出立の朝
冬が終わりを告げる季節には戦が増える。雪が溶けて道が開き、兵站が動き始める。人間も魔族も、春の訪れとともに牙を剥く。大陸の歴史はおおむね、その繰り返しだった。違うのは今年、その牙が例年よりも深く、大きいことだ。
―――
夜明け前の城下は、静かだった。
しかし静かなのは音だけで、空気は違った。馬の息遣い、金属の軋む音、革靴が石畳を踏みしめる低い響き。声は少ない。戦場へ向かう兵士が持つ特有の張り詰めた沈黙が、まだ暗い城門前の広場を支配していた。
シューベルトはその広場の片隅に立ち、集結しつつある軍勢を眺めた。
数が多い。正規軍の歩兵に騎馬隊、トマス家直属の私兵、そして各地から招集された傭兵団。旗印は違えど、目指す方角は一つだ。西。鬼族の軍勢が蠢く、魔族の領域の境界線。
「……でかいな」
隣に立ったロバートが、腕を組んで広場を見渡した。夜明けの薄い光が彼の大盾に反射して、鈍く光る。
「俺たちがこれまでやってきた仕事とは、規模が違う。何十倍かな、いや百倍近くいるんじゃないか」
「千を超えるだろう。正規軍だけで」
シューベルトは短く答えた。フクロウから聞いた数字だ。それに私兵と傭兵を合わせれば、相当な大軍になる。これほどの軍勢がひとつに動く戦など、これまでの傭兵稼業では経験したことがなかった。
「なあシュー」ロバートが声を低くした。「俺たち、ちゃんとやれるか。こういう大軍の中で」
「さあな」
「さあなって……もう少し頼もしいことを言えよ」
「やってみなければ分からない。やれないと思ったら、やれるようになるまで考える。それだけだ」
ロバートは一瞬黙り、それから低く笑った。「お前、本当に不愛想だよな」と言いながら、どこか安心したような顔をした。
シューベルトは左胸に手を当てた。今朝は夜明け前から、拍動が強い。昨夜の屋上で感じた、あの西からの気配への応答か。あるいは来るべき戦いを嗅ぎ取って、何かが目を覚まそうとしているのか。理由は分からない。だが確かに、脈打っている。
―――
出立の一刻前、シューベルトは城の回廊を歩いていた。
別館から本館へと続く渡り廊下。冬の朝の石床は冷えており、足音だけが反響する。ここを通るのはおそらく今日が最後だ、と思いながら歩いていると、前から人が来た。
足が止まった。
アンネリーゼだった。
白い礼装ではなく、薄い群青色の部屋着のままで、侍女の一人だけを連れている。早朝に令嬢がこんな場所を歩いているのは、明らかに不自然だった。
「……待っていたの」
彼女が先に言った。声は静かで、けれど確かな意志があった。「出立の前に、どうしても。一言だけ」
侍女が遠慮がちに視線を逸らす。二人の間に、短い沈黙が落ちた。
「昨夜、あまり眠れなかったわ」アンネリーゼは続けた。「翼の神獣が、ずっと、何かを感じているのが分かって。……あなたの中の白銀の力が、遠くなっていくような気がして」
「すぐに遠くなるわけじゃありません。行軍には時間がかかる」
「分かってる」アンネリーゼは微かに笑った。今日は令嬢の仮面ではなく、あの無邪気な顔だった。「でも、遠くなったら怖いと思って。そう気づいたら、どうしても会っておきたくなったの」
シューベルトは何と答えるべきか分からなかった。
「約束、覚えていますか」と彼は言った。
「ええ。生きて帰ってきて、また外の話を聞かせて」
「守ります」
「信じているわ」アンネリーゼはまっすぐにシューベルトを見た。その目には、昨夜に感じた共鳴の余韻がある。白亜の力と翼の神獣が、距離を越えて響き合った、あの不思議な余韻が。「あなたの中の力を、信じなさい。私には分かるの。あれは、誰かを守りたいと思った瞬間に、本当の顔を見せる力だから」
シューベルトの左胸が、静かに、温かく跳ねた。
「……ありがとうございます」
それだけ言うのが精一杯だった。アンネリーゼは頷き、侍女を連れて元来た道を戻っていった。去り際に一度だけ振り返り、あの悪戯っぽい微笑みを残して、角を曲がった。
回廊に一人残ったシューベルトは、しばらく動けなかった。
左胸の拍動が、穏やかに、しかし確かに続いている。これが何なのか、まだ完全には分からない。だがこの力が「守る意志」に応えるものだという実感は、ある。仲間を。アンネリーゼを。そして今日から向かう先にある、見知らぬ誰かを。
守るために、行く。
それだけを確認して、シューベルトは歩き出した。
―――
城門前の広場に戻ると、戦士団の全員が集まっていた。
フクロウが馬の傍らに立ち、静かに遠征軍の動きを眺めている。ロバートはすでに荷をまとめ終え、アイリーンが彼の盾に自分の名前を書こうとして叱られていた。サラは薬草の包みを丁寧に革袋に詰め直し、エドはナイフを帯に差し込みながら、誰も見ていない方角に目を向けていた。
いつも通りだった。それが、妙に心強かった。
「揃ったか」
フクロウが振り向いた。その視線が一人一人を確認し、シューベルトのところで一瞬止まった。何かを言いたそうな顔をしたが、結局何も言わず、馬の手綱を引いた。
「行くぞ」
それだけだった。
城門が開いた。遠征軍の先頭が動き始める。旗が翻り、馬蹄が鳴り響く。「銀翼のトマス」の旗と、帝国の双頭鷲の旗が並んで、朝の空に上がった。
シューベルトは、その旗を見上げた。あの旗の下には、正規軍がいる。騎士たちがいる。傭兵上がりの準騎士など、彼らにとっては今も「異物」に過ぎないだろう。それでも、目指す方角は同じだ。
「行こう」
シューベルトは仲間たちに言った。
「ああ」ロバートが槍を担いだ。
「やっと始まるね!」アイリーンが双剣を背に固定した。
「……うん」サラが革袋を肩に掛けた。
エドは何も言わなかった。ただ、黙って隊列に加わった。それで十分だった。
フクロウが最後に、戦士団の面々を一望した。その目に何が映っているのか、シューベルトには読めなかった。だが今日の彼は、頼れる団長の顔をしていた。迷いのない、前を向く顔を。
一行は動き出した軍勢の流れに加わった。
―――
城下を抜けて西の街道に出ると、遠征軍の規模がより鮮明になった。
前後がかすんで見えないほどの行列だ。騎馬隊が先導し、歩兵の縦列が続き、兵站の荷馬車がそれに連なる。傭兵団は列の中ほどに組み込まれており、正規軍の指揮下に入る形だ。
「準騎士だからって、誰も仲良くしてくれないな」
ロバートが小声で言った。隣を歩く正規軍の歩兵たちが、視線を向けてくることはなかった。無視、というより、最初から「いないもの」として処理されている感じだった。
「慣れろ」シューベルトは前を向いたまま答えた。
「慣れてるよ。慣れてるけど、毎回腹が立つんだよな」
「腹を立てていい。動かされるな、というだけだ」
ロバートはしばらく黙り、それから「シューはたまにフクロウみたいなこと言うよな」と呟いた。
シューベルトは答えなかった。
行軍が続く。街道の脇には、まだ冬の名残で枯れた草が広がっていた。鳥の声はなく、遠征軍の足音と馬蹄だけが響く。遠い西の方角の空は、どこか重かった。
アイリーンが横に並んできた。
「ねえシュー。なんか怖い顔してるよ」
「そうか」
「そうだよ。もっとこう、前向きな顔してよ。あたし、テンション上げて行きたいのに」
「テンションを上げる理由があるか」
「あるでしょ!騎士になれるかもしれない旅だよ?それに……」アイリーンは少し声を落とした。「あたし、実はちょっと楽しみにしてたんだ。戦士団で、ちゃんとした戦をするの」
シューベルトは横を見た。アイリーンは前を向いていた。その横顔には、いつもの明るさの裏に、何か固いものがある。
「仲間と一緒なら、どんな相手でも」と彼女は続けた。「そう思ってる。……根拠はないけど」
「根拠のない確信は、案外当たる」
「……珍しく励ましてくれた。シューにしては上出来」
アイリーンが笑った。シューベルトも、少しだけ口元が緩んだ。
行軍の空気が、わずかに変わった気がした。
―――
昼を過ぎた頃、行軍の流れが一時緩んだ。補給の調整らしく、列が止まって水と食料が配られた。
シューベルトが水を飲んでいると、エドが近づいてきた。
「……臭いが、少し変わってきた」
短い言葉だったが、シューベルトは意味を理解した。「何の臭いだ」
「腐った草と、瘴気が混じったような。まだ薄い。でも、この先の空気とは違う」
「どの方角から」
「西。……ずっと西の方から、風に乗って来てる」
シューベルトは顔を上げた。西の空は、行軍の旗と軍勢で覆われている。その奥に何があるのか、今はまだ見えない。
エドが砥石を出して短剣を研ぎ始めた。考え事をする時のクセだ。
「怖いか」とシューベルトは聞いた。
エドは一拍置いた。
「怖い怖くないより、何がいるか分かれば対処できる。分からないのが嫌だ」
「そうだな」
「……でも、まあ」エドは低く続けた。「今回は、一人じゃないから」
それだけ言って、短剣の研ぎに戻った。
シューベルトは、その横顔を少し眺めた。
一年前、この少年が仲間に言葉をかけることはほとんどなかった。今は違う。短いが、確かに、何かを伝えようとしている。それが、この戦士団の積み重ねだと思った。
―――
日が傾き始めた頃、遠征軍は最初の野営地に着いた。
城壁に守られた砦でも宿場町でもなく、街道脇の開けた草地に陣幕を張る形だ。正規軍が先に良い場所を取り、傭兵団は外縁の風当たりの強い場所を割り当てられた。文句を言う者もいたが、フクロウが「そういうものだ」の一言で収めた。
焚き火を起こし、夕食の用意をしながら、ロバートが言った。
「今日の移動距離は、まあまあだな。足の遅い荷馬車に合わせて進んだから、こんなもんか」
「砦に着くまで、あと数日はかかる」フクロウが焚き火の向こうから答えた。「それまでは、体力を温存しろ。消耗戦が始まってから後悔しても遅い」
「了解です団長」アイリーンが敬礼のような仕草をした。「ところで夕飯は?」
「干し肉と黒パン。贅沢を言うな」
「うう……」
サラが黙って黒パンを二枚、アイリーンに渡した。アイリーンが「サラは天使だ」と言い、ロバートが「干し肉も俺が焼いてやる」と言って、小さな笑いが起きた。
エドは少し離れた場所に座って、西の方角を向いていた。手元では、また短剣を研いでいる。
フクロウはその全員を、焚き火の向こうから眺めていた。その目は静かで、何を考えているのか分からなかった。シューベルトとたまたま視線が合ったが、フクロウはすぐに目を逸らし、空を仰いだ。
夜空には星が多かった。
西の方角の星は、昨夜より少し、赤みを帯びているように見えた。
シューベルトは左胸に手を当てた。拍動は続いている。行軍の疲れとは別の、奥底からの、静かな高鳴りが。
嵐の前の夜はこういうものかもしれない、と思った。穏やかで、温かく、そしてどこか張り詰めている。
遠征は、始まったばかりだ。
―――
仲間たちが眠り始めた後、シューベルトは一人起きていた。
焚き火が小さくなっている。薪を一本足して、炎が戻るのを眺めていると、隣に人の気配がした。フクロウだった。
「眠れないのか」
「少し考えていた」
フクロウは黙って隣に腰を下ろし、同じように焚き火を見た。二人の間に、短い静けさがある。この沈黙には、慣れている。子供の頃からずっと、こういう夜が何度もあった。言葉がなくても伝わる何かが、この男との間にはある。
「今日の行軍、どう見た」とフクロウが言った。
「軍という生き物は、想像以上に鈍い。だが重い」
「そうだ。個の武勇だけでは動かせない。これまでと根本的に違う戦い方が必要になる」
「分かっている」
「分かっていると言えるほど、お前はまだ組織戦を知らない」フクロウの声は淡々としていた。責めているわけではない。「今回の遠征で学べ。軍をどう動かすか。指揮系統の中で、自分の戦力をどう活かすか。それを体で覚えることが、この戦の副産物だ」
シューベルトは頷いた。フクロウがこういう言い方をする時、それは命令ではなく「見ておけ」という意味だ。自分が知っていること、気づいていることを、遠回しに渡してくれる。ずっとそうだった。
「フクロウ」シューベルトは焚き火を見たまま言った。「今回の鬼族との戦い、お前はどう見ている」
少し間があった。
「思っていたより、大きな戦になる」フクロウは静かに言った。
「ゲオルグは前線に出てくるつもりでいる。あの男が動けば、規模は格段に上がる。……覚悟しておけ」
「覚悟は、している」
「体の覚悟じゃない」フクロウの目が、初めてシューベルトを向いた。「自分の知らない何かに直面した時の、心の覚悟だ。鬼族は、お前がこれまで戦ってきた相手とは違う。知性がある。言葉がある。誇りがある。……戦えば、それが分かる瞬間が来るかもしれない」
その言葉の意味を、シューベルトはうまく受け取れなかった。
「分かったら、どうすればいい」
「分かってから考えろ」
フクロウは立ち上がり、自分の寝床に戻っていった。その背中は月明かりの中で細く見えた。この男がこういう言い方をする時、決まって何か大きなものを知っているような気がする。だがその何かを、今のシューベルトには問う言葉がなかった。
焚き火がぱちり、と音を立てた。
左胸の拍動が、一度、強く跳ねた。
西の空に目をやると、雲が少し増えていた。星が隠れていく。どこかで、何かが動いている。まだ見えない。まだ聞こえない。だが確かに、近づいている。
シューベルトはしばらくその空を見つめてから、目を閉じた。
明日も、行軍は続く。




