白銀の残照
廊下が、顎の音で満ちた。
ガチガチ、ガチガチ。リズムも統一感もなく、それぞれが勝手に鳴らし続けるその音が重なり合い、石の壁に反響して、まるで砦全体が生き物のように唸っているような錯覚を生む。松明の炎が揺れ、迫り来る影が壁に映し出される。大きい。小さくない。泥喰い大顎の群れが、廊下の幅いっぱいに広がって押し寄せてくる。
「ロバート!」
「言われなくても!」
ロバートが大盾を廊下の中央に据え、槍を脇に抱えた。盾の端が両側の壁にぴったりとはまる。狭い廊下が、彼にとっては天然の要塞だった。
先頭の泥喰い大顎が飛びかかる。巨大な顎が盾に噛みついた瞬間、金属が歪むような音がした。それでもロバートは一歩も退かない。足を踏ん張り、盾を押し返しながら槍の穂先を隙間から突き出す。
「アイリーン、右の壁!」
「見えてる!」
一体が壁を蹴って跳躍し、ロバートの頭上を越えようとした。アイリーンがそれより速く動いていた。壁を蹴り、空中で軌道を変え、跳躍した泥喰い大顎の側面に双剣を叩き込む。床に落ちた魔獣が痙攣し、動かなくなった。
「エド、後ろから二体来てるぞ!」
エドがすでに動いていた。音もなく振り返り、投剣を二本放つ。一体の目を、もう一体の顎の付け根を正確に貫いた。崩れ落ちる音がして、また静かになる。
サラは後方で杖を掲げ、仲間たちの足元に薄い光の膜を広げていた。疲労を和らげ、滑りやすい石畳での踏ん張りを助ける魔法だ。戦わない。だがその光がなければ、この乱戦の中でロバートの足は二度は滑っていただろう。
シューベルトは群れの中心を走っていた。
一体をかわし、もう一体の顎が閉じる前に剣を差し込む。返す刀で横の一体の足を断つ。倒れた魔獣を踏み越え、また前へ進む。考えていない。体が動いている。これだけの数の中で考え始めたら、その瞬間に死ぬ。だから体に任せる。仲間の声を聞き、声のする方向だけを意識して、剣を振り続ける。
十体が五体になり、五体が二体になった。
最後の一体をロバートが槍で仕留め、廊下に静寂が戻った。
全員が肩で息をしている。アイリーンの左腕に浅い噛み傷がある。ロバートの盾は縁が大きく歪んでいた。
「……全員無事か」
「生きてる」アイリーンが壁に背を預けた。
「でも、これ以上続いたら笑えない」
「笑えなくなる前に終わらせる」
シューベルトは剣の血を払い、先を見た。エドが示した通りの廊下が続いている。右に曲がり、階段を下りれば地下だ。
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地下への階段は、想像より急だった。
一段一段が深く、足を踏み外せばそのまま転がり落ちる。松明もない。エドが懐から小さな魔石の欠片を取り出し、微かな光を作った。それを頼りに、一行は慎重に降りていく。
階段の底に近づくにつれ、空気が変わった。
重い。体に圧しかかるような、息苦しさとも違う、何か巨大なものの気配が漂っている。シューベルトの左胸が、ここに来て初めて激しく打った。心臓ではない。もっと奥の、あの拍動だ。
(……近い)
地下に降り立つと、広い空間が広がっていた。
天井が高く、壁の四隅に巨大な結晶が埋め込まれている。その結晶が赤黒く発光しており、部屋全体を不気味な色で染めていた。中央には台座があり、その上に一抱えほどの大きさの石が鎮座している。石の表面には無数のひびが走り、その隙間から同じ赤黒い光が溢れ出していた。
魔石だ。
そしてその前に、一体の魔獣が立っていた。
泥喰い大顎ではない。これまで見てきたどの魔獣とも違う。三本の角を持つ巨体。廊下の群れの倍はある体躯。首から胸にかけて、硬質な外殻が層を重ねるように発達しており、光を当てると金属のように反射する。顎は通常の泥喰い大顎の比ではない大きさで、その一噛みは岩をも砕くだろう。
「……角付き大顎だ」
エドが低く言った。
「群れの中でも、特別に成長した個体。……正直、これは想定外だ」
角付き大顎が、こちらを向いた。小さな目が一行を捉える。次の瞬間、地響きのような唸り声が地下空間を震わせ、それが魔石の光を揺らした。
「散れ!」
フクロウの声と同時に、角付き大顎が動いた。
速い。あの巨体でそれだけ動けるのか、という速さで突進してくる。ロバートが盾を構えたが、直撃を受けた瞬間に盾ごと吹き飛ばされた。壁まで飛ばされたロバートがうめき声を上げ、崩れ落ちる。
「ロバート!」
「生きてる……っ、でかすぎる、こいつ……!」
アイリーンが側面に回り込もうとしたが、角付き大顎の尾が薙ぎ払い、彼女を弾き飛ばした。エドが投剣を放つが、外殻に弾かれて石床に落ちる。サラが障壁を展開したが、次の突進で砕けた。フクロウは攻撃を流し耐えているが攻めあぐねているようだった。
あっという間に仲間全員が追い詰められた。
仲間たちは耐えているが、まだ立っていた。
だがそれも、時間の問題だった。角付き大顎がゆっくりとこちらへ向き直る。三本の角が赤黒い光を反射し、顎が大きく開く。その口の奥に、赤い炎が揺らめいていた。
「シュー、逃げろ!」
アイリーンが壁際から叫んだ。
シューベルトは逃げなかった。
剣を両手で握り直し、角付き大顎と正面から向き合った。脳裏に仲間の顔が浮かぶ。壁に叩きつけられたロバートの顔。床に膝をつくサラの顔。弾き飛ばされたアイリーンの顔。
ここで退けば、全員死ぬ。
左胸の拍動が、これまでで最も激しく打った。
それはもはや「拍動」という言葉では足りなかった。脈打つというより、扉を叩いている。内側から、外へ出ようとしている。シューベルトはずっとその扉を閉じてきた。向き合うことを先延ばしにしてきた。
だが今、仲間が床に倒れている。
シューベルトは目を閉じた。
そして…扉を開けた。
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光は、大きくなかった。
爆発でも、閃光でもなかった。ただ、シューベルトの右手から、白銀の光がゆっくりと剣に流れ込んだ。それだけだった。
だが、角付き大顎が止まった。
炎を吐こうとしていたその口が、閉じた。小さな目が、シューベルトを映している。その目に、これまでなかった何かが宿っていた。本能的な、警戒。獲物を前にした捕食者の目ではなく、自分より大きな何かを感じた時の、動物の目だ。
シューベルトは一歩踏み出した。
白銀の光が剣を包み、その輝きが地下空間の赤黒い色を薄めていく。もう一歩。また一歩。角付き大顎が後退した。後退している。あの巨体が、一人の少年の歩みに押されて下がっている。
「……シュー」
アイリーンの声が、遠くで聞こえた。
シューベルトは止まらなかった。角付き大顎の懐まで踏み込み、剣を振り上げた。白銀の光が一点に凝縮され、次の瞬間、鋭い一閃となって振り下ろされた。
外殻が、紙のように裂けた。
地響きのような音を立てて、角付き大顎が倒れた。その巨体が床を揺らし、天井から砂埃が降ってくる。
静寂が戻った。
シューベルトは剣を下ろし、その場に膝をついた。全身の力が、一気に抜けていく。右手が小刻みに震えている。白銀の光は消え、剣はただの鋼に戻っていた。
「……シュー!」
アイリーンが駆け寄り、その肩を抱きかかえた。続いてサラが来て、柔らかな回復魔法をかける。ロバートが壁を支えにしながら立ち上がり、エドが角付き大顎の死骸を無言で確認した。
「……あれが、お前の力か」
フクロウが静かに言った。
シューベルトは顔を上げた。フクロウの目は、いつも通りの穏やかな兄の目をしていた。
「……ああ」
「いい。今日は使う場面だった」
フクロウはシューベルトの頭に一度手を置き、すぐに離した。そしてすでに次を見ていた。
「魔石を破壊するぞ。早く出ないと、次の群れが来る」
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台座の上の魔石に剣を突き立てた瞬間、砦全体が震えた。
パリン、という不思議なほど軽い音と共に、赤黒い光が霧散する。四隅の結晶も次々と輝きを失い、地下空間が暗くなった。エドの持つ魔石の欠片だけが、頼りない光を灯している。
「行くぞ」
フクロウの号令で、一行は来た道を戻り始めた。
廊下を走り、排水口を逆に這い、外へ出た瞬間、湿地の冷たい夜気が全身を包んだ。シューベルトは立ち止まり、空を見上げた。霧の向こうに、星がいくつか見えた。
「……はぁ」
アイリーンが隣に立ち、同じように空を見上げた。
「なんか、終わった感じがしないね」
「終わってないからな。バッカスへの報告が残ってる」
「うえ、そっか」
ロバートが笑い、エドが小さく息を吐いた。サラがシューベルトの右手をそっと取り、魔法をかける。震えが、少しずつ収まっていった。
砦の正門側からは、まだバッカスの騎士団の気配がある。彼らはとっくに安全な場所へ引いて、こちらが戻るのを待っているのだろう。
シューベルトは、右手を握った。白銀の光はもうない。だが、その感触は残っている。
名前をつけることを避けてきた「何か」に、今夜初めて触れた。それが何であるかは、まだわからない。だがその力が、仲間を守るために動いたことだけは、確かだった。
それで、今は十分だと思った。




