排水口の傭兵たち
排水口は、想像よりも狭かった。
砦の外壁に沿って這い進みながら、シューベルトは自分の肩幅がギリギリ通れる程度の石造りの穴を見つめた。縁には長年の汚水が染み込んで黒ずんだ藻がこびりつき、中からは腐敗した空気が漂い出している。湿地の霧と混ざり合って、肺の奥まで染みるような臭いだった。
「……本当にここから入るの」
背後でアイリーンが顔をしかめた。いつもなら軽口の一つでも叩くところだが、今は声を抑えている。砦の正門側からは、バッカス率いる騎士団の陽動が始まった音が届いていた。角笛の音、魔法が炸裂する低い爆音、それに続く野太い咆哮。正規兵が敵の注意を引きつけている今が、潜入の好機だ。
「入る」
フクロウが短く答えた。彼はすでに外套の裾を絞り上げ、身を低くしている。「エド、先行け。俺たちが続く」
エドは頷きもせず、ただ音もなく穴の中に滑り込んだ。その身体の小ささが、こういう場面では武器になる。続いてアイリーン、サラ、ロバート、フクロウ。シューベルトは最後に入った。
穴の中は暗く、狭く、冷たかった。
膝と肘をついて進む。石の表面は滑らかに見えて実際はざらつき、肘を動かすたびに衣服が引っかかる。頭上は手が届くほどの高さしかなく、立ち上がることはおろか、腰を上げることもできない。前を行くフクロウの靴底だけを目印に、シューベルトは這い進んだ。
十メートル、二十メートル。距離の感覚が失われていく。時折、壁の隙間から砦内部の物音が漏れてくる。重い足音、鎧の擦れる音……ではなく、もっと生々しい音だ。引きずるような足音、粘り気のある何かが床を叩く音、そして低く断続的な、喉の奥から絞り出すような唸り声。
三十メートルほど進んだ頃、前方で微かな光が見えた。
エドが出口を確認したらしく、片手を挙げて一行を止めた。
全員が動きを止め、息を潜めた。
出口の向こうは廊下のようだ。エドがゆっくりと首を出し、左右を確認する。数秒後、手のひらを下に向けて「クリア」の合図を出した。
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砦の内部に潜り込んだ。
廊下は石造りで、天井が低い。松明が等間隔に壁に掛けられ、揺れる炎が影を踊らせている。空気は外よりもさらに重く、腐敗臭に加えて、生き物の体臭に似た、しかし人間のものとは明らかに異なる獣臭が混じっていた。
「……臭いな」
ロバートが鼻をひそめながら呟いた。
「慣れろ」
エドが振り返らずに答えた。
「この臭いがする方向に奴らがいる」
廊下の壁には、ところどころに引っ掻き傷がついていた。石を削るほどの力でつけられた爪痕だ。一本ではなく、何本もの爪が並んで走っている。幅からして、人間の手ではない。
エドが先頭に立ち、音もなく廊下を進む。足先から着地し、体重を少しずつ移動させながら、石畳の上を滑るように歩く。その後ろをアイリーンが続き、数歩の距離を保ちながらシューベルトが進む。フクロウとロバートは後衛を固め、サラは列の中央で杖を短く持ち直した。
最初の曲がり角で、エドが右手の拳を握った。止まれの合図だ。
全員が壁に背を貼り付けた。シューベルトは息を止め、耳を澄ませた。
音が近づいてくる。足音というより、ガチガチという硬質な音だ。何かが噛み合わさるような、規則的な音。それが二つ、廊下の向こうから近づいてくる。
松明の光が揺れ、影が伸びてきた。
現れたのは、二体の泥喰い大顎だった。
二本脚で直立し、人間の背丈ほどの体躯。だが頭部は異様だ。顔の大半を占める巨大な顎が、絶え間なくガチガチと噛み合わさっている。目は小さく、光を反射してぼんやりと光っている。皮膚は泥を固めたような灰褐色で、表面には細かい鱗のような突起が並んでいた。歩くたびに、引きずるような足音と、あの顎の音が交互に響く。
シューベルトは剣の柄に手をかけた。だがエドが片手を挙げ、制した。
次の瞬間、エドの身体が影のように動いた。
二振りの短剣が一閃し、一体目の目の付け根、もう一体の喉の下を正確に貫く。泥喰い大顎は声も立てずに崩れ落ちた。顎の音だけが数秒続き、やがて止まった。エドはそれを素早く壁際に寄せ、松明の影に隠す。流れるような、無駄のない動作だった。
「……こいつら、目が小さい割によく見える。だが耳は良くない」
エドが小声で説明した。
「音を立てなければ、かなり近づける」
「さっきから廊下の天井近くが気になるんだが」
ロバートが上を向いた。石の梁が等間隔に走り、その上は暗くてよく見えない。
「いる」エドが即答した。
「三体。梁の上に張り付いてる」
「見えたのか」
「臭いがした。影這いだ。泥喰いとは別の臭いがする」
シューベルトは天井を見上げた。梁の上には濃い影があり、どこが石でどこが生き物なのか、目では判断できなかった。だがエドは確信を持っている。それで十分だ。
「アイリーン」
「わかってる」
アイリーンはすでに双剣の一方を逆手に持ち替えていた。彼女は廊下の中央をゆっくりと歩き始め、わざと足音を立てた。
梁の上で、何かが動く気配がした。
小さい。泥喰い大顎の半分もない体躯。だが動きが速い。影のように天井を這い、音もなく落下する直前、アイリーンの双剣が十字に交差した。
鈍い音が三つ。それだけだった。
「……ね。やっぱりいた」
彼女は片目を瞑ってみせた。足元には、黒く細長い三つの影が伸びていた。影這いは小さく、見た目は黒い蜥蜴に近い。爪だけが異様に発達しており、石の天井を難なく掴める構造になっている。だが急所は脆い。慣れた者には、さほど手強い相手ではなかった。
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砦の中層まで進むと、構造が変わった。
廊下が広くなり、天井が高くなる。扉が増え、扉の向こうから複数の唸り声や物音が聞こえてくる。密度が上がってきた。正門側の陽動が続いているおかげで、こちらに注意は向いていないが、それもいつまで続くかわからない。
「サラ、状態は」
フクロウが振り返らずに問いかけた。
「全員、問題ないと思う。……ただ、この空気は長く吸い続けない方がいい。魔石の影響が出てきたら、回復魔法だけでは補えなくるから」
「時間をかけるな、ということだな」
フクロウは頷き、シューベルトに目を向けた。
「シューベルト。ここから先は数が増える。……お前が中心になれ。俺たちが道を作る」
シューベルトは剣を抜いた。刃が松明の光を反射して、廊下の壁に鋭い光の線を描いた。
その時だった。
正門側から届いていた角笛の音が、急に遠くなった。
爆音の間隔が広がり、やがてほとんど聞こえなくなる。シューベルトは一瞬、それが何を意味するのか理解できなかった。だがフクロウの表情が変わるのを見て、悟った。
「……バッカスが引いた」
フクロウが低く言った。その声には、怒りと、それをはるかに超えた冷静さが同居していた。
「陽動を切り上げやがった。……来るぞ。奴らがこちらへ向かってくる」
廊下の奥から、あのガチガチという顎の音が雪崩のように押し寄せてくるのが聞こえた。
一つではない。十、いや、それ以上。砦の正門側を守っていた泥喰い大顎の群れが、陽動が終わったことを察知して、侵入者を探し始めたのだ。
「どうする」
ロバートが盾を構え直しながら問いかけた。
「進む」
シューベルトは即答した。
「魔石の場所はどこだ、エド」
「この先を右に曲がって、階段を下りた地下。……ただし、そこへ続く廊下は一本道だ」
「一本道なら、後ろから押さえれば前には進める」
「それが……」
エドが珍しく言い淀んだ。
「十五体はいる。さすがに」
「ロバートが壁になれるか」
「やってみるよ」
ロバートが不敵に笑った。
「ただし、長くは持たん。手早く頼むぞ、シュー」
「わかった」
シューベルトは仲間の顔を見渡した。
アイリーンは双剣を構え、口角を上げている。エドはすでに投剣を指の間に挟んでいる。サラは目を閉じて小さく何かを呟いており、杖から淡い光が溢れ始めていた。ロバートは盾を前に構え、槍を手に取った。フクロウは影の中に溶け込むように半歩下がり、全体を見渡せる位置についている。
誰も逃げようとしていなかった。
捨てられた仕事場で、正規兵に見捨てられたこの場所で。それでも六人は、前を向いていた。
「行くぞ」
シューベルトが駆け出した瞬間、廊下の奥から泥喰い大顎の群れが、あの顎の音を鳴らしながら雪崩のように押し寄せてきた。




