第3話 宿場の質屋
尾根の上で、空が白みはじめた。
谷の村に入った松明の火は、しばらく村のなかをうろうろしていた。やがて、ひとかたまりになって村を出た。
出ていった先は、二人のいる尾根ではなかった。北の、深い谷のほうだった。
「……村長さん、違う道を教えたのね」
「腹の出たおっさんだったが、悪くねえ」
シュリンは、谷に向かって、小さく頭を下げた。
それから、立ちあがって、裾をはらった。村でもらった野良着だった。生成りの木綿の上着に、紺の筒袴。髪は、また布で包んである。
レツが、ちらりとこちらを見て、すぐに目をそらした。
「なに?」
「いや。……村娘に見えなくもねえな、と思っただけだ」
「褒めてる?」
「半分な」
レツは、尾根の向こうを指さした。
「国の外まで行くなら、足と路銀がいる。この尾根を越えた先に、宿場町がある。質屋もある」
「かんざしを、質に入れるのね」
「一本だけな。二本は俺の前金だ」
「まだあげてないわ」
「知ってる」
*
宿場町には、街道の門を通らずに入った。
尾根を下りた先の川べりに、洗濯女たちが使う石段があった。そこを上がると、もう町の裏通りだった。
「表の門には、兵が立ってる。顔を一人ずつのぞきこんでな」
レツは、石段の上から、通りの向こうの門を顎で指した。門の脇に、槍を持った兵が四人いた。
「出るときも、あそこを通るの?」
「門は日暮れに閉まる。閉まる前は、町を出る荷車でごった返す。それにまぎれる」
表通りに出ると、昼前から人であふれていた。
石畳の両側に、屋台がずらりと並んでいた。蒸籠から湯気が噴きあがり、油の鍋がじゅうじゅうと鳴っている。焼いた肉の匂い、甘い餡の匂い。呼び声があちこちから飛んでくる。
「揚げ餅、揚げ餅だよ!」
「梨、甘い梨!」
シュリンは、通りの入り口で立ちつくした。
王宮から出るときは、いつも輿のなかだった。薄絹ごしに見る町は、いつも静かだった。
こんなにうるさくて、こんなにいい匂いがするとは、知らなかった。
「口、あいてるぞ」
あわてて閉じた。
それから、いちばん近くの饅頭の屋台に、まっすぐ歩いていった。
「それを、二つ」
懐に手を入れた。小袋の口をほどいて、金のかんざしを一本つまみだしかけた。
その手首を、横からレツがつかんだ。
「やめろって言ったろ」
「でも、お金はこれしか」
「町の質屋で換えるまで、それは出すな」
レツは、自分の懐から銅貨を一枚出して、屋台の台に置いた。村長が持たせた銅貨の、最後の二枚のうちの一枚だった。
「二つ」
「あいよ」
屋台の女が、蒸籠から饅頭を二つ取りだして、葉っぱにくるんで渡した。それだけだった。
「……それだけ?」
「それだけだ。ほら」
熱かった。シュリンは両手で持ちかえながら、あたりを見まわした。卓も、椅子も、箸もない。通りの人たちは、歩きながら、立ったまま、かぶりついていた。
シュリンも、かぶりついた。
熱い肉汁が、口のなかにあふれた。
「……おいしい」
「だろ」
*
質屋は、通りから一本入った路地にあった。
店の奥に、白い髭の老人が座っていた。レツは、戸口にもたれて、表の路地を見ていた。
シュリンは、小袋から金のかんざしを一本出して、台の上に置いた。
老人は、拡大鏡を目に当てて、かんざしを手に取った。
手が、止まった。
しばらく、かんざしの頭の細工を見ていた。花と蔓が、髪の毛ほどの細い金の線で編まれている。
老人は、拡大鏡を外した。
「……銀で、二十枚ですな」
シュリンは、老人の顔を見ていた。
老人の目は、かんざしから離れていなかった。値を言うとき、目を上げなかった。台の下で、指が、落ちつかなげに膝を叩いていた。
「この細工が、銀二十枚なの?」
「金の細工物は、溶かせばそれまでで」
「溶かすつもりなら、そんなに長く見ないでしょう」
老人の指が、止まった。
「あなたは、この細工がどこで作られたものか、知っているのね」
店のなかが、静かになった。
老人は、ゆっくりと顔を上げた。
布に包んだ髪を見た。その下の顔を見た。それから、もう一度かんざしを見た。
「……銀で、六十枚。お出ししましょう」
老人は、声を落とした。
「それと。これは、独り言ですがね」
老人は、銀貨を数えながら言った。
「副将のバイ様が、けさから宿場に入っておいでです。兵を連れて。虎の耳の大男と、その連れの娘を探していると」
シュリンは、息をのんだ。
「わしは、セイランの都の生まれでしてな。若いころ、宮中の細工場に、品をおさめに行ったことがあります」
老人は、銀貨の袋と、一枚の札を台に置いた。質札だった。
「受けだしの期限は、書きませんでした」
シュリンは、質札を見た。期限の欄は、空いていた。
「このかんざしは、流してしまわずに、取っておきますよ。いつか、受けだしにおいでなさい」
シュリンは、老人に向かって、深く頭を下げた。
それから、袋から銀貨を五枚つまみだして、店のなかでレツの手に押しつけた。
「前金よ。かんざし二本ぶんには、足りないけど」
「残りは?」
「働いてからよ」
レツは、手のひらの銀貨を見て、にやりと笑った。懐にしまってから、声を落とした。
「往来じゃ、銭は見せるなよ。……で、六十枚か。馬一頭にはちと足りねえが、上等だ」
「バイって、知ってる?」
「名前だけな。ゴウの右腕だ。剣の腕は相当らしい」
*
日暮れ前、二人は門へ向かった。
門の前は、思ったとおり、町を出る荷車でごった返していた。
けれど、門は閉まっていた。
「副将さまのお達しだ! 今日は早仕舞い! 明日の朝まで、誰も出さん!」
門の上から、兵が怒鳴っていた。荷車の主たちが、口々に文句を言っていた。
レツが、舌打ちした。
「読まれてるな。……朝の開門まで、どこかにもぐるしかねえ」
宿は、通りのはずれの、安い客桟だった。
「兄と妹だ。一部屋」
レツが言うと、宿の亭主は、二人の顔を見くらべた。
「似てないねえ」
「よく言われる」
亭主は、二人を二階の狭い部屋に通した。寝台が一つと、小さな窓が一つ。
シュリンは、髪を包んでいた布をほどいた。一日じゅう包んでいたので、頭が蒸れていた。短い髪を、指でかきあげた。
戸口で、茶を運んできた亭主が、ほんの一瞬、手を止めた。それから、何も言わずに盆を置いて、出ていった。
シュリンは、寝台を見た。それから、レツを見た。
「半分ずつ使えばいいわ」
レツが、固まった。
「……は?」
「寝台。二人とも疲れているでしょう。半分ずつ」
レツは、口を二度ほど開け閉めした。それから、戸口の前の床に、どさりと腰を下ろした。
「用心棒は、戸口で寝るもんだ」
「床で?」
「床でだ。理屈は聞くな」
夕飯は、亭主が運んできた粥と、青菜の炒めものだった。
シュリンは、匙を取った。粥をひとくち、口に運んだ。
それから、もうひとくち。もうひとくち。
気づくと、椀は空になっていた。青菜の皿も、空になっていた。
王宮では、料理には箸を一度つけて、置くものだった。食べすぎるのは、はしたないことだった。
顔を上げると、レツが、自分の椀を持ったまま、こちらを見ていた。
「……うまそうに食うな」
「おいしいもの」
レツは、黙って自分の椀の粥を半分、シュリンの椀に移した。
「いいの?」
「雇い主が腹へらしてたら、用心棒の恥だ」
*
夜が更けて、通りの物音が絶えたころだった。
戸口で寝ていたレツが、目を開けた。
身を起こして、窓の外をのぞいた。瞳が、金色に光っていた。
「……起きろ」
シュリンは、寝台から跳ね起きた。
「囲まれてる。表に十、裏に五。裏の厩に、鞍をつけたままの馬がいる。捕り手の馬だ。表の通りが狭いから、裏に預けたんだろ」
「どうして、ここが?」
レツは、階下のほうを見た。
「亭主だ。あんたの髪を見てた。手配の娘は髪が長いが、虎の男の連れの娘ってのは、髪が短いのかもしれねえ、ってな」
階下で、戸を叩く音がした。
「開けろ! 副将さまのお検めだ!」
レツは、窓を開けた。下は、宿の裏庭だった。積んだ藁があった。
「俺が先に降りる。荷物を持って、すぐ来い」
シュリンは、寝台の脇の包みをつかんで背負った。銀貨の袋も、そのなかにある。
レツが、窓から飛んだ。藁の上に降りて、すぐに身を起こし、両手を広げた。
「来い!」
シュリンは、窓枠を蹴った。
レツの腕が、シュリンを受けとめた。そのまま地面に下ろして、背中にかばった。
厩の陰から、男が一人、飛びだしてきた。馬の番をしていた兵だった。
「いたぞ! 女だ! 亭主の言ったとおり、髪が短い——」
兵の手が、シュリンの肩をつかんだ。
レツは、庭の隅に立てかけてあった天秤棒を、片手でつかんだ。
「おい」
低い声だった。
「俺の雇い主に、手ぇ出すんじゃねえ」
天秤棒が、うなりをあげた。
兵の腕が、横から打たれて跳ねあがった。返す棒の先が、兵の足を払った。兵は、背中から地面に落ちて、うめいた。
裏木戸から、兵がなだれこんできた。狭い木戸から、一人ずつ押しだされてくる。
一人めの槍を、レツは棒の中ほどで受けて、横へ流した。つんのめった兵の首筋を、棒の端で打った。兵は、膝から崩れた。
二人めの手首を打って、剣を叩き落とした。三人めの鳩尾を、棒の先で突いた。四人めの足を払い、起きあがろうとしたところを、もう一度鳩尾に突きを入れた。
血は、一滴も流れなかった。
「……斬らないのね」
「殺したら、追手が本気になる。それに、兵のなかにセイランのやつが混じってるかもしれねえ。峠の行列にも、いたろ」
レツは、息も乱さずに言った。
「厩へ行け。馬を出せ」
シュリンは、厩へ走った。
表のほうから、足音が近づいてきた。今度は、ばらばらではなかった。そろった足音だった。松明の火が、裏庭を赤く照らした。
兵が十人、裏庭に扇の形に広がった。
その真ん中から、一人の男が、歩みでてきた。
背の高い、痩せた男だった。鎧の上に、黒い外套をはおっている。抜き身の剣を、だらりと下げていた。
男は、地面に転がった五人の兵を見下ろした。それから、レツの体を、頭から足まで見た。
「天秤棒で五人。一人も殺さず、自分も血を浴びていない」
男は、首をかしげた。
「……浴びたくない理由でも、あるのか」
「あんたが、バイか」
「いかにも」
バイは、兵たちを振りむかずに言った。
「この男には、手を出すな。お前たち三人は、厩の娘を押さえろ」
兵が三人、扇の端から厩のほうへ駆けだした。
バイが、踏みこんだ。
速かった。
レツは、天秤棒で受けた。剣と棒がぶつかって、乾いた音がした。バイの剣は、重くはなかった。けれど、受けるたびに角度を変えて、棒の同じところを打ってきた。
シュリンは、厩のなかにいた。
鞍をつけたままの馬が、六頭いた。シュリンは、いちばん手前の馬の手綱をつかんだ。それから、残りの馬の繋ぎ縄を、片っぱしからほどいた。
兵が三人、厩の戸口に駆けこんできた。
シュリンは、手前の馬の尻を、手のひらで思いきり叩いた。
「行きなさい!」
馬がいなないて、戸口へ飛びだした。つられて、残りの五頭が、いっせいに続いた。
戸口の三人が、馬の群れにまともにぶつかって、はね飛ばされた。馬たちはそのまま裏庭を駆けぬけ、扇の形に並んだ兵のなかへ突っこんでいった。兵たちが、悲鳴をあげて散った。
バイが、ほんの一瞬、そちらを見た。
レツが、その一瞬に打ちこんだ。
天秤棒を、バイの胴へ。
バイの剣が、それを受けた。
同じところを打たれつづけた天秤棒が、ぱきりと二つに折れた。折れた棒のあいだを抜けて、剣の切っ先が、レツの左の腕をかすめた。
袖が裂けた。
血が、ひとすじ、腕を伝って落ちた。
バイが、後ろへ跳んで、間合いを取った。剣を構えなおしながら、レツの手を見ていた。
「……雑兵の相手をしているあいだは、棒使いのふりをしていたな」
バイは、静かに言った。
「だが、わたしの剣を受けた瞬間、手が剣の握りに戻った。その握り。セイランの近衛の構えだ」
「知らねえよ。俺は、ただの用心棒だ」
レツは、自分の腕を見下ろした。
「……あー」
気の抜けた声だった。
レツの目が、ぎらりと金色に燃えた。腕に、黒い縞が走った。
縞は、肘を越えて、肩のところで止まった。
レツが、歯を食いしばっていた。肩をつかんで、何かを押しもどそうとしているように見えた。
縞が、肩でふるえた。
それから、また這いのぼりはじめた。首すじへ。頬へ。
「レツ!」
シュリンは、厩から一頭だけ残した馬を引きだした。
馬が、首を振りあげた。いなないて、後ろへ下がろうとした。手綱が、シュリンの手のひらを焼いた。シュリンは、手綱を腕に巻きつけて、踏んばった。
「乗って!」
宿の二階の窓が、いくつも開いた。泊まり客たちが、顔をのぞかせていた。誰かが、悲鳴をあげた。
「虎だ! 虎が出たぞ!」
バイが、一歩、退いた。
「なるほど。これが、手配書の虎か」
バイの口もとが、かすかに上がった。
「……二十両では、安すぎたな」
レツが、シュリンを見た。
口もとから、牙がのぞいていた。
「……シュリン」
割れた声だった。
「行け。馬で、ひとりで」
シュリンは、手綱を握りしめた。
名前を、呼ばれた。
姫さん、でも、あんた、でもなく。
「行けって、言ってんだろ……!」
「雇い主の命令よ」
シュリンは、暴れる馬を押さえながら、まっすぐにレツを見た。
「乗りなさい。置いていかないわ」
レツの体が、ひとまわり、ふたまわりと膨らんだ。
裂けた袖から、金色の毛が噴きだした。
宿場町の夜を、虎の咆哮が引き裂いた。




