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虎と姫  作者: こ
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第4話 戻らない朝

 馬が、棒立ちになった。


 すぐ横で、虎が咆えたのだ。馬は白目をむいて、後ろ足だけで立ちあがった。腕に巻きつけた手綱が締まって、シュリンの体を宙へ引っぱりあげようとした。


 押さえられない。


 前足が、どすんと地に落ちた。その一瞬だけ、手綱がゆるんだ。


 シュリンは、腕から手綱を抜いた。


 空の馬でも、蹄の音は、娘が逃げる音に聞こえる。


 シュリンは、馬の首を力いっぱい叩いて、叫んだ。


「行って!」


 馬は、狂ったように駆けだした。裏木戸のほうへ。木戸の前で槍を構えなおしていた兵たちが、悲鳴をあげて左右に飛びのいた。馬はそのまま木戸を抜けて、路地の闇へ消えていった。蹄の音が、表通りのほうへ遠ざかっていった。


「馬だ! 娘が馬で逃げたぞ!」


 表のほうで、誰かが叫んだ。足音が、蹄の音を追って散っていった。


 裏庭に残ったのは、バイと、兵が四人。


 そして、虎だった。


 虎は、身を低くしていた。金色の目が、まっすぐバイを見ていた。耳が、うしろへ伏せられていた。尾の先が、小刻みに揺れていた。


 飛びかかる前の、あの形だった。


 バイは、剣を構えたまま、動かなかった。


 シュリンは、虎の横に駆けよった。


 走るものを、虎は追う。わかっていた。けれど、もう歩いている時間はなかった。


「レツ」


 まず、名前を呼んだ。


 虎の耳が、ぴくりと動いた。けれど、伏せられたままだった。


 シュリンは、虎の頭に両手をのばした。伏せられた二つの耳を、上から、ぎゅっと押さえた。


 岩陰でそうしたときと、同じように。


 虎の体が、びくりと震えた。


 喉の奥で、石臼を回すような音がした。それが、途中で、別の音に変わった。


「……み……み、は……」


 割れた声だった。


 やめろ、と言いかけて、言葉にならなかったのかもしれない。


「やめないわ。引っこまないんだもの」


 シュリンは、耳を押さえたまま、低い声で言った。


「逃げるの。戦わなくていい」


 虎の尾が、止まった。


 伏せていた体が、ゆっくりと、さらに低くなった。シュリンのほうへ、背中を向けるように。


 シュリンは、虎の背にまたがった。


 兵の一人が、槍を構えなおした。


「副将さま、いまなら——」


「下がれ」


 バイが、静かに言った。


「この狭さで槍衾は組めん。死人が増えるだけだ。……それとも、花嫁ごと突く気か」


 兵が、槍を下げた。


 バイは、虎の背のシュリンを見た。それから、虎の金色の目を見た。


「次は、人の姿で相手をしてもらおう。……近衛殿」


 虎が、身を沈めた。


 シュリンは、首に両腕を回した。膝で、太い胴を締めつけた。


 虎が、地を蹴った。


 裏庭の土塀は、人の背ほどしかなかった。虎は、それを一跳びで越えた。着地の衝撃で、シュリンの体が浮きかけた。膝に、ありったけの力をこめた。


 塀の向こうは、昼間に上がってきた、洗濯場の石段だった。


 虎は、跳ばなかった。滑るような早足で、石段を下りていった。


 その先に、黒い川が流れていた。


 虎は、止まらなかった。そのまま、川へ走りこんだ。


 冷たい水が、膝に来た。腰に来た。胸まで来た。


 体が、ふわりと浮いた。虎の背から、ずり落ちかけた。


 シュリンは、首の毛をつかんだまま、虎の横に体を流した。


 虎は、泳いでいた。


 太い前足で水を掻き、頭だけを水面に出して、まっすぐ対岸へ向かっていた。少しも慌てていなかった。まるで、水のなかのほうが楽だというように。


 うしろの町の岸に、松明の火がいくつも駆けおりてきた。


「川だ! 川を渡ってるぞ!」


 矢が一本、すぐ横の水面を叩いた。しぶきが、シュリンの頬にかかった。闇のなかで、二本めは見当違いの方へ飛んでいった。


 虎は、対岸の葦のなかへ、音もなく上がった。




   *




 葦原を抜けた先の、雑木の藪の奥で、虎は止まった。


 シュリンが背から下りると、虎は、そのまま横倒しに崩れた。


 息が荒かった。


 シュリンは、虎の左の前足を見た。バイの剣がかすめたところだ。血は、もう止まっていた。ふちが、ふさがりかけていた。


 シュリンは、濡れた野良着の裾をしぼった。歯の根が合わなかった。


 虎の毛並みは、表は冷たく濡れていた。けれど、手を差しいれると、奥は温かかった。


 シュリンは、虎の背にもたれた。


「……夜明けには、戻るのよね」


 虎は、答えなかった。もう、眠っていた。




   *




 鳥の声で、目が覚めた。


 空が明るかった。


 シュリンは、跳ね起きた。


 背中に、まだ毛並みがあった。


 振りむくと、虎が寝ていた。黄金と黒の縞の、大きな虎のままだった。


 峠の夜は、夜明けに戻っていた。


 シュリンは、待った。


 日が昇った。藪の隙間から、光が差しこんできた。


 虎は、戻らなかった。


 日が高くなった。


 虎は、深い寝息をたてていた。ときどき、前足がぴくりと動いた。夢のなかで、何かを追っているようだった。


 シュリンは、包みをほどいた。


 なかは、ぐっしょりと濡れていた。塩は溶けて、包みの底がざらついていた。干し肉と、固い餅は、なんとか食べられそうだった。裏返して畳んだ赤い上衣。布にくるんだ自分の髪の束。


 銀貨の袋を開けた。濡れていたが、五十五枚、ちゃんとあった。


 帯の小袋を確かめた。かんざしは、二本残っていた。


 干し肉を少しかじって、包みを結びなおした。


 かんざしを一本抜いて、手のなかに握った。藪の入り口が見える場所に座りなおした。


 対岸の町のほうを見た。下流の岸に、兵の列が小さく見えた。岸に沿って、葦をつつきながら歩いている。渡し舟は、岸につながれたままだった。


 まだ、こちらには来ていない。


 シュリンは、手のなかのかんざしを見た。


 近衛殿、とバイは言った。


 セイランの近衛は、王宮を守る兵だった。叔父上の配下にも、いた。宴のたびに、大広間の壁ぎわに、ずらりと並んでいた。


 あの男が、そうだったのだろうか。


 シュリンは、首を振った。考えても、分からなかった。


 藪の奥の寝息を聞いた。


「……戻って」


 小さく言った。


 虎の耳が、少しだけ動いた。それだけだった。




   *




 昼を過ぎたころだった。


 葦のあいだで、犬が低くうなった。


 シュリンは、身を固くした。


 葦をかきわけて、男が一人、出てきた。日に焼けた、がっしりした男だった。腰に山刀、背中に弩。手に握った綱の先で、茶色の犬が、地面に鼻をこすりつけるようにして歩いていた。


 猟師だった。


 犬が、藪のほうへ鼻を向けた。首の毛が逆立っていた。


 男は、足を止めた。


 背中の弩を下ろして、先の鐙に足を掛けた。両手で弦を引きしぼった。


 ぎり、と弦が鳴った。


「対岸で上がった跡を見つけるのに、半日かかったぜ」


 男は、腰の筒から矢を一本抜いた。鏃が、黒く濡れていた。


「二十両の虎は、このへんで寝てやがるな」


 シュリンは、藪の入り口を振りかえった。


 虎は、まだ眠っていた。寝息が、かすかに聞こえた。


 シュリンは、まわりの枝を折って、藪の入り口に立てかけた。それから、かんざしを髪の布のなかに差しこんだ。包みの布を一枚ほどいて、手に下げた。


 藪の横から、川のほうへ出ていった。


 足もとの草を、ちぎっては布のなかに入れながら。


「あら」


 シュリンは、男を見て、足を止めた。驚いたふりをした。


「こんなところで、何を捕っているの?」


 男は、シュリンを上から下まで見た。


「娘っこが、ひとりで何してる?」


「薬草摘み。この先の村の者よ」


 シュリンは、布のなかの草を見せた。


「虎を探してるなら、川上よ。けさ、大きな足跡を見たもの」


 男は、布のなかを、ちらりと見た。


「そりゃ、ただの葦の若芽だ」


 シュリンは、黙った。


 犬が、綱を引いた。藪のほうへ。


 シュリンは、包みから干し肉をひとかけら出して、犬の鼻先に放った。


 犬は、干し肉をくわえた。けれど、かじらなかった。くわえたまま、鼻は藪のほうを向いていた。


 男は、シュリンの、布を持った手を見ていた。


「……村娘にしちゃ、きれいな手だな」


 そのとき、藪の奥から、音がした。


 低く、長く、のどかな音だった。


 いびきだった。


 男が、にやりと笑った。


 矢を、弩の溝に載せた。


「そうかい、そうかい。薬草摘みの娘っこが、虎のいびきの横で、虎の居場所をごまかしてくれるってわけだ」


 シュリンは、走った。


 藪の入り口の、男の弩の前に、立った。


「どけ」


「どかないわ」


「……あんた、手配書の花嫁だな? 髪を切ったって話は、ゆうべから川筋じゅうに回ってる」


「だったら、なおさらよ」


 シュリンは、男の目を見た。


「撃つなら、わたしごと撃ちなさい」


 男の指が、引き金の上で止まった。


「生きた花嫁は、百両。虎の首は、二十両。その黒い矢がわたしに当たったら、どうなるか分かる? 死んだ花嫁は、一文にもならないわよ。それどころか、副将さまに首を斬られるかもしれない」


 男の顔が、ゆがんだ。


 それから、ゆっくりと笑った。


「娘っこ。俺は欲張りでな」


「……」


「両方いただく。まずは、寝てるうちに虎だ。起きちまったら、あんたを担いで川も渡れねえ」


 男は、弩を片手に持ちかえた。


 空いたほうの手が、シュリンの腕へのびてきた。


 その瞬間、犬が、甲高い悲鳴をあげた。


 くわえていた干し肉を落として、後ろへ飛びのいた。尾を腹の下に巻きこんで、綱がちぎれるほど引っぱった。


 男が、犬を見た。それから、シュリンの肩ごしに、藪を見た。


 男の顔から、血の気が引いた。


 シュリンの背中で、藪の枝が、ばきばきと折れた。


 背中に、温かい息がかかった。


 金色の目が、シュリンの肩ごしに、男を見下ろしていた。


 犬が、もう一度悲鳴をあげて、走りだした。綱を握ったままの男が、引きずられるように、川のほうへよろめいた。男は、弩を放りだした。犬に引かれるまま、葦のなかへ転がりこんでいった。


 葦がざわざわと揺れて、やがて静かになった。




   *




 シュリンは、振りむいた。


 虎が、立っていた。


 目が、とろんとしていた。半分、眠っているようだった。


 その大きな頭が、ぐうっと、シュリンのほうへ下りてきた。


「待っ——」


 虎は、シュリンの胸もとに、額をこすりつけてきた。


 猫が、飼い主にするように。ただし、馬より重たい猫だった。


 シュリンは、押されて、尻もちをついた。その上から、虎の頭がぐいぐいと押しつけられた。


「ちょ、ちょっと、重い、重いわ」


 虎の鼻先が、シュリンの髪にもぐりこんだ。すん、すん、と、髪に残った香油の匂いを、長いあいだ嗅いでいた。


 喉の奥で、ごろごろと、大きな猫の音がしていた。けれど、さっきの音とは、まるで違う音だった。


「わたしよ。雇い主の、シュリン」


 押しつぶされながら、シュリンは言った。


「分かってるなら、どいて」


 虎のまぶたが、重そうに下りた。


 そのまま、シュリンの膝の上に顎を乗せて、虎はまた、深い寝息をたてはじめた。


 シュリンは、虎の頭の重みの下で、動けなくなった。


 手が、ふるえていた。いまごろになって。


 それから、ふるえる手で、虎の額の毛を、そっと撫でた。




   *




 日が傾いて、藪のなかが赤く染まったころだった。


 膝が、急に軽くなった。


「……うお」


 膝の上から、低い声がした。


 シュリンは、天を仰いだ。


 膝の上に、無精ひげの男の頭が乗っていた。


 頭から足の先まで、全部、むきだしだった。


 シュリンは、目を閉じたまま、手探りで包みをたぐりよせた。赤い上衣をつかんで、膝の上の顔に、ばさりとかぶせた。


「……また鳳凰か」


「濡れてるけど、我慢して」


 衣ずれの音がした。膝の重みが、なくなった。


「……着た」


 目を開けると、レツが、裏返しの上衣を体に巻きつけて、木の根もとに座っていた。藪の外の空を見あげていた。


 空の色を見て、顔をしかめた。


「おい。いま、いつだ?」


「夕方よ」


「……どの夕方だ?」


「宿を出たのが、ゆうべ。それから、ずっと」


 レツは、黙った。


 自分の手を、見下ろした。人の手だった。


 それから、ふと、懐のあたりを探った。上衣の下には、何もなかった。


「……俺の前金」


「宿の庭に、散ったんじゃない?」


「五枚……」


 レツは、がっくりと頭を垂れた。


 シュリンは、拾ってきた弩を、レツの前に置いた。


「昼すぎに、猟師が来たの。犬を連れて。虎の首、二十両って。毒の矢だった」


 レツが、顔を上げた。


 弩を見た。黒い鏃の矢を見た。それから、シュリンを見た。


「……で?」


「薬草摘みの娘のふりをしたわ。ばれたけど。だから、弩の前に立って、撃つならわたしごと撃ちなさいって言ったの。そうしたら、あなたが起きて、猟師は逃げていったわ」


 レツの顔から、いつものにやにや笑いが消えた。


「……わたしごと、って言ったのか」


「言ったわ」


「毒の矢の前で」


「ええ」


「二度と言うな」


 低い声だった。軽口ではなかった。


 シュリンは、まっすぐにレツを見かえした。


「嫌よ」


「おい」


「あなたは、峠でわたしをかばって斬られたわ。宿では、わたしの前に立って棒を振りまわしたわ。わたしは、言うだけ。それも駄目なの?」


 レツは、口をつぐんだ。


 何か言い返そうとして、言葉を探すように、藪の外の川に目をやった。しばらく、そのまま動かなかった。


 やがて、ふてくされたように、肩をすくめた。


「……普通は、逆だろ」


「普通じゃないもの、わたしたち」


 レツが、ふっと笑った。


 それから、笑いを引っこめて、川を見た。


「一晩で、戻るはずだったんだ」


 軽い声に戻っていた。いつもの、気楽な調子だった。


「前は、もっと早かった。半刻くらいで戻ってた。それが、だんだん遅くなってる。一晩になって、今度はこれだ」


 レツは、肩をすくめた。


「このまま、あれに長く入ってると、そのうち戻れなくなるかもな。ま、そうなったら、山で鹿でも追って暮らすさ。気楽なもんだ」


 シュリンは、笑わなかった。


 レツの顔を、まっすぐに見ていた。


 レツが、気まずそうに咳ばらいをした。


「……冗談だよ」


「わかってるわ」


 シュリンは、膝の上で手を組んだ。


「ゆうべ、宿の庭で。あなた、わたしの名前を呼んだわ」


「……あ?」


「シュリン、って。初めて」


 レツは、目をそらしたまま、頬をかいた。


「……覚えてねえ」


「そう」


 シュリンは、ぷいと横を向いた。


 しばらく、どちらも黙っていた。


「なら、わたしが呼ぶわ」


 シュリンは、横を向いたまま言った。


「あなたが戻ってこなかったら、呼ぶわ。戻ってくるまで、何度でも。耳を押さえて、名前を呼ぶ」


 レツは、口をあけたまま、シュリンの横顔を見ていた。


「……耳は、やめろって言ってんだろ」


「戻ってきたら、やめてあげる」


 レツは、空を仰いだ。


 しばらくして、低い声で、言った。


「……分かったよ。シュリン」


 シュリンは、横を向いたまま、答えなかった。


 ただ、耳が、少しだけ赤くなっていた。


 レツが、立ちあがった。裏返しの上衣の裾を、ぐいと縛りあげた。弩を拾って、肩にかついだ。


「行くぞ。今度は、俺が起きてる番だ」


 二人は、藪を出た。


 葦原のはずれで、シュリンは、なにげなく川の向こうを振りかえった。


 夕日に赤く染まった対岸の、町の岸。


 渡し場の桟橋の先に、背の高い、痩せた男が立っていた。黒い外套が、川風にはためいていた。


 その足もとに、ずぶ濡れの男がひざまずいて、こちらの岸を指さしていた。綱の先で、茶色の犬が、ぶるぶると水を払っていた。


 黒い外套の男は、指さされた方角を、じっと見ていた。


 まっすぐに、二人のいる葦原を。


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