわりと逆立った。
吠えた。焼けた石の壁が、びりびりと鳴った。
*
斜面の下の木立で、馬たちが狂ったようにいなないた。手綱を振りほどいて、散っていった。
虎は、屋根から跳んだ。
門の前の兵たちが、悲鳴をあげて散った。
虎は、まっすぐにバイへ向かった。
バイは、剣を拾う間もなかった。斜面を駆けおりて、逃げていく馬の手綱に飛びついた。馬は止まらなかった。バイは、手綱にしがみついたまま、斜面を引きずられていった。
虎が、追いついた。
前足のひと振りで、馬が横倒しになった。バイは、泥のなかへ投げだされた。
虎が、バイの上に、のしかかった。
金色の目が、バイの喉を見ていた。牙が、むきだしになった。
「レツ!」
シュリンは、屋根の上から叫んだ。
「レツ、だめ!」
虎の耳が、屋根のほうへ向いた。
牙が、バイの喉の、指一本ぶん手前で、止まった。
それから、虎は、自分から牙を引いた。
バイを押さえていた前足を、ゆっくりと上げた。一歩、下がった。
そして、泥のなかに腰を落として、座った。
まるで、それ以上は動かないと決めたように。
兵たちが、おそるおそる駆けよってきた。泥まみれのバイの外套をつかんで、引きずりだした。
「退け! 退け!」
兵たちは、バイを担いで、徒歩で斜面を逃げおりていった。
石の上に、バイの剣が、置き去りになっていた。
砦の前には、折れた槍と、奪われた剣と、片膝をついたままの白髪まじりの兵が一人、残っていた。その兵も、やがて立ちあがって、深く頭を下げると、斜面を下りていった。
虎は、追わなかった。
その場に座ったまま、荒い息をついていた。背中に、三本の矢が立っていた。
シュリンは、屋根から駆けおりた。
虎の前に、回りこんだ。
虎の耳は、前を向いていた。金色の目が、とろんと、シュリンを見ていた。
「……ばか」
シュリンは、虎の首に、腕を回した。
「どうして、いつも、背中で受けるのよ」
虎は、答えなかった。
シュリンの肩に、大きな頭を、重たそうに乗せた。
それから、のそりと立ちあがった。シュリンの横を、よろよろと歩いて、斜面を登っていった。砦の門をくぐった。
シュリンは、虎の横について歩いた。
虎は、壁の虎の絵の前まで行って、そこで、ゆっくりと崩れた。
*
矢を、一本ずつ抜いた。
「一」
一本め。虎の尾が、ばたりと土を打った。
「一」
二本め。虎の目が、薄く開いて、また閉じた。
「一」
三本め。喉の奥で、低い音が鳴った。それきり、静かになった。
シュリンは、包みの布を裂いて、傷に押しあてた。包みを結んでいた細縄をほどいて、その上から虎の胴に回し、きつく縛った。
朝日が、尾根を照らしはじめた。
斜面のずっと下で、逃げ遅れた馬が二頭、木立のなかでいなないていた。
シュリンは、馬を見た。それから、眠る虎を見た。
あれほどの虎は、馬には乗せられない。馬で逃げれば、自分だけは逃げられる。
シュリンは、首を振った。
砦の、半分落ちた屋根に、もう一度上った。
尾根の下の谷を、見下ろした。
息が、止まった。
谷の道を、軍勢が上がってきていた。
さっきの騎兵どころではなかった。歩兵の列が、谷の曲がり角の向こうまで、途切れずに続いていた。槍の穂先が、朝日にきらきらと光っていた。
その先頭に、黒い旗が、何本もひるがえっていた。
旗の真ん中に、白い字で、ひとつ。
ゴウ。
シュリンは、屋根を下りた。
眠る虎の横に、膝をついた。
帯の小袋から、最後の二本のかんざしのうち、一本を抜いた。
握りしめた。
虎の寝息が、ゆっくりと、深く、続いていた。
——今度は、わたしが、虎を見張る番。




