捧げられし翼
神獣廟への随行が告げられたのは、ボルガとの遭遇から、数日後のことだった。
「神獣廟の、儀式?」シューベルトは、バルカスの言葉を繰り返した。
「左様」バルカスは、いつものように書類を捲りながら言った。
「月に一度、トマス家は、神獣廟にて儀式を執り行う。翼の神獣への祈りの儀だ。アンネリーゼ様が、巫女としてこれを司る。……その直衛を、貴様らに命じる」
「直衛、ですか」
「儀式の間、廟の内部に立ち入ることを許される。これは名誉なことだ」バルカスは、わずかに顔を上げた。「本来、廟の儀式に部外者を入れることはない。だが、アンネリーゼ様の、たっての希望でな。警護は、空の戦士団に、と」
アンネリーゼの、希望。
シューベルトの胸が、わずかに、跳ねた。
「ただし」バルカスの声が、低くなった。「廟の中で見聞きしたことは、一切、口外無用。これは、トマス家の、最も神聖な秘儀だ。……それを心得ておけ」
―――
神獣廟は、城の地下深くにあった。
古い石段をどこまでも降りていく。魔法灯の光も届かない、深い闇。空気は、ひやりと冷たく、そして——どこか、重かった。降りるほどに、シューベルトの左胸が脈打ち始めた。共鳴の、拍動。だが、これまでとは、何かが違う。
苦しげな、脈動だった。
まるで、何か——同じ「神獣」が、この奥で、苦しんでいるかのような。
石段を降りきると、巨大な空間が、広がっていた。
天然の洞窟を、利用したものだろうか。岩肌に囲まれた、円形の広間。その中央に、祭壇があった。そして、祭壇の奥に——シューベルトは、息を呑んだ。
光が、あった。
巨大な翼を持つ光の塊。鳥とも、馬とも、つかない、神々しい姿。それは、淡く、白銀に輝いていた。だが、その輝きは弱々しかった。今にも、消え入りそうなほどに。
そこにあったのは――翼の神獣だった。
―――
その神獣は——鎖に、繋がれていた。
いや、鎖ではない。光でできた、無数の枷。神獣の翼に、首に、体に、それらが幾重にも巻きついている。神獣は、もがくことも飛ぶこともできず、ただ、祭壇の奥に囚われていた。
シューベルトは、それを見て言葉を失った。
神々しい、というより——痛々しい、光景だった。
「……あれが、翼の神獣だ」隣でフクロウが低く囁いた。その声に、いつもと違う、何か硬いものが混じっていた。「トマス家が代々契約してきた神獣。聖都に魔力を供給する、力の源」
「供給……?」シューベルトは、訝しんだ。「あれは、囚われているように見える」
フクロウは、答えなかった。
だが、その沈黙が、答えだった。
―――
やがて、儀式が、始まった。
白い装束をまとったアンネリーゼが、祭壇の前に進み出た。慰問の時に見せる、令嬢の華やかさはない。その表情は、厳かで、そして——どこか、覚悟を決めた者の、静けさがあった。
神官たちが、古い言葉で、祈りを唱え始める。
アンネリーゼが、祭壇に、手をかざした。
その瞬間、彼女の体から、淡い光が溢れ出した。光は糸のように神獣へと——いや、神獣を縛る、光の枷へと、流れ込んでいく。アンネリーゼの魔力が、枷を、強化している。神獣を、より強く縛りつけるために。
そして、神獣からは、別の光が溢れ出していた。
神獣の体から、おびただしい量の魔力が、吸い出されている。それは、廟の壁を伝い、地下水路のように張り巡らされた、無数の脈を通って、城の——いや、聖都全体へと、流れていく。
シューベルトは、悟った。
搾取だ。
神獣を縛りつけ、その力を強制的に吸い出している。アンネリーゼの魔力は、神獣を「治める」ためではない。神獣を「逃がさない」ために、使われている。巫女とは、神獣を守る者ではなく——神獣を繋ぎ止める鍵だった。
―――
儀式が進むにつれ、シューベルトは、もう一つのことに気づいた。
アンネリーゼの顔が、見る間に青ざめていく。
額に、脂汗が滲む。手が、震えている。光を送り続けるたびに、彼女の体から、生気が、抜けていくようだった。魔力だけではない。何か、もっと根源的なもの——命そのものが、削られている。
神獣を縛る代償を、アンネリーゼが、自らの命で、支払っている。
「……フクロウ」シューベルトは、掠れた声で言った。「あれは、アンネリーゼが、消耗している。命を、削ってる」
「ああ」フクロウは、静かに言った。「翼の神獣を縛り続けるには、莫大な力がいる。その力を、巫女が、自らの命を燃やして供給している。……トマス家の巫女は、代々、そうやって早世してきた」
シューベルトは、拳を握りしめた。
「なぜ、そんなことを」
「聖都の繁栄も、トマス家の力も、すべて、この神獣の力の上に、成り立っているからだ」フクロウの声は淡々としていた。だが、その奥に、抑えた怒りのようなものが、滲んでいた。「正規軍の兵士たちが、他国の兵より強いのも、これだ。トマスの地に生まれ育った兵は、この神獣の力を、わずかに分け与えられている。だから、加護なき他国の兵より、一段、強い。……その強さの源も、巫女の命だ」
―――
その兵が強い理由。
シューベルトは、これまで漠然と「神獣の加護」と聞いていた、トマス家の軍の強さの、その正体を、初めて理解した。
兵士たちの強さは、アンネリーゼの命の上にあった。
彼女が、命を削って神獣を縛り、その神獣から吸い出された力が聖都を潤し、兵士を強くしている。誰もがその恩恵を受けている。だが、その源で、一人の少女が、緩やかに死に向かっていることを——どれだけの者が、知っているのか。
「タレス様は」シューベルトは、ふと、思い出した。「タレス様も、この加護を、受けているのか」
フクロウは、わずかに、首を振った。
「いや。タレスは、ホーエン家から来た、よそ者だ。神獣の加護は、トマスの地に生まれ、この土地に根を持つ者にしか、宿らない」フクロウは言った。「帝国本土の生まれであるあの男には、加護は届かない。……だが、あの男は、強い。剣の腕は、確かだ。加護もないのに、自力で、それなりの強さを身につけた」
―――
儀式の終盤。
アンネリーゼがよろめいた。
光を送り続けた彼女の体が、限界に近づいていた。膝が、折れかける。シューベルトは、とっさに、駆け寄ろうとした。だが、フクロウの手がそれを止めた。
「動くな。儀式の途中だ」
シューベルトは、歯を食いしばった。目の前でアンネリーゼが命を削っている。なのに、何もできない。直衛として、ただ、見ていることしか。
その時。
アンネリーゼの視線が、ふと、シューベルトを捉えた。
苦痛に歪んだ、青ざめた顔。だが、その碧い瞳は、まっすぐに、シューベルトを見ていた。そして——シューベルトの左胸が、激しく、脈打った。
共鳴。
二つの神獣の力が、呼び合う。アンネリーゼの中の翼の神獣と、シューベルトの中の、白亜の何か。その二つが、儀式の光の中で、強く、強く、共鳴した。
―――
その瞬間、シューベルトの意識に、何かが、流れ込んできた。
アンネリーゼの、感情だった。
言葉ではない。直接、心が、繋がった。彼女の、苦痛。彼女の、孤独。彼女の、諦め。そして——その奥にある、かすかな、しかし消えない、願い。
助けて。
誰か、この翼を、自由にして。
それは、神獣の声なのか、アンネリーゼの声なのか、区別がつかなかった。縛られた神獣と、縛る巫女。その二つの苦しみが、一つになって、シューベルトの胸に流れ込んできた。
シューベルトの左胸が、燃えるように、熱くなった。
白銀の光が、彼の体から、わずかに漏れ出した。それは、アンネリーゼの方へと、伸びていく。糸のように。彼女の苦痛を、分かち合おうとするかのように。
アンネリーゼの顔に、わずかに、安堵が浮かんだ。シューベルトの力が、彼女の重荷を、ほんの少しだけ、軽くした。よろめいていた体が持ち直す。
二人の精神が、一瞬だけ、深く、繋がった。
―――
やがて、儀式が、終わった。
神獣を縛る光の枷が、再び安定し、アンネリーゼの体から溢れていた光が、収まった。彼女は、神官に支えられながら、辛うじて、立っていた。
シューベルトの左胸の熱も、引いていった。漏れ出していた白銀の光も、消えた。
誰も、シューベルトの異変には、気づかなかったようだった。儀式の光の中で、ほんの一瞬の出来事だったから。だが、フクロウだけは——シューベルトを、じっと、見ていた。その目に、何かを確かめるような、鋭い光があった。
儀式の後、アンネリーゼが神官たちから離れ、シューベルトの側を通った。
すれ違いざま、彼女は、シューベルトにだけ聞こえる声で、囁いた。
「……ありがとう。あなたの力が、流れてきたの。少しだけ、楽になった」
その声は、消え入りそうなほど、弱かった。
「あなたは」シューベルトは、思わず、聞いた。「いつも、こんなことを……?」
「月に、一度」アンネリーゼは、力なく微笑んだ。「これが、巫女の務め。生まれた時から、決まっていたこと。……いつか、私の番が、来るまで」
―――
私の番。
その言葉の意味を、シューベルトは、悟ってしまった。
歴代の巫女が、命を削り、早世してきた。アンネリーゼも、いつか、同じ運命を辿る。神獣を縛り続ける代償として、その命を燃やし尽くす。それが、トマス家の巫女に課せられた宿命だった。
「そんなの——」シューベルトは、言葉を、詰まらせた。「そんなの、間違ってる」
「しっ」アンネリーゼは、唇に指を当てた。「口外無用、でしょう?……でも、嬉しい。そう言ってくれて」
彼女は、儚げに、微笑んだ。あの夜の、無邪気な少女の笑顔とは、違う。もっと、悲しくて、美しい、諦めの笑み。
「行かなくちゃ。……またね、シューベルト」
アンネリーゼは、神官たちに付き添われ、廟の奥へと、消えていった。その後ろ姿は、白い装束に包まれて、まるで生贄の羊のようだった。
シューベルトは、その場に立ち尽くした。
―――
城へ戻る石段を、シューベルトは無言で登っていた。
胸の中で、怒りと、無力感が、渦巻いていた。アンネリーゼは、命を削っている。聖都の繁栄のために。トマス家の力のために。誰もが、その恩恵を受けながら、その犠牲を、当然のものとして見過ごしている。
そして、自分には、何もできない。
直衛として、ただ、見ていることしか。
「シュー」フクロウが、隣に並んだ。「廟で、何があった。お前の体から、白銀の光が、漏れていた。神獣の力だ」
「……アンネリーゼと、繋がった」シューベルトは、低く言った。「彼女の苦しみが、流れ込んできた。気づいたら、力が、漏れ出してた。彼女を、助けたいと思った瞬間に」
フクロウは、しばらく、黙っていた。
「……守りたい、と思った時に、力が応える」フクロウは、ぽつりと言った。「お前の神獣の力は、そういうものらしいな」
その声に、シューベルトは、何かを感じた。だが、それが何なのか、考える余裕は、なかった。
―――
地上に出ると、夜だった。
西の空に月が昇っていた。冷たく、白い月。シューベルトは、それを見上げながら、廟で見たものを思い返していた。
縛られた、神獣。
命を削る、巫女。
その上に成り立つ、聖都の繁栄と、トマス家の力。
あまりに、歪んでいた。だが、その歪みは、あまりに深く、あまりに長く、この国の根幹に、組み込まれていた。一人の剣士に、変えられるようなものではなかった。
それでも。
シューベルトの左胸が、静かに、脈打っていた。あの儀式で、アンネリーゼと繋がった感覚が、まだ、残っている。彼女の願い。助けて、この翼を自由にして、という、声なき声。
それは、神獣の願いであり…アンネリーゼの願いでもあった。
いつか、必ず。
シューベルトは、月を見上げながら、誓いとも、願いともつかない、何かを、胸に刻んだ。今は、何もできない。力も、足りない。立場も、ない。だが、いつか——あの翼を、あの少女を、この歪んだ宿命から解き放ってみせる。
左胸の拍動が、その誓いに応えるように、ひとつ、強く、跳ねた。
月が、雲に隠れた。西の空が、再び、闇に沈んだ。




