軍という生き物
軍隊とは、人ではなく仕組みで動く。どれほど腕の立つ戦士も、どれほど頭の切れる指揮官も、軍という生き物の中では一つの部品に過ぎない。部品は全体の都合で動かされ、不要になれば外される。そういうものだと知っていても、実際に歯車の中に組み込まれてみると、自分の小ささが骨身に沁みる。
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二日目の行軍から、軋みが始まった。
正規軍の中隊長が、朝の集合に遅れた傭兵団を列の最後尾に追いやった。空の戦士団ではなく、別の小隊だ。だがそれを見た各傭兵団の空気が、ざわついた。遅れた理由を聞けば、夜番の当直を押しつけられた末の寝坊だという。当直自体、正規軍の兵士が拒否したものを回してきたらしい。
ロバートは聞こえてきたその話を黙って聞いていたが、昼の休憩で口を開いた。
「腹が立つな」
干し肉を齧りながら言う。シューベルトは無言で水を飲んだ。
「俺たちも同じ目に遭うかもしれないって話だろ。当直を押しつけられて、遅刻したら怒鳴られて、列の最後尾に落とされる。馬鹿馬鹿しい」
「まだ俺たちの話じゃない」
「今はな。でも、そういう組織なんだろうよ。傭兵を使い捨ての駒としか思ってない。準騎士になっても、結局は同じじゃないのか」
「それを確かめに来たんだろう」
「……まあ、そうだけどな」ロバートは干し肉を噛み直した。「しかしシュー、お前はよくそんなに冷静でいられるな」
「冷静じゃない。怒っていても、今は黙っておく方が得だと判断しているだけだ」
ロバートは少し目を見開いてから、低く笑った。「相変わらず、正直な奴だ」
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三日目、戦士団に最初の衝突が来た。
午後の行軍中、隊列の再編成が行われた。正規軍の再編を優先するため、傭兵団の各小隊は指定された待機区域で足を止めるよう命令が下りた。問題は、その待機区域が街道脇の泥濘の中だったことだ。乾いた路肩は正規軍の荷馬車が占めており、傭兵団の入る余地はなかった。
「なぜ俺たちがあそこに立たなければならない」
ロバートが声を荒らげた。相手は正規軍の伝令兵で、二十そこそこの若い男だ。伝令兵は命令書を盾にしながら「規則です」の一点張りを繰り返し、それがまたロバートの怒りに油を注いだ。
「規則?俺たちは準騎士だぞ。あの列に混じる資格がある。なのに泥の中で待てとは、どういう了見だ」
「お前たちの分の位置はありません。先に割り当てが終わっていた。文句があれば中隊長殿に」
「その中隊長殿とやらを今すぐここに連れてこい」
「ロバート」
フクロウの声は低く、静かだった。だがその一言で、ロバートの肩がぴたりと止まった。
フクロウは伝令兵に向き直り、口調を変えずに言った。「命令の内容は理解した。確認したいのだが、待機の時間はどれくらいだ」
「……一刻ほどかと」
「分かった。俺たちは指示に従う」フクロウは伝令兵を見据えたまま続けた。「ただ、その間に起きた問題の責任の所在については、後で中隊長殿と話し合わせてもらう。それだけ伝えてくれ」
伝令兵は何かを言いかけたが、結局黙って頷き、去っていった。
―――
泥濘の待機区域で、ロバートはしばらく黙っていた。
靴底が泥に沈む感触が不愉快で、それが余計に気分を悪くさせた。だがフクロウの制止の意味は分かっていた。ここで伝令兵を怒鳴りつけても、得るものは何もない。むしろ軍の上層部に「扱いにくい傭兵団」という印象を植えつけるだけだ。
「……フクロウ」
「何だ」
「お前は怒らないのか」
フクロウは泥の中に立ったまま、表情を動かさずに答えた。「怒っていても、顔には出さない」
「それで済むのか」
「済まなくてもそうする。感情で動いた後の始末は、いつも自分でつけなければならない。今は、動く時じゃない」
ロバートは泥を踏みしめ、短く息を吐いた。「……分かった。俺が軽率だった」
「お前は軽率じゃない。怒るべき場面で怒った。俺が言ってるのは、そのタイミングと相手の話だ」
その言い方が、ロバートには少し意外だった。否定でも叱責でもない。怒り自体は正当だと認めた上で、発露の場所を言っている。
「次に動く時は教えてくれ」とロバートは言った。
「動く時が来たら、お前が一番槍だ」
フクロウの口元が、わずかだけ動いた。笑ったのか、そうでなかったのか、ロバートには判断がつかなかった。
―――
待機が終わり行軍が再開した頃、シューベルトはアイリーンに話しかけられた。
「ねえ、さっきのやり取り、見てたよ」アイリーンが小声で言う。
「ロバートとフクロウの?」
「うん。フクロウって、本当にうまいよね。ロバートを抑えながら、ちゃんとロバートの怒りも正しいって言った。あれって、すごく難しいことじゃない」
シューベルトは少し考えてから頷いた。「団を率いる時に必要なことだ。怒りそのものを否定すると、怒っていた人間が次から怒りを隠すようになる。そうなると、本当に問題が起きた時に誰も声を上げなくなる」
「……なんで知ってるの、そういうこと」
「フクロウに教わった」
アイリーンは「ふうん」と呟いた。それから少し間を置いて「シューも、いつかそういうふうになるんだろうな」と言った。
「何が」
「みんなを率いる立場に。フクロウみたいに」
シューベルトは答えなかった。その問いに、今すぐ答えを出せる気がしなかった。
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四日目の夜営で、戦士団に別の傭兵団が接触してきた。
三人組で、全員が三十代以上の歴戦の雰囲気を持つ男たちだ。先頭の男は顔に大きな傷跡があり、声が野太い。自分たちは「牙砕き」という小規模の傭兵団だと名乗った。
「空の戦士団って聞いてたんだが、本当にいたんだな。タレス様の親衛隊みたいなもんだって話だったから、もっとこう、いかめしいかと思ってた」
アイリーンが「どういう意味ですか」と眉を上げたが、ロバートが先に「まあ座れよ」と荷箱を勧めた。
傷跡の男——名はダグラスと言った——は遠慮なく腰を下ろし、干し肉を一切れちぎりながら続けた。「いや、悪い意味じゃない。俺たちも傭兵上がりだ。準騎士なんて肩書きができても、正規軍には鼻で笑われるだろう。そのあたりは分かり合えるかと思ってな」
「今日の話、聞いてたか」ロバートが言った。
「泥の中で待機させられたやつか。あれはひどかった。うちにも同じことが来たよ。違うのは、うちの場合は黙って踏んだ」
「踏んだ?」
「泥を。黙って立ってた。文句を言っても変わらない。向こうは俺たちが消耗してくれた方が都合いいんだ。正規軍が割り当てを食い合う前に、傭兵を使い切ればいい。そういう計算をしてる上の連中がいる」
場の空気が、少し重くなった。ダグラスは干し肉を噛みながら、淡々と続けた。
「昔、俺が初めて大きな遠征に組み込まれた時に、先輩に言われた言葉がある。軍という生き物は、俺たちのことを人間だとは思っていない。ただ、人間の形をした装備品だと思っている。消耗したら補充すればいい、という話だ」
沈黙が落ちた。
「じゃあ、なぜここにいるんですか」サラが静かに聞いた。天然のような口調だが、その質問は的を射ていた。「分かっていて、なぜ来るんですか」
ダグラスは少し目を細めた。
「稼ぎのためだ。それと」と彼は言って、焚き火に目を向けた。「一緒に飯を食う仲間のためだ。この仕事は、仲間がいないと続けられない」
それ以上は何も言わなかった。しばらく焚き火を囲んで過ごし、「明日も早い」と言ってダグラスたちは引き上げた。
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その夜、シューベルトはしばらく眠れなかった。
ダグラスの言葉が引っかかっていた。軍という生き物は、俺たちのことを人間の形をした装備品だと思っている。それは、傭兵になった頃から肌で知っていたことだ。宿場で追い払われ、通行税を割り増しされ、命がけの仕事をしても誰も振り返らない。そういう世界に生きてきた。
だが今回は規模が違う。小さな傭兵仕事で理不尽に遭うのと、千を超える軍勢の中で部品として扱われるのとでは、その重さが違う。
——俺たちは、この戦いで何のために戦うのか。
問いとして整理する前に、感覚として浮かんでいた。騎士の称号は欲しい。仲間に誇れる場所が欲しい。だがそれだけのために、この軍勢の歯車になって動くのか。
答えは出なかった。
フクロウの寝床を見ると、彼はすでに目を閉じていた。いつも早く眠り、早く起きる。仲間の誰よりも規則正しいその習慣が、遠征の中でも変わっていないことに、シューベルトは小さな安堵を覚えた。
理由は分からない。ただ、フクロウが同じリズムで動いていることが、今夜は何かを安定させた。
左胸の拍動は、今夜は静かだった。強くも弱くもなく、一定のリズムで続いている。
シューベルトは目を閉じた。
―――
五日目の昼前、遠征軍は最初の砦に到着した。
「砦」という言葉から想像するよりも、実際は大きかった。山の斜面を切り開いて造られた石造りの要塞で、内部に複数の兵舎と兵站倉庫を備えている。ここを中継点として、各隊は補給と休養を取り、次の行動に備える。
「こいつはたまげた」
城門をくぐりながら、ロバートが感嘆した声を出した。「魔族と戦い続けてきた連中が、これだけの設備を作ったのか」
「百年以上かけて積み上げたんだろう」シューベルトは石壁の傷跡を見ながら言った。「ここにも、無数の死があった」
城壁には、修繕の跡が幾重にも重なっていた。新しい石が古い石に継ぎ足され、その上にまた新しい石が積まれている。それが何度も繰り返された跡だ。どれだけ崩されても、また建て直した。その繰り返しの歴史が、静かな重さで壁に刻まれていた。
アイリーンが何かを言いかけたが、口を閉じた。珍しかった。
サラは無言で壁に触れた。彼女がこういう仕草をする時は、大抵、死の気配を感じ取っている。
「ここで何人が死んだんだろう」エドが誰にともなく言った。
誰も答えなかった。答える言葉を、誰も持っていなかった。
―――
その夜、砦の一角に割り当てられた兵舎で、フクロウが戦士団を集めた。
外では正規軍の兵士たちが夜番の引き継ぎをしており、その声が石壁越しに低く響いている。
「砦に着いた。明日から、態勢が変わる」フクロウは全員の顔を見渡した。「ここから先は遠征ではなく、戦だ。補給線が延び、陣形が固まり、指揮系統が明確になる。その中で俺たちがどう動くかを、ここで確認しておく」
「正規軍の指揮下に入るんだよな」ロバートが確認する。
「原則はそうだ。ただし、俺たちには独立行動の余地が確保されている。フクロウ名義での依頼書がある。それが何のためかは、必要な時に話す」
「今は話さないのか」
「今は話す必要がない」
ロバートは一瞬何か言いたそうな顔をしたが、黙って頷いた。フクロウがそう言う時は、必ず理由がある。それをこの三年で学んでいた。
「各自、今夜中に装備の最終確認をしろ。明日の朝、部隊編成の会合がある。そこで俺たちの立ち位置が決まる」
「具体的に、どんな戦い方をするんだ」エドが聞いた。珍しく自分から口を開いた。
「前線の一部を担う。主力は正規軍と私兵。俺たちは機動力を活かした遊撃と、要所での突破口開けだ。エド、お前には先行偵察を頼む。一番こたえる役だが、一番重要でもある」
エドは無言で頷いた。了解の仕方が、一言より明確だった。
「サラは後方支援と思うな」フクロウはサラに向き直った。「戦場では前線のすぐ後ろに入れる。そこでないと間に合わない場面が出てくる。危険だが頼む」
「……分かりました」サラは静かに答えた。いつものふわふわした口調ではなく、治療の場でだけ出てくる、芯のある声だった。
「私は?」アイリーンが手を挙げた。
「お前は自由に動け」フクロウは珍しく短く言った。「計画に組み込みすぎると、お前の良さが消える」
アイリーンが「それって褒めてるの」と聞くと、フクロウは答えなかった。それがロバートには十分な答えに見えた。
「シュー」フクロウが最後に言った。「お前は俺の傍に置く。ただし、俺の言う通りに動く必要はない」
「……どういう意味だ」
「俺の見えないところで、お前が判断しなければならない場面が来る。その時に、俺の言葉に縛られてほしくない。自分の目で見て、自分の意志で動け」
その言葉の重さを、シューベルトはうまく量れなかった。団長がそれを言うのは、珍しかった。
「分かった」
それだけ答えた。
フクロウは頷き、全員を見渡してから言った。
「生きて帰れ。それが最初の命令だ」
誰かが低く笑った。緊張が少しほどけた。ロバートが「難しいことを言うよな」と呟き、アイリーンが「でもそれが一番難しいんだよね」と言った。サラが「私、みんなの傷は全部治すから」と言った。エドは何も言わなかったが、砥石を出して短剣を研ぎ始めた。
シューベルトは、その場の全員を見渡した。
砦の壁に刻まれた無数の傷が、思い出された。何度崩されても、また建て直した跡。死を積み重ねた上に今がある。だが今ここにいる者たちを、その数の一つにするつもりはない。
左胸が静かに、しかし確かに脈打った。
明日から、本物の戦が始まる




