嵐の前
嵐の前には、不思議な静けさが訪れる。風が止み、鳥が鳴きやみ、世界が息を潜める。その静けさは、平穏ではない。来るべきものを前にした、張り詰めた沈黙だ。空の戦士団に訪れた半月は、まさにそういう時間だった。
―――
西方遠征の下知から、準備の日々が始まった。
装備の点検。戦術の確認。体調の管理。フクロウの指示のもと、戦士団は淡々と準備を進めた。これまでの知性なき魔族の駆除とは違う。組織された鬼族の軍勢との戦。生半可な備えでは、命がいくつあっても足りない。
訓練場では、連日、激しい打ち込みが続いた。
ロバートは、大盾の補強に余念がなかった。あのボルガの一撃を思い出し、防御を一段と固める必要を感じていた。アイリーンは、双剣の手入れと、風魔法の精度を上げる訓練に打ち込んだ。エドは、投剣の本数を増やし、新たな隠密の経路を頭に叩き込んだ。
サラは、治療用の薬草と包帯を、これまでの倍の量、用意した。
「誰も死なせない」というのが、彼女の口癖になっていた。普段のおっとりした空気の奥で、サラは静かに覚悟を固めていた。戦場で、一人でも多くの仲間を生かす。そのために、できる準備は、すべてしておく。
シューベルトは、剣を振り続けた。
あの神獣廟の儀式以来、左胸の拍動は変わっていた。より強く、より深く。剣を振るたびに、その力が、体の奥で、わずかに応えるのを感じる。だが、まだ、完全には引き出せない。守るという意志が、本当の意味で、力と一つにならなければ。
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準備の合間、シューベルトは一度だけ、アンネリーゼに会うことができた。
儀式から回復した彼女が、再び城下の慰問に出ることになり、その警護を、戦士団が務めたのだ。遠征の前の、最後の警護任務になるかもしれなかった。
慰問先の救護院の、いつもの中庭。
アンネリーゼは、シューベルトを見つけると、侍女の目を盗んで、そっと近づいてきた。その顔色は、まだ少し青白かったが、あの儀式の日の、消え入りそうな弱々しさは、もうなかった。
「西へ、行くのね」アンネリーゼは、静かに言った。
「……ええ。お聞きに、なりましたか」
「城中の噂よ。大きな遠征になるって」彼女は、目を伏せた。「鬼族との、戦い。危険な戦いだと、聞いたわ」
「ご心配には、及びません」シューベルトは、できるだけ穏やかに言った。「俺たちは、これまでも、生き延びてきました。今度も、必ず」
アンネリーゼは、しばらく黙っていた。それから、顔を上げ、まっすぐにシューベルトを見た。
「あのね、シューベルト。一つだけ、お願いがあるの」
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「あなたの中の力。あの儀式の時に、私に流れてきた、白銀の力」アンネリーゼは、自分の胸元に手を当てた。「あれは、とても温かかった。私の苦しみを、分かち合ってくれた。……あの力は、きっと、あなたを守ってくれる」
「アンネリーゼ様」
「だから、信じて」彼女は、微笑んだ。「自分の中の力を。それは、誰かを守りたいと思った時に、本当の姿を見せる。私には分かるの。翼の神獣が、そう教えてくれる」
その言葉に、シューベルトは、はっとした。
守りたいと思った時に、力が応える。フクロウも、同じことを言っていた。アンネリーゼも、神獣の巫女として、それを感じ取っている。二つの神獣の力は、根のところで、繋がっているのかもしれない。
「必ず、生きて帰ってきて」アンネリーゼは、囁いた。「そして、また外の話を聞かせて。約束よ」
「……約束します」シューベルトは、頷いた。
その時、彼女の指先が、ほんの一瞬、シューベルトの手に触れた。
左胸が、静かに、温かく脈打った。共鳴の穏やかな拍動。二人の神獣が束の間呼び合った。それは、戦いの前のささやかな祝福のようだった。
「アンネリーゼ様、お時間が」
侍女の声がして彼女は手を引いた。
「……行くわね」アンネリーゼは、令嬢の顔に戻った。だが、去り際、もう一度だけ振り返りシューベルトにだけ見える、あの無邪気な微笑みを残していった。
―――
遠征の前夜。
別館では、ささやかな宴が開かれていた。
誰が言い出したわけでもない。ただ、明日からの戦いを前に、今夜くらいはいつも通りに過ごそう、という空気が自然と生まれた。フクロウが酒を用意し、サラがありあわせの料理を作った。
「明日から、しばらくこういう夜もなくなるなあ」
ロバートが、ジョッキを傾けながら言った。
「縁起でもないこと言わないでよ」
アイリーンが頬を膨らませた。
「ちゃんと帰ってきて、また飲むんだから。今度は、もっといい酒、ね、シュー」
「ああ。約束したからな」シューベルトは、頷いた。
「あれ、それって、二人だけの約束?」
サラがにやにやと聞いた。
「いつの間に、そんな仲に??」
「ち、違うって!」アイリーンが、真っ赤になった。
「ただの、仲間の約束だもん!」
「ふぅん」
サラは、楽しそうに笑った。
いつもの、賑やかな夜だった。ロバートの大声、アイリーンの絡み、サラの天然。エドは隅で静かに飲みながらその様子を眺めていた。だがその口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。
そしてフクロウだけは、いつも通り変わらず、全員を見渡す位置に座っていた。
―――
宴の途中、シューベルトは、ふと、エドの隣に座った。
「エド。お前、あの孤児たちのことどうするんだ」シューベルトは、小声で聞いた。「遠征に行ってる間、物資を配れなくなるだろう」
エドは、しばらく黙ってから、答えた。
「……ガウェインに、頼んだ」
「ガウェイン?ロバートの兄貴分の」
「ああ。足は不自由だが、荷運びはできる。フクロウが回してくれる払い下げの物資を、あの人が、子供たちに配ってくれる」エドは、淡々と言った。「俺がいない間も続く。あの子たちが飢えないように」
シューベルトは感心した。エドは、自分が遠征に行く間のことまでちゃんと考えていた。あの無口な少年が、誰にも言わず、静かに段取りを整えていた。
「お前は本当に仲間思いだな」シューベルトが言うと、エドは、ふいと顔を背けた。
「……別に。ただ、約束したからだ」
「約束?」
「あの子たちに。また来る、って」エドは、ぽつりと言った。「だから、帰ってこなきゃいけない。約束を守るために」
その言葉にシューベルトは、胸を打たれた。
ロバートの、アイリーンの、そしてエドの約束。誰もが、何かを守るために、生きて帰ろうとしている。それが、この戦士団の強さの根だった。
―――
夜が更け、宴がお開きになった後。
シューベルトは、一人、別館の屋上に出た。
冬の夜空。西の方角の低い空に、あの赤い星が、いつもより強く輝いている気がした。明日、自分たちは、あの方角へ向かう。鬼族の潜む、西の森へ。
左胸が、これまでにない強さで脈打っていた。
まるで、何かが、近づいてくるのを感じ取っているかのように。
鬼族の軍勢。ボルガ。そして、その奥にある、もっと大きな、何か。
「眠れんのか」
声がして振り返ると、フクロウが立っていた。
「フクロウ」
「明日から、長い戦いになる。今夜は寝ておけ」
フクロウはシューベルトの隣に立ち、同じ空を見上げた。
二人は、しばらく無言で西の空を眺めていた。
「なあ、フクロウ」シューベルトが、口を開いた。
「お前は怖くないのか。鬼族との戦い」
フクロウは、少し間を置いてから答えた。
「怖くない、と言えば嘘になる」フクロウの声は、静かだった。
「だが、俺にはやらなければならないことがある。それを果たすまでは、死ねない。……だから、生き延びる。何があっても」
やらなければならないこと。それは、何なのか。
だが、シューベルトは、聞かなかった。フクロウには、フクロウの事情がある。長年そうやって信じてきた。きっと、団長としてほかの者にはわからない思いがあるのだろう。
―――
「シュー」フクロウが、ふと、言った。「お前は、強くなった」
「……そうか?」
「ああ。傭兵だった頃のお前は、ただ、生き延びることに必死だった。だが、今のお前は、守るために戦っている。仲間を。アンネリーゼを。下層の民を。……守るものが増えるたびに、お前は、強くなっていく」
フクロウの声には、珍しく、何か、感慨のようなものが滲んでいた。
「それは、お前の力の、本質なんだろうな」フクロウは続けた。「守りたいと思った時に、応える力。……いつか、その力が、本当に目を覚ます時が来る。その時、お前は自分でも知らなかった本当の力を見ることになる」
「フクロウ、お前、まるで——」シューベルトは、言いかけて、止めた。
まるで、俺の力のことをよく知っているような口ぶりだ。フクロウは、子供の頃からずっと一緒にいた。自分のことを、誰よりも見てきた。だから、分かるのだろう。それだけのことだ。
「明日からの戦い、頼りにしてるぞ」フクロウは、シューベルトの肩を、軽く叩いた。「お前は、この戦士団の切り札だ」
「ああ。任せろ」
シューベルトは、頷いた。フクロウの手の温もりが、肩に残った。この男がいれば、大丈夫だ。何があっても。シューベルトは、そう信じていた。
―――
フクロウが屋上を去った後。
シューベルトは、一人、西の空を見つめ続けた。
その時だった。
西の空に、雲が、流れ込んできた。みるみるうちに、赤い星が雲に覆われていく。そして——その雲の動きが奇妙だった。まるで、何か巨大なものが西の彼方から、ゆっくりと、こちらへ向かって、影を広げているかのように。
シューベルトの左胸が、激しく、跳ねた。
共鳴でも、警告でもない。もっと、根源的な——畏怖。圧倒的な、何かの存在を、感じ取った時の、本能的な震え。
西の空を覆っていく、巨大な影。
それは、雲だったのかもしれない。ただの、夜の雲。だが、シューベルトには、そう思えなかった。その影の中に、何か——鬼族の軍勢すら、その一部に過ぎないような、もっと大きく、もっと深い、意志のようなものが、潜んでいる気がした。
その影の、中心に。
鬼を統べる、王のような、何かが……。
―――
その存在の名を、シューベルトは、まだ知らない。
鬼の王。
人間への憎しみを燃やし続け、鬼族を束ねるその影が、今、西の空に、広がろうとしていた。
何か、巨大なものが近づいている。これまでの、どんな戦いとも違う、本物の嵐が。その嵐の中で、自分は、仲間は、アンネリーゼは、そしてフクロウは、どうなるのか。
何も、分からない。
ただ、左胸の拍動だけが、その嵐の近さを、告げ続けていた。
シューベルトは、長いこと、その空を見つめていた。
やがて、雲が晴れ、赤い星が再び姿を現した。だが、その輝きは、どこか血の色を帯びているように見えた。
明日、自分たちは、西へ向かう。
その先に、何が待っているのか。
シューベルトは、剣の柄をそっと握りしめた。左胸の拍動が、ひとつ、強く、応えた。まるで来るべき嵐に向かって、静かに、牙を研ぐように。
嵐の前の、静けさだった。
そして、その静けさが破れる時、物語は新たな章へと足を踏み入れることになる。
西の空に、嵐が満ちようとしていた。




