西へ
神獣廟の儀式から数日が過ぎた。
シューベルトは、あの日見たものを誰にも話せずにいた。口外無用と命じられている。だが、それ以上に言葉にできなかった。縛られた神獣。命を削る巫女。その上に成り立つ聖都の繁栄。あまりに重すぎて、誰かに語ることで軽くしてしまうのが怖かった。
ただ、左胸の拍動だけが、あの日以来変わっていた。
以前より強く、深く脈打つようになった。まるであの儀式で、アンネリーゼと——いや、翼の神獣と繋がったことで、シューベルトの中の何かが目を覚まし始めたかのように。
その変化を、シューベルト自身、持て余していた。
―――
その日、シューベルトは一人で城の回廊を歩いていた。
アンネリーゼの容態が気がかりだった。あの儀式の後、彼女はしばらく寝込んでいると聞いた。命を削る儀式の代償だ。直接会うことは叶わないが、せめて彼女がいる塔の方角を一目見たかった。
回廊の窓から、白亜の塔が見える。アンネリーゼの住まう塔。
その窓辺を見上げていた時だった。
「彼女のことが、気がかりかな」
穏やかな声が背後からかけられた。
シューベルトは振り返った。タレスが立っていた。相変わらず仕立ての良い外套。碧い瞳。完璧な微笑み。だが、その微笑みの下に何かが研ぎ澄まされている。前に中庭で会った時よりも明確に。
「タレス様」シューベルトは礼をした。
―――
「アンネリーゼは、儀式の後はいつもああなる」
タレスはシューベルトの隣に立ち、同じ塔を見上げた。
「数日は寝込む。哀れなものだ。あんな儀式を月に一度も繰り返さねばならんとは」
その言葉は同情のように聞こえた。
だが、シューベルトは違和感を覚えた。タレスの声に、本当の痛みが感じられなかった。哀れだと言いながら、その口調はどこか他人事のようだった。
「儀式の直衛、ご苦労だったね」タレスは微笑んだ。
「廟の中まで立ち入ったそうだね。本来、部外者には許されないことだ。……アンネリーゼがよほど君たちを信頼しているのだろう」
「光栄なことです」
「光栄、か」タレスはふっと笑った。「君は廟で何を見た?」
その問いに、シューベルトは口をつぐんだ。口外無用。それに、この男にあの光景を語る気にはなれなかった。
「言えないという顔だね」タレスは微笑んだまま言った。
「いいんだ。秘儀だからね。……だが、一つだけ教えてあげよう。君が見たであろう、あの『真実』をね」
―――
タレスは塔を見上げたまま続けた。
「アンネリーゼは、いずれ死ぬ」
その一言を、あまりに穏やかにタレスは口にした。
「巫女の宿命だ。神獣を縛り続ける代償として命を削り、若くして死ぬ。歴代の巫女が皆そうだったように。アンネリーゼも例外ではない」タレスの声に感情はなかった。
「私はそんな彼女と婚約している。死ぬと分かっている女とね」
シューベルトはタレスの横顔を見た。
「だが、それでいいのだ」タレスは言った。
「私が欲しいのは、アンネリーゼ個人ではない。トマス家との繋がりだ。神獣の加護とホーエン家の財力を結びつける、その婚姻だ。アンネリーゼがいつ死のうと、婚姻さえ成立すれば、私の目的は果たされる」
あまりに冷たい言葉だった。
婚約者を道具としてしか見ていない。死ぬと分かっていて、なおその繋がりだけを欲している。シューベルトの中で怒りがこみ上げた。
―――
「……あなたは」シューベルトは抑えた声で言った。「アンネリーゼ様を、人として見ていないのですか」
タレスの微笑みが、一瞬止まった。
それから彼は、ゆっくりとシューベルトの方を向いた。碧い瞳が、初めてはっきりとした感情を宿していた。それは怒りでも敵意でもない。もっと複雑な何か。
「人として?」タレスは低く言った。「君に何が分かる」
その声に、初めて微笑みの仮面がわずかに剥がれた。
「私はホーエン家の次男だ。優秀な兄がいて、何をしてもその兄と比べられてきた。血筋も地位も、すべて兄のものだ。私には何も与えられなかった」
タレスの声に、抑えきれない何かが滲んだ。
「この地の人間は、生まれただけで神獣の加護を受ける。望みもせず、努力もせず、ただこの土地に生まれたというだけで。だが、私はよそ者だ。加護などない。何も与えられない」
シューベルトは黙って聞いていた。
「だが私は違う。自分の力で強くなった」タレスは続けた。
「加護に頼る、この地の軟弱な兵どもとは違う。私は血の滲むような鍛錬で剣を身につけた。誰にも何も与えられず、すべて自分で掴んだ。……それを、誰も認めない」
―――
タレスの碧い瞳が、シューベルトを射抜いた。
「そして、君だ」タレスは言った。
「傭兵上がりの平民。何の血筋も地位もない。なのにアンネリーゼは、君に心を開いている。彼女が君を見る目を、私は知っている。私には一度も向けられたことのない目だ」
その声に、初めてはっきりとした嫉妬が滲んだ。
「私は彼女のために何でもしてきた。贈り物をし、丁寧に接し、完璧な婚約者を演じてきた。なのに彼女は私を見ない。ぽっと現れた、君のような男に心を奪われる」タレスは低く笑った。
「滑稽だと思わないか。努力した者が報われず、何もしない者がすべてを手に入れる」
「俺は、何も手に入れていません」シューベルトは言った。「アンネリーゼ様とは、ただ——」
「言い訳はいい」タレスは再び微笑みを取り戻した。だが、その目だけは笑っていなかった。
「君が何を思っていようと関係ない。問題は、アンネリーゼが君に心を向けていることだ。それが私には……目障りなのだ」
―――
タレスは一歩、シューベルトに近づいた。
「忠告はしたはずだ」タレスは囁くように言った。「分をわきまえぬ者は災いを招く、と。……君はわきまえなかった。廟にまで立ち入った。彼女の最も無防備な姿を見た。これはもはや、警護の範疇を超えている」
「俺は、命じられた任務を——」
「分かっている。君に非はない。表向きはね」タレスは微笑んだ。「だが、世の中には表向きの正しさが通用しないこともある。君のような者はいつか必ず足をすくわれる。……それがいつになるかは、分からないが」
その言葉には、明確な予告が含まれていた。
近いうちに、何かが起きる。タレスが何かを仕掛けてくる。シューベルトはそれをはっきりと感じ取った。
「少しい話過ぎてしまったね。では、私はこれで」タレスは優雅に踵を返した。
「君と話せてよかった、シューベルト殿。……どうか体を大切にね」
その言葉を残して、タレスは立ち去っていった。
シューベルトはその場に立ち尽くした。
―――
その夜、別館に緊急の招集がかかった。
全員が広間に集められた。フクロウの表情は、いつになく引き締まっていた。
「今しがた、ゲオルグ様から直々の下知が下った」フクロウは低く言った。
「西方への遠征だ」
空気が張り詰めた。
「西の森の鬼族の動きが、これまでにない規模で活発化している」フクロウは続けた。「斥候隊の消失は序の口だった。先日俺たちが遭遇した赤鬼——ボルガという男も、その一端だ。ゲオルグ様は、鬼族が本格的な侵攻を企てていると見ている」
「侵攻……」ロバートが唸った。
「ああ。これまでの魔族いや、ただの魔獣の駆除とは訳が違う。組織された鬼族の軍勢との戦だ」フクロウは全員を見渡した。「ゲオルグ様は、正規軍と私兵を主力に西方遠征軍を編成する。……空の戦士団も、その一翼を担うことになった」
―――
仲間たちの顔に緊張が走った。
「あたしたちが、鬼族と戦うの……?」アイリーンの声がわずかに震えた。あのボルガの気配を思い出したのだろう。
「ああ」フクロウは頷いた。「正確には、遠征軍の一部隊としてだ。俺たちだけで鬼族の軍勢と戦うわけではない。だが、最前線に立つことになるのは間違いない」
「いつ、出発するんだ」シューベルトが聞いた。
「編成が整い次第。早ければ半月後だ」フクロウは言った。「それまでに準備を整える。装備の点検、戦術の確認、体調の管理。……今度の相手は、これまでとは比べ物にならない。生半可な覚悟では、誰かが死ぬ」
その言葉に、広間が静まり返った。
誰も軽口を叩かなかった。アイリーンもロバートも、いつもの調子は影をひそめていた。ボルガと遭遇したあの恐怖を、全員が覚えていた。あれが組織された軍勢として襲ってくる。それがどれほどの脅威なのか、想像するだけで背筋が冷えた。
「だが」フクロウの声がわずかに和らいだ。「俺たちはこれまでも生き延びてきた。泥の中を這って、ここまで来た。今度も同じだ。全員で生きて帰る。……それだけは忘れるな」
―――
招集が解かれた後。
シューベルトは一人、別館の屋上に出た。冬の夜空。西の方角の低い空に、あの赤い星が瞬いている。その彼方に、鬼族の潜む暗い森がある。そしてこれから、自分たちはそこへ向かう。
左胸が激しく脈打っていた。
これまでで最も強く。まるで来るべき戦いを予感しているかのように。あるいは、その戦いの先に何か大きなものが待っていることを、知っているかのように。
「眠れないの?」
声がして振り返ると、アイリーンが立っていた。手に酒の瓶はない。今夜は飲む気分ではないのだろう。
「……ああ」シューベルトは答えた。「お前もか」
「うん。なんか、落ち着かなくて」アイリーンはシューベルトの隣に立った。「ねえシュー、約束覚えてる?」
「約束?」
「簡単に死なないって。あたしより先にいなくならないって」アイリーンは西の空を見上げた。その横顔は、いつもの明るさの裏に不安を隠していた。「今度の戦い、怖いよ。あのボルガってやつ、思い出すだけで足が竦む。あんなのがいっぱい来るんでしょ」
「ああ」
「だから約束、守ってよ。絶対に」アイリーンはシューベルトを見た。「あたしも頑張るから。みんなで生きて帰ろうね」
「……ああ。約束する」
シューベルトは頷いた。
―――
その時、屋上に他の仲間たちも上がってきた。
ロバートが、エドが、サラが。そして最後にフクロウが。誰もが眠れなかったらしい。あるいは、こういう夜は一人でいたくなかったのかもしれない。
六人は屋上に並んで、西の空を見上げた。
「……でかい戦になるな」ロバートがぽつりと言った。
「うん」サラが頷いた。「でも私、みんなの傷は絶対に治すから。誰も死なせない」
その声には、いつものおっとりした調子の奥に、確かな決意があった。
「俺は先行偵察で、敵の動きを全部読む」エドが短く言った。「不意打ちはさせない」
「俺は壁になる」ロバートが拳を鳴らした。「誰も俺の後ろは通さねえ」
「あたしは敵を攪乱して、隙を作る!」アイリーンがいつもの明るさで言った。
シューベルトは仲間たちを見渡した。それぞれが、それぞれの役割で覚悟を固めている。恐怖を抱えながら。それでも前を向いている。
「俺は」シューベルトは剣の柄に手を置いた。「みんなを守る。何があっても」
フクロウだけが何も言わなかった。ただ静かに西の空を見つめていた。その横顔に何が浮かんでいるのか、誰にも読めなかった。
―――
西の空に雲が流れていた。
その雲の向こう、遥か西の彼方に——何か巨大な影が蠢いているような気がした。鬼族の軍勢。いや、それだけではない。もっと大きく、もっと深い何か。
シューベルトの左胸が、その影に呼応するように強く脈打った。
嵐が近づいていた。
これまでのどんな戦いとも違う、本物の嵐が。その嵐の中で、自分は、仲間は、アンネリーゼは、どうなるのか。何も分からない。だが、一つだけ確かなことがあった。
もう、後戻りはできない。
西へ。
運命はすでに、その方角を指し示していた。




