泥銀貨
宿舎の扉を開けた瞬間、暖炉の熱気が顔を包んだ。
城下に用意された宿舎は、傭兵団が泊まるには過剰なほど広い部屋だった。石造りの壁、人数分の寝台、中央には大きな円卓。窓にはガラスが嵌まっていて、外の夜風を遮っている。アイリーンが真っ先に寝台に飛び込み、その柔らかさを確かめるように何度か跳ねた。
「藁の匂いがしない。ちゃんとシーツが敷いてあるよ!」
「静かにしてよ、アイリーン」
サラが苦笑しながら窓際に歩み寄り、透明なガラス越しに差し込む月光に目を細めた。
「窓ガラスがある部屋で眠れるなんて、いつ以来かな」
ロバートは壁に背を預けて座り込み、配給された干し肉を無言で噛んでいた。エドは隅の寝台に荷物を無造作に放り投げ、すぐに砥石を取り出して短剣を研ぎ始める。いつも通りだ。どんな場所でも、エドは最初に自分の武器の状態を確認する。
シューベルトは円卓の椅子を引いて腰を下ろし、片手剣の手入れを始めた。
部屋に満ちるのは、砥石の音、暖炉の爆ぜる音、アイリーンが鼻歌を歌う声。それだけだ。言葉は要らなかった。この沈黙が、彼らにとっての「安堵」だった。
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食事が終わり、暖炉の火が落ち着いてきた頃、ロバートが不意に口を開いた。
「……なあ。お前たち、騎士になれたら何がしたい」
唐突な問いに、アイリーンが寝台の上で起き上がった。
「何、急に」
「いや、さっきバルカスとかいうおっさんに言われた言葉を思い出してな。『これからの働き次第』ってやつ。……それって、まだ何も決まってないってことだろ。だから逆に、ちゃんと考えておきたくなった」
ロバートは干し肉の残りを口に放り込み、天井を見上げた。
「俺はな、まず真っ先に、あの宿場町の検問所の前を通ってやりたい。騎士の正装で、馬に乗って。あの連中がどんな顔をするか、今から楽しみで仕方ねえ」
「それだけ?」
「それだけじゃねえよ。……その後で、ちゃんと食える場所を作りたい。俺には故郷がない。だから、仲間と一緒に飯を食える場所が、俺の故郷になる。それが屋根のある場所だったら、もう十分だ」
ロバートにしては珍しく、静かな声だった。
アイリーンは少し黙ってから、赤いポニーテールをほどいて指先でいじった。
「あたしはサラに、ちゃんとした診療所を建ててあげたい。戦場じゃなくて、屋根のある場所で、ゆっくり人を治せるような場所。サラって、いつも自分のことは後回しにするから」
「……私のことは気にしなくていいのに」
「気にするの。あたし、サラに助けてもらってばっかりだから」
アイリーンがそっぽを向いて言うと、サラは困ったように微笑んだ。そして少し考えてから、静かに答えた。
「私は……ただ、今夜みたいな夜が続けばいいと思ってる。みんなが怪我をしないで、温かい場所で眠れる夜が」
「地味だな」
「地味でいいの。それが一番難しいことだと思うから」
エドは砥石を動かす手を止めなかった。しばらく沈黙した後、誰に向けるでもなく呟いた。
「……俺は別に、何もいらない」
「嘘つき」
アイリーンが即座に言い返す。
「嘘じゃない」
「じゃあなんで毎回、自分より先に仲間の背後を守るの」
エドは答えなかった。砥石の音だけが、規則正しく続いた。それが彼なりの答えだとシューベルトは思った。
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「シューはどうなんだ」
ロバートが聞いてきた。
シューベルトは手入れを中断し、剣を膝の上に置いた。
何がしたいか。正直に言えば、答えはひとつしかない。だがそれは、今ここで口にできるようなものではなかった。
「……仲間が、石を投げられない場所にいられれば、それでいい」
「それだけか」
「それだけじゃないけど、今はそれだけでいい」
ロバートは少し考えてから、「まあそうだな」と頷いた。
フクロウは円卓の端で、ずっと黙って仲間たちの話を聞いていた。誰かが彼に問いかけることはなかった。フクロウはいつもそうだ。皆の話を聞く側に回って、自分のことはほとんど語らない。
シューベルトはふと、そのフクロウの目に気づいた。
ロバートの不器用な夢も、サラの静かな祈りも、エドの沈黙も、すべてを受け止めるような深さがあった。兄貴分というより、もっと遠くを見ている者の目だ、とシューベルトは思った。その「遠さ」が何を意味するのか、この時の自分にはまだわからなかった。
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やがて暖炉の火が小さくなり、団員たちが一人ずつ眠りにつき始めた頃、フクロウが立ち上がり、懐から小さな革袋を取り出した。中には数枚の銀貨が入っている。彼は燭台の光にそれをかざした。
「これは、俺たちが前回の依頼で稼いだ金だ」
誰も寝ていなかった。皆、黙って聞いていた。
「世間様は、これを『汚れた金』と呼ぶだろう。泥にまみれ、血が染み付いた、と。……だが、俺にとっては違う。これはお前たちが今日まで生き延びた証明であり、明日を勝ち取るための弾丸だ」
フクロウは銀貨を袋に戻し、一人一人の顔を力強く見つめた。
「奪われた名誉でも、失った過去でもない。明日、腹を空かせずに、石を投げられずに眠れるという当たり前の権利。それをトマスの地で手に入れる。……そのためなら、俺はどんな汚名でも背負う。お前たちを、二度とただの流れ者だなどとは呼ばせない」
ロバートが鼻を鳴らし、アイリーンが少しだけ笑みを浮かべた。
シューベルトは、剣の柄を強く握りしめた。
この人を、信じている。ずっとそう思ってきたし、今もそう思っている。炎の中から自分を連れ出してくれた、唯一の人間だ。
暖炉の火が、最後に一度大きく爆ぜて、静かに落ちた。




