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空の戦士団  作者: 葱狸
2章

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33/37

西へ

神獣廟の儀式から数日が過ぎた。


シューベルトは、あの日見たものを誰にも話せずにいた。口外無用と命じられている。だが、それ以上に言葉にできなかった。縛られた神獣。命を削る巫女。その上に成り立つ聖都の繁栄。あまりに重すぎて、誰かに語ることで軽くしてしまうのが怖かった。


ただ、左胸の拍動だけが、あの日以来変わっていた。


以前より強く、深く脈打つようになった。まるであの儀式で、アンネリーゼと——いや、翼の神獣と繋がったことで、シューベルトの中の何かが目を覚まし始めたかのように。


その変化を、シューベルト自身、持て余していた。


―――


その日、シューベルトは一人で城の回廊を歩いていた。


アンネリーゼの容態が気がかりだった。あの儀式の後、彼女はしばらく寝込んでいると聞いた。命を削る儀式の代償だ。直接会うことは叶わないが、せめて彼女がいる塔の方角を一目見たかった。


回廊の窓から、白亜の塔が見える。アンネリーゼの住まう塔。


その窓辺を見上げていた時だった。


「彼女のことが、気がかりかな」


穏やかな声が背後からかけられた。


シューベルトは振り返った。タレスが立っていた。相変わらず仕立ての良い外套。碧い瞳。完璧な微笑み。だが、その微笑みの下に何かが研ぎ澄まされている。前に中庭で会った時よりも明確に。


「タレス様」シューベルトは礼をした。


―――


「アンネリーゼは、儀式の後はいつもああなる」


タレスはシューベルトの隣に立ち、同じ塔を見上げた。


「数日は寝込む。哀れなものだ。あんな儀式を月に一度も繰り返さねばならんとは」


その言葉は同情のように聞こえた。


だが、シューベルトは違和感を覚えた。タレスの声に、本当の痛みが感じられなかった。哀れだと言いながら、その口調はどこか他人事のようだった。


「儀式の直衛、ご苦労だったね」タレスは微笑んだ。


「廟の中まで立ち入ったそうだね。本来、部外者には許されないことだ。……アンネリーゼがよほど君たちを信頼しているのだろう」


「光栄なことです」


「光栄、か」タレスはふっと笑った。「君は廟で何を見た?」


その問いに、シューベルトは口をつぐんだ。口外無用。それに、この男にあの光景を語る気にはなれなかった。


「言えないという顔だね」タレスは微笑んだまま言った。


「いいんだ。秘儀だからね。……だが、一つだけ教えてあげよう。君が見たであろう、あの『真実』をね」


―――


タレスは塔を見上げたまま続けた。


「アンネリーゼは、いずれ死ぬ」


その一言を、あまりに穏やかにタレスは口にした。


「巫女の宿命だ。神獣を縛り続ける代償として命を削り、若くして死ぬ。歴代の巫女が皆そうだったように。アンネリーゼも例外ではない」タレスの声に感情はなかった。


「私はそんな彼女と婚約している。死ぬと分かっている女とね」


シューベルトはタレスの横顔を見た。


「だが、それでいいのだ」タレスは言った。


「私が欲しいのは、アンネリーゼ個人ではない。トマス家との繋がりだ。神獣の加護とホーエン家の財力を結びつける、その婚姻だ。アンネリーゼがいつ死のうと、婚姻さえ成立すれば、私の目的は果たされる」


あまりに冷たい言葉だった。


婚約者を道具としてしか見ていない。死ぬと分かっていて、なおその繋がりだけを欲している。シューベルトの中で怒りがこみ上げた。


―――


「……あなたは」シューベルトは抑えた声で言った。「アンネリーゼ様を、人として見ていないのですか」


タレスの微笑みが、一瞬止まった。


それから彼は、ゆっくりとシューベルトの方を向いた。碧い瞳が、初めてはっきりとした感情を宿していた。それは怒りでも敵意でもない。もっと複雑な何か。


「人として?」タレスは低く言った。「君に何が分かる」


その声に、初めて微笑みの仮面がわずかに剥がれた。


「私はホーエン家の次男だ。優秀な兄がいて、何をしてもその兄と比べられてきた。血筋も地位も、すべて兄のものだ。私には何も与えられなかった」


タレスの声に、抑えきれない何かが滲んだ。


「この地の人間は、生まれただけで神獣の加護を受ける。望みもせず、努力もせず、ただこの土地に生まれたというだけで。だが、私はよそ者だ。加護などない。何も与えられない」


シューベルトは黙って聞いていた。


「だが私は違う。自分の力で強くなった」タレスは続けた。


「加護に頼る、この地の軟弱な兵どもとは違う。私は血の滲むような鍛錬で剣を身につけた。誰にも何も与えられず、すべて自分で掴んだ。……それを、誰も認めない」


―――


タレスの碧い瞳が、シューベルトを射抜いた。


「そして、君だ」タレスは言った。


「傭兵上がりの平民。何の血筋も地位もない。なのにアンネリーゼは、君に心を開いている。彼女が君を見る目を、私は知っている。私には一度も向けられたことのない目だ」


その声に、初めてはっきりとした嫉妬が滲んだ。


「私は彼女のために何でもしてきた。贈り物をし、丁寧に接し、完璧な婚約者を演じてきた。なのに彼女は私を見ない。ぽっと現れた、君のような男に心を奪われる」タレスは低く笑った。


「滑稽だと思わないか。努力した者が報われず、何もしない者がすべてを手に入れる」


「俺は、何も手に入れていません」シューベルトは言った。「アンネリーゼ様とは、ただ——」


「言い訳はいい」タレスは再び微笑みを取り戻した。だが、その目だけは笑っていなかった。


「君が何を思っていようと関係ない。問題は、アンネリーゼが君に心を向けていることだ。それが私には……目障りなのだ」


―――


タレスは一歩、シューベルトに近づいた。


「忠告はしたはずだ」タレスは囁くように言った。「分をわきまえぬ者は災いを招く、と。……君はわきまえなかった。廟にまで立ち入った。彼女の最も無防備な姿を見た。これはもはや、警護の範疇を超えている」


「俺は、命じられた任務を——」


「分かっている。君に非はない。表向きはね」タレスは微笑んだ。「だが、世の中には表向きの正しさが通用しないこともある。君のような者はいつか必ず足をすくわれる。……それがいつになるかは、分からないが」


その言葉には、明確な予告が含まれていた。


近いうちに、何かが起きる。タレスが何かを仕掛けてくる。シューベルトはそれをはっきりと感じ取った。


「少しい話過ぎてしまったね。では、私はこれで」タレスは優雅に踵を返した。


「君と話せてよかった、シューベルト殿。……どうか体を大切にね」


その言葉を残して、タレスは立ち去っていった。


シューベルトはその場に立ち尽くした。


―――


その夜、別館に緊急の招集がかかった。


全員が広間に集められた。フクロウの表情は、いつになく引き締まっていた。


「今しがた、ゲオルグ様から直々の下知が下った」フクロウは低く言った。


「西方への遠征だ」


空気が張り詰めた。


「西の森の鬼族の動きが、これまでにない規模で活発化している」フクロウは続けた。「斥候隊の消失は序の口だった。先日俺たちが遭遇した赤鬼——ボルガという男も、その一端だ。ゲオルグ様は、鬼族が本格的な侵攻を企てていると見ている」


「侵攻……」ロバートが唸った。


「ああ。これまでの魔族いや、ただの魔獣の駆除とは訳が違う。組織された鬼族の軍勢との戦だ」フクロウは全員を見渡した。「ゲオルグ様は、正規軍と私兵を主力に西方遠征軍を編成する。……空の戦士団も、その一翼を担うことになった」


―――


仲間たちの顔に緊張が走った。


「あたしたちが、鬼族と戦うの……?」アイリーンの声がわずかに震えた。あのボルガの気配を思い出したのだろう。


「ああ」フクロウは頷いた。「正確には、遠征軍の一部隊としてだ。俺たちだけで鬼族の軍勢と戦うわけではない。だが、最前線に立つことになるのは間違いない」


「いつ、出発するんだ」シューベルトが聞いた。


「編成が整い次第。早ければ半月後だ」フクロウは言った。「それまでに準備を整える。装備の点検、戦術の確認、体調の管理。……今度の相手は、これまでとは比べ物にならない。生半可な覚悟では、誰かが死ぬ」


その言葉に、広間が静まり返った。


誰も軽口を叩かなかった。アイリーンもロバートも、いつもの調子は影をひそめていた。ボルガと遭遇したあの恐怖を、全員が覚えていた。あれが組織された軍勢として襲ってくる。それがどれほどの脅威なのか、想像するだけで背筋が冷えた。


「だが」フクロウの声がわずかに和らいだ。「俺たちはこれまでも生き延びてきた。泥の中を這って、ここまで来た。今度も同じだ。全員で生きて帰る。……それだけは忘れるな」


―――


招集が解かれた後。


シューベルトは一人、別館の屋上に出た。冬の夜空。西の方角の低い空に、あの赤い星が瞬いている。その彼方に、鬼族の潜む暗い森がある。そしてこれから、自分たちはそこへ向かう。


左胸が激しく脈打っていた。


これまでで最も強く。まるで来るべき戦いを予感しているかのように。あるいは、その戦いの先に何か大きなものが待っていることを、知っているかのように。


「眠れないの?」


声がして振り返ると、アイリーンが立っていた。手に酒の瓶はない。今夜は飲む気分ではないのだろう。


「……ああ」シューベルトは答えた。「お前もか」


「うん。なんか、落ち着かなくて」アイリーンはシューベルトの隣に立った。「ねえシュー、約束覚えてる?」


「約束?」


「簡単に死なないって。あたしより先にいなくならないって」アイリーンは西の空を見上げた。その横顔は、いつもの明るさの裏に不安を隠していた。「今度の戦い、怖いよ。あのボルガってやつ、思い出すだけで足が竦む。あんなのがいっぱい来るんでしょ」


「ああ」


「だから約束、守ってよ。絶対に」アイリーンはシューベルトを見た。「あたしも頑張るから。みんなで生きて帰ろうね」


「……ああ。約束する」


シューベルトは頷いた。


―――


その時、屋上に他の仲間たちも上がってきた。


ロバートが、エドが、サラが。そして最後にフクロウが。誰もが眠れなかったらしい。あるいは、こういう夜は一人でいたくなかったのかもしれない。


六人は屋上に並んで、西の空を見上げた。


「……でかい戦になるな」ロバートがぽつりと言った。


「うん」サラが頷いた。「でも私、みんなの傷は絶対に治すから。誰も死なせない」


その声には、いつものおっとりした調子の奥に、確かな決意があった。


「俺は先行偵察で、敵の動きを全部読む」エドが短く言った。「不意打ちはさせない」


「俺は壁になる」ロバートが拳を鳴らした。「誰も俺の後ろは通さねえ」


「あたしは敵を攪乱して、隙を作る!」アイリーンがいつもの明るさで言った。


シューベルトは仲間たちを見渡した。それぞれが、それぞれの役割で覚悟を固めている。恐怖を抱えながら。それでも前を向いている。


「俺は」シューベルトは剣の柄に手を置いた。「みんなを守る。何があっても」


フクロウだけが何も言わなかった。ただ静かに西の空を見つめていた。その横顔に何が浮かんでいるのか、誰にも読めなかった。


―――


西の空に雲が流れていた。


その雲の向こう、遥か西の彼方に——何か巨大な影が蠢いているような気がした。鬼族の軍勢。いや、それだけではない。もっと大きく、もっと深い何か。


シューベルトの左胸が、その影に呼応するように強く脈打った。


嵐が近づいていた。


これまでのどんな戦いとも違う、本物の嵐が。その嵐の中で、自分は、仲間は、アンネリーゼは、どうなるのか。何も分からない。だが、一つだけ確かなことがあった。


もう、後戻りはできない。


西へ。


運命はすでに、その方角を指し示していた。


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