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空の戦士団  作者: 葱狸
1章

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6/13

月夜の亡霊

夜の城下町には、昼とは別の顔がある。昼間に従順だった者が、夜は路地に潜む。昼間に高慢だった者が、夜は別の顔を持つ。城壁の中も外も、夜になれば同じだ。誰もが何かを隠して歩いている。檻というのは必ずしも鉄格子でできているわけではない。生まれた場所、与えられた役割、「あなたはこういう人間だ」という他人の視線。見えない檻の中で育った者は、夜の闇の中でだけ、本当の自分の声を聞く。

―――


眠れなかった。


仲間たちの寝息が部屋に満ちる中、シューベルトは天井を見つめていた。寝台は柔らかく、毛布は温かく、これ以上の条件はなかった。それでも目が閉じられなかった。


左胸のせいだ。


拍動は、この領地に入ってからずっと続いている。規則正しくもなく、激しくもなく、ただじくじくと、何かを訴えるように鳴っている。


城に近づくにつれ、それは強くなっていた。今夜は特に、眠ることを拒むように脈打っている。

シューベルトは静かに寝台を抜け出し、上着を羽織って宿の扉を開けた。


---


夜の城下町は、昼間とは別の街だった。

あれほど賑やかだった大通りは、今は月光だけが照らす石畳の川になっている。商店の灯りは落ち、馬車の音もない。遠くで犬が一度吠えて、また静かになった。


シューベルトは当てもなく歩いた。


昼間に感じた視線のことを考えていた。蔑みの目、無視の目、値踏みの目。慣れているはずだった。ホワイト王国が滅びてから、そういう目にさらされない日はなかった。それでも今日は、どこか違う重さがあった。


この街の美しさが、自分には似合わないと思い知らされたような感覚。


石畳を踏む自分の足音を聞きながら、シューベルトはいつの間にか城の方角へと向かって歩いていた。引き寄せられているのかもしれなかった。


城の裏門へと続く小路に差し掛かった時、前方の影が動いた。

シューベルトは反射的に足を止め、剣の柄に手をかけた。

だが、そこにいたのは武装した兵士ではなかった…


---


深いフードを被った、小柄な人影。


気配に気づいたのか、人影も立ち止まった。しばらく、互いに動かなかった。月明かりが石畳に影を落とし、風が路地の埃を舞い上げる。


「……誰だ」


シューベルトが低く問いかけると、人影はびくりと肩を揺らした。それから、フードの縁を少しだけ持ち上げた。


月光の中に、金色の髪が零れた。


フードの下から現れたのは、息を呑むほど整った顔立ちをした少女だった。腰まで届く長い髪、そして何より、夜の闇の中でも輝きを失わない碧い瞳。年はシューベルトより少し下だろうか。その瞳には、怯えと、それをはるかに上回る好奇心が同居していた。


「……ごめんなさい。驚かせるつもりはなかったの」


鈴を転がすような声だった。少女はシューベルトの腰の剣と、泥に汚れた上着を見て、怖がるどころか瞳をさらに輝かせた。


「あなた、外から来た人?」


「……そうだ」


「傭兵さん、かしら」


「何者だ。こんな夜更けに、一人でいるような格好ではないだろう」


シューベルトは警戒を解かずに問い返した。少女の纏う外套は質素に見えるが、その立ち振る舞いや、隠しきれない気品は、この街の普通の住人のものではなかった。


少女は少し困ったように笑い、それから悪戯っぽく唇に指を当てた。


「秘密。……少しだけ、退屈に耐えられなくなってしまったの。この街に吹く風が、今日はいつもより少しだけ、外の匂いがしたから」


その言葉に、シューベルトは何も返せなかった。


外の匂い。この美しい城壁の中で生きる人間が、外の匂いを求めている。その言葉の重さが、じわりと胸に沁みた。


「……城の中は、そんなに息苦しいのか」


思っていたより率直な問いになってしまった。少女は少し目を丸くし、それからゆっくりと息を吐いた。


「……息苦しい、というより」


少女は石畳に目を落とした。月明かりが彼女の横顔を照らし、そこに一瞬だけ、年相応の疲れが浮かんだ。


「正しいことしか、できないの。正しい服を着て、正しい言葉を使って、正しい場所にいる。……それが私の役割だから。でも、正しくあり続けることと、生きていることは、同じじゃないわ」


シューベルトは何も言わなかった。

その言葉が、妙に胸に刺さった。正しくあり続けることと、生きていることは同じじゃない。自分とは正反対の場所にいる人間が、自分と同じようなことを言っている。


「……俺は逆だ」


気づけば、口が動いていた。

「正しくある余裕なんてない。泥の中を這いずって、目の前のことに必死なだけだ。……どこにも属していない」


「どこにも属していない」


少女は、その言葉を静かに繰り返した。それから顔を上げ、シューベルトを見た。


「……羨ましい」


「何が」


「どこにも属していないということは、どこへでも行けるということでしょう。私には、それがない」


シューベルトはその言葉をどう受け取ればいいか分からなかった。自分にとって「どこにも属していない」というのは、屈辱の源だった。石を投げられ、通行税を割増しされ、冷たい目で見られる理由だ。それが羨ましいと言われるとは思っていなかった。


「……俺には、羨ましいとは思えないけどな」


「そう」


少女は少し笑った。


「でも、そういうものかもしれないわね。お互いに、ないものを羨む」


二人の間に、静かな沈黙が落ちた。


その時だった。左胸が、激しく跳ねた。

ドクン、と。心臓とは別の拍動が、これまでで最も鮮明に鳴り響いた。同時に、少女も胸元をそっと押さえた。その仕草に、シューベルトは気づいた。


同じだ。

この少女の中にも、何かがある。自分の中にある「それ」と同じ種類の、確かな気配が。だが自分のものより静かで、清らかで、それでいてどこか悲しげだった。まるで、長い間狭い場所に閉じ込められていたものが、久しぶりに同じ種類の存在を感じて、微かに反応しているかのように。


「……あなた」


少女が、真剣な顔でシューベルトを見た。


「今、何か感じなかった?」


「……ああ」


「私も。……初めてよ、こんなことは」


少女は自分の胸元を見下ろした。その顔に、戸惑いと、それを上回る何か——希望に似たもの——が浮かんでいた。


「あなたのその目。……泥の中にいても、死んでいない」


シューベルトは息を止めた。


この少女は、初対面で自分の深部に触れてきた。褒め言葉でも慰めでもない。ただ、見えているものをそのまま言葉にしただけ、という静けさがあった。


「……それは、どういう意味だ」


「分からない。ただ、そう見えるの」


少女は少し首を傾けた。


「諦めていない目、と言えばいいのかしら。諦めた方が楽なはずなのに、諦めていない。……そういう人を、私はあまり知らないから」


シューベルトは、自分の目がどんな顔をしているのか分からなかった。諦めていないと言われても、実感がない。ただ前へ進むしかないから進んでいるだけで、それを「諦めていない」と呼んでいいのかどうか。


「……あなたは」


シューベルトは問い返した。


「諦めているのか」


少女は少しだけ間を置いた。


「諦めたいと思ったことは、何度もある」


その答えは、思っていたより正直だった。


「でも、諦めきれないの。……だから、夜中に城を抜け出したりするのよ」


少女は自嘲気味に笑った。その笑い方が、年相応で、どこか痛々しかった。


「――アンネリーゼ様!どこにおいでですか!」


遠く城の方向から、焦燥に満ちた騎士たちの声が聞こえてきた。少女——アンネリーゼはハッとして、名残惜しそうにシューベルトを振り返った。


「見つかってしまったみたい」


彼女は立ち上がりかけ、それから一度だけ振り返った。


「……ねえ、名もなき剣士さん。もしまた会えたら、その時はもっと外の話を聞かせてね。戦いのお話じゃなくて、もっと、綺麗な世界のことを」


「……綺麗な世界なんて、あまり知らないけどな」


「それでもいいの」


アンネリーゼはそう言い残すと、驚くほど軽やかな足取りで、闇に溶けるように消えていった。後に残されたのは、月光草の微かな香りだけだった。


---


シューベルトは、彼女がいなくなった夜道をしばらく見つめていた。


名前だけ知った。それだけだ。素性も、立場も、この城でどんな役割を持つ人間かも、何も知らない。だが、あの瞳の奥にあったものは見た。


檻の中にいる者の目だ、とシューベルトは思った。美しい城壁に守られ、外の世界を遠くから眺めているだけの目。


自分とは正反対だ。自分は、その外の世界を這い回っている。泥の中で、石を投げられながら。


なのに、どこか似ている気がした。


正しくあり続けることと、生きていることは同じじゃない。その言葉が、まだ頭の中に残っていた。


左胸の拍動は、今はもう静かになっていた。まるで、会うべき相手に会えたことで、ようやく落ち着いたように。


シューベルトは宿への道を歩き出した。


諦めていない目、と彼女は言った。自分ではそう思っていなかった。だが、誰かにそう見えているなら、それでいいのかもしれない。


剣の柄を握りしめる手に、いつもとは違う熱があった。


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