第2話 用心棒の値段
沢の水は、思っていたより冷たかった。
シュリンは裾をたくしあげて、石から石へと渡った。花嫁の衣は片袖がなく、裾は泥で黒くなっていた。足もとは、婚礼のための薄い布の沓だ。峠道を歩くようにはできていない。
前を行くレツは、もっとひどかった。
赤い婚礼の上衣を体に巻きつけて、蔓を帯がわりに縛っている。足は裸足だ。剣は折れ、荷物は峠に置いてきたという。
その肩に、シュリンの裂いた袖が、まだ巻きついていた。
「傷は?」
「ん? ああ」
レツは歩きながら、袖の結び目をほどいた。
シュリンは、足を止めた。
ゆうべ矢を抜いた傷も、魔物に裂かれた傷も、もうふさがっていた。薄桃色の筋が残っているだけだった。
「……ひと晩で?」
「ひと晩寝りゃ治るって言ったろ」
レツは、ほどいた袖をシュリンに放ってよこした。
「虎になると、ろくなことはねえが、これだけは便利だ」
シュリンは袖を握ったまま、しばらく何も言えなかった。
「それより、腹へったな。一文なしだ」
「一文なし?」
「饅頭の代金も、まだ払ってねえ。用心棒の前金で払うつもりだったんだが、その前金は隊長の懐だ」
レツが、ちらりと振りむいた。
「で、あんたの前金。まだもらってねえぞ」
「働いてからよ」
「けちくせえ雇い主だな」
レツが、ふいに立ちどまった。
鼻をひくつかせていた。それから、耳を澄ますように首をかしげた。瞳が、また金色に光っていた。
「……蹄だ。六、七頭。沢沿いの道を下りてくる」
「戦わないの?」
「斬りあいになりゃ勝てる。けどな、一太刀もらったら、またあれだ」
レツは、自分の肩をあごで指した。
「今度は、あんたを乗せて逃げる保証はねえ。隠れるぞ。水のなかを走れ。足跡が消える」
レツは、川岸の大岩を指さした。張りだした岩の下に、人ふたりがやっと入れるくらいのくぼみがある。
シュリンは裾をつかんで、浅瀬を走った。冷たい水が、膝まではねあがった。
くぼみの手前、水から岩へ上がる最後の一歩で、右の沓が裂けた。石のかどが、足の裏に食いこんだ。
シュリンは、何も言わずに、くぼみへ転がりこんだ。
*
蹄の音が近づいてきた。
くぼみは狭かった。シュリンはレツの胸に背中を押しつけるようにして、身を縮めた。上衣の金糸の鳳凰が、頬にちくちくと当たった。
岩の上の道を、騎兵が通っていく。
「花嫁は沢を下ったはずだ。足跡を探せ」
「水に入られたら、分からんぞ」
「虎は?」
「知るか。出たら逃げろ」
乾いた笑い声がした。怖いのをごまかすような声だった。
シュリンの頭の上で、ぴょこり、と何かが動いた。
見あげた。
レツの頭から、丸い虎の耳が二つ、立っていた。
耳の先が、岩のくぼみの縁から、外へのぞきそうになっていた。
レツが、しまったという顔をした。引っこめようとしているのか、眉間にしわを寄せている。耳は、ぴくぴく動くだけで引っこまなかった。
シュリンは、両手をのばした。
レツの耳を、上から、ぎゅっと押さえた。
思っていたより柔らかかった。そして、温かかった。手のひらの下で、耳がびくりと震えた。
レツが目を見ひらいた。シュリンは前を向いたまま、押さえる手をゆるめなかった。
蹄の音が、すぐ上を通りすぎた。
遠ざかっていった。
沢の音だけが残った。
しばらくして、頭の上から、ひどく低い声が降ってきた。
「……耳は、やめろ」
「引っこまなかったじゃない」
「くすぐってえんだよ」
「我慢して。雇い主の命令よ」
手を離すと、耳はしおしおと垂れて、髪のなかへ沈んでいった。
くぼみから這いだしたところで、レツがシュリンの足を見た。裂けた沓から、血のにじんだつま先がのぞいていた。
「なんで言わねえ」
「言ったら、止まるでしょう」
レツは、何か言いかけて、やめた。
それから、シュリンの前にしゃがんで、背中を向けた。
「乗れ。この先は陸だ。血の跡が残ると、犬が追う」
シュリンは、自分の足を見た。それから、レツの背中を見た。赤い婚礼の上衣を巻きつけた、広い背中だった。
「……雇い主の権利として、乗るのよ」
「はいはい。雇い主さま」
レツの背中は、虎のときほどではなかったが、やっぱり温かかった。
*
昼過ぎ、谷の下に、山あいの村が見えた。
段々の畑と、二十軒ほどの家。畑の一角が、何かに掘りかえされたように荒れていた。
村の手前の沢で、レツはシュリンを下ろした。
「このなりで入ったら、一発でばれるな」
レツは、自分の上衣を見下ろした。赤地に、金の鳳凰。
それから、上衣を脱いで、くるりと裏返した。裏地は、くすんだ茶色の木綿だった。
「よし。追い剥ぎに遭った旅の者、ってとこだ」
シュリンも、花嫁の衣のいちばん上の一枚を脱いだ。金糸の縫いとりのある一枚だった。下は、白い絹の内着だけになった。
それから、腰まである髪を、うなじでひとつにまとめた。脱いだ衣の、縫いとりのない裾を裂いて、髪をすっぽりと包んだ。
「どう?」
「……泥をつけろ。顔に。白すぎる」
シュリンは、沢の泥を指ですくって、頬になすりつけた。
レツが、噴きだしかけて、こらえた。
「なんでも言うとおりにするんだな、姫さん」
「理屈が通っていればね」
脱いだ衣とかんざしの小袋は、まとめて上衣の内側にくるんだ。
村の入り口で、シュリンは小袋のことを思いだした。
「服と食べ物、これで買えない?」
「やめとけ」
レツは首を振った。
「馬一頭ぶんの金なんか、こんな村で出してみろ。釣り銭もねえし、どこで手に入れたか根掘り葉掘り聞かれる。一晩で噂になる。換えるなら、町の質屋だ」
「じゃあ、どうするの?」
「働く」
レツは、荒れた畑のほうへ顎をしゃくった。
「ああいう畑があるってことは、困りごとがある。困りごとがあるところには、用心棒の仕事がある」
村長の家の前には、大きな荷を背負った行商が一人、腰を下ろして、村の女たちに針や糸を広げて見せていた。峠のほうから来たらしい。
レツは、少しだけ顔を伏せて、その前を通りすぎた。
*
村長は、腹の出た初老の男だった。
レツが「峠で追い剥ぎに遭って、身ぐるみはがされた」と話すと、気の毒そうな顔をした。畑のことを聞くと、大げさにため息をついた。
「猪ですよ。ただの猪じゃない。牛ほどもある、魔物の猪だ。猟師の矢がはじかれちまう。もう畑が三つもやられた」
「そいつを片づけたら、何をくれる?」
「そりゃあ、古着の一枚もさしあげましょう。飯も一回」
「乗った」
「待って」
シュリンは、一歩前に出た。
村長の足もとを見た。おろしたての、厚い革の沓だった。それから、家の裏手を見た。土壁の蔵が、二つ並んでいる。戸口の閂は新しかった。
「畑が三つやられたのね」
「ええ、それはもう、大損で」
「それなら、猪がいなくならないと、来年の畑も危ないわね。四つめ、五つめも」
村長の目が、ちらりと泳いだ。
「この人は、猟師の矢がはじかれる魔物を片づけるの。古着一枚と一食では、割に合わないわ」
「し、しかし、うちも苦しいので」
「新しい沓が履ける程度には、苦しくないのでしょう?」
村長が、自分の足を見下ろした。
シュリンは、指を折った。
「服を二人分。沓も二人分。三日分の食べ物。今夜、屋根のあるところで寝かせて。それから」
シュリンは、村長の目を見た。
「わたしたちがここに来たことは、誰にも言わないこと」
村長は、しばらく口をぱくぱくさせていた。
やがて、肩を落とした。
「……猪を片づけてくれたら、ですよ」
「ええ。片づけたらね」
村長の家を出たところで、レツが、ひゅうと口笛を吹いた。
「あんた、姫さんより商人のほうが向いてるぜ。値段も知らねえくせに」
「値段は知らないわ」
シュリンは、包んだ髪を押さえなおした。
「でも、嘘をつく大臣の顔なら、毎日見てたの」
*
猪は、日暮れに出た。
村の子どもたちが、柵の陰から首をのばしていた。シュリンも、その横にいた。村長は、少し離れた柵のそばで、腕を組んでいた。
森の縁が、めきめきと鳴った。
出てきたのは、本当に牛ほどもある猪だった。黒い剛毛が、針のように逆立っている。牙は、シュリンの腕ほどの長さがあった。目が、熾火のように赤い。
猪は、牙をかちかちと鳴らした。口の端から、白い泡がこぼれていた。
子どもたちが、息をのんだ。
レツは、村長がしぶしぶ貸した野良着の袖をまくって、畑のまんなかに立っていた。武器は持っていない。
「おーい、こっちだ、こっち」
手を振っている。
猪が、鼻を鳴らした。それから、まっすぐレツに突っこんだ。
「危ない!」
子どもの一人が叫んだ。
レツが、首をこきりと鳴らした。
「ちょっとだけな」
まくった腕に、黒い縞が走った。頭から、虎の耳がぴょこりと立った。
子どもたちが、わあっと声をあげた。
猪は、レツの手前で頭を低く沈めた。そこから、牙ですくいあげるように突きあげてきた。
レツは、跳ねあがってきた二本の牙を、両手でがっちりつかんだ。
猪の勢いに押されて、両足が土を削った。三歩ぶん、後ろへ下がった。それだけだった。
「重てえなあ、おい」
レツが、にやりと笑った。牙が、口もとからのぞいた。
それから、つかんだ牙をてこにして、猪の頭を横へひねった。
ごきり、と鈍い音がした。
猪の巨体が、ひねられた頭につられて横倒しになった。地響きがした。
猪は、起きあがらなかった。
一拍おいて、柵の陰から歓声があがった。子どもたちが畑へ駆けだしていった。
「兄ちゃん、すげえ!」
「耳! 耳さわらせて!」
「やめろ、耳はやめろ」
子どもたちにまとわりつかれて、レツは逃げまわっていた。
村長が、柵につかまったまま、ずるずると座りこんでいた。腰が抜けたらしい。
「……や、約束の品は、倍に、いたします」
シュリンは、柵にもたれて、レツを見ていた。
口もとがゆるんでいるのに、自分で気づいた。気づいて、あわてて引きしめた。それから、誰も見ていないことを確かめて、もう一度だけ、ゆるめた。
子どもたちの頭ごしに、レツがこちらを見ていた。
逃げまわる足が、一瞬だけ止まっていた。
「……笑うんだな」
「何?」
「なんでもねえ」
レツはまた子どもたちに捕まって、耳を引っぱられていた。
そのとき、シュリンは気づいた。
村長の家の前に広げてあった、行商の荷がなくなっていた。
柵の向こうの道を、荷を背負った男の背中が、足早に遠ざかっていくところだった。一度だけ振りかえって、畑のまんなかの、虎の耳の男を見た。
シュリンは、子どもたちのなかからレツを引っぱりだした。
「見せたわね」
「何を」
「耳」
レツは、自分の頭に手をやった。それから、遠ざかる行商の背中を見た。
「……やべ」
*
その夜、村長の家の土間で、レツはたらいに水を汲んできた。
「足、出せ」
「自分でできるわ」
「出せ」
シュリンは、黙って足を出した。
レツは、シュリンの足を水に浸して、泥と血をていねいに洗い流した。石のかどで裂けた傷が、三つあった。村長からもらった木綿を裂いて、一つずつ巻いていった。
大きな手だった。猪の首をひねった手とは思えないくらい、そっと動いた。
巻きおえて、レツは布の端を結んだ。
「次は言え」
顔を上げずに、言った。
「雇い主の命令でもだ」
シュリンは、巻かれた足を見下ろした。
「……わかったわ」
それから、髪を包んでいた布をほどいた。
侍女たちが毎朝、香油をつけて梳いた髪だった。腰の下まである。
シュリンは、首のうしろで髪をひとつかみにした。村長から借りた包丁を当てた。
「おい」
レツが腰を浮かせた。
「何してる?」
「花嫁を探している人たちは、長い髪の花嫁を探しているわ」
包丁を引いた。
ざくり、と音がした。
手のなかに、黒い髪の束が残った。首のうしろが、すうっと涼しくなった。
シュリンは、残った髪を指でととのえた。肩にかかるくらいの長さになっていた。前髪は、まっすぐに切りそろえた。
「どう?」
レツは、口をあけたまま、何も言わなかった。
しばらくシュリンの顔を見ていた。それから、ふっと息を吐いた。
「……頭が軽そうで、いいんじゃねえか」
「褒めてる?」
「……思いきりのいい姫さんだな、って言ってんだ」
「もう姫じゃないわ」
「そういうことを言うやつに限って、姫なんだよ」
シュリンは、切った髪の束を、囲炉裏の火にくべようとした。それから、手を止めた。束を布にくるんで、もらった包みの底に入れた。
レツは、それを見ていたが、何も聞かなかった。
*
夜更けに、村長が土間に顔を出した。
手に、一枚の紙を持っていた。
「昼に来た行商が、置いていったもんです。夜まで迷ったんですがね。……見せておいたほうがいいと思って」
手配書だった。麓の町で、隊長の名で急ぎ描かせた触れ書きの写しらしかった。
上半分に、花嫁の絵があった。冠をかぶって、長い髪をたらした、すました顔の姫君だ。婚礼の前に描かれた見合いの絵を、そのまま写したものらしかった。
——花嫁を連れもどした者に、金百両。
下半分には、虎の絵が描いてあった。
牙をむいて、目をつりあげた、ひどく凶暴な顔の虎だった。
——花嫁をさらった虎の首に、金二十両。
レツが、手配書をのぞきこんだ。
「……似てねえ」
「どっちが?」
「虎のほうだ。俺はもっと男前だろ」
シュリンは、手配書の二つの数字を見くらべた。
「あなたの首、わたしより安いのね」
「うるせえ」
村長は、短くなったシュリンの髪を見て、それから手配書の長い髪の姫を見た。
何も言わなかった。
「約束ですからね。うちの者は、誰も何も言いやしません」
そう言って、村長は奥へ引っこんでいった。
レツは、手配書を囲炉裏にくべた。紙は、一瞬で燃えあがった。
炎の向こうで、レツの目が、ほんの少しだけ金色に光った。耳を澄ますように、首をかしげていた。
「……馬だ」
「え?」
「一頭。村の外を、町のほうへ走ってった。いまさっきだ」
レツは、もう立ちあがっていた。もらった包みを、肩にかついだ。
「あの行商、まだこのへんにいたんだな。耳を見て、どこかで馬を借りたか」
「村長さんは?」
「約束は守るって顔だった。……だからって、ここで寝てたら、朝には村ごと囲まれる」
レツは、土間の戸を細く開けて、外をうかがった。
「今出るぞ。雇い主さま」
シュリンは、巻いてもらった足に、もらったばかりの草鞋を結んだ。
奥の部屋の戸が、すっと開いた。村長が、手燭を持って立っていた。
「……裏の畑から、尾根に上がる道があります。表の道は、町へ続いてる」
村長は、それだけ言って、また戸を閉めた。
二人は、裏口から外へ出た。
尾根の道を半分ほど登ったところで、シュリンは振りかえった。
谷の向こう、町へ続く道に、松明の火がいくつも揺れていた。村のほうへ、まっすぐに近づいてくるところだった。




