赤い影
西の森の報告は、城に静かな緊張をもたらした。
鬼族の痕跡。組織的な気配。消えた斥候隊。バルカスは、フクロウの報告を表情も変えずに聞いていたが、その後、正規騎士団と私兵の一部に、西方の警戒態勢を敷くよう指示を出したという。
そして、空の戦士団には、新たな任務が下りた。
「西の森の、浅層の掃討だ」バルカスは言った。「鬼族の本格的な調査は、正規軍が編成を整えてから行う。それまでの間、貴様らには、森の浅層に湧いた魔獣の駆除を命じる。泥喰い大顎の群れが、増えている。放置すれば近隣の村に被害が及ぶ」
「鬼族ではなく?」シューベルトが確認した。
「浅層に、鬼族は出ない。少なくとも今は」バルカスは言った。「貴様らの相手は、知性なき魔族——泥喰い大顎だ。慣れた仕事だろう。……ただし、深層へは立ち入るな。鬼族と遭遇すれば命の保証はない」
―――
翌日、空の戦士団は、再び西の森へ向かった。
今回の任務は、シューベルトたちにとって馴染み深いものだった。魔獣の駆除。傭兵時代から、数えきれないほどこなしてきた稼ぎ仕事の延長だ。
「久々の、魔獣狩りだなあ」アイリーンが、双剣の具合を確かめながら言った。「城に来てからは、巡回だの警護だの、お行儀のいい仕事ばっかりだったもんね」
「お前は、暴れたくてうずうずしてるだろ」ロバートが笑った。
「だって、体がなまっちゃうもん!」
「ほどほどにしておけ」フクロウが、釘を刺した。「相手は獣だが、油断は禁物だ。それに、深層には近づくな。今日の狩り場は浅層に限る」
森の浅層は、先日歩いた最奥とは、空気が違った。陽の光が、まだ枝葉の間から差し込んでいる。あの饐えた臭いも、ここまでは届かない。だが、エドだけは、時折、鼻を風に向けていた。何かを、警戒するように。
「エド、どうした」シューベルトが聞いた。
「……いや。浅層は、いつもの臭いだ」エドは、首を振った。「ただ、深層の臭いが少しだけ流れてくる。風向きのせいだと思うが」
―――
泥喰い大顎の群れと遭遇したのは、ほどなくしてのことだった。
二本脚で直立する、爬虫類型の魔獣。巨大な顎が、絶え間なく噛み合わさり、ガチガチと不快な音を立てている。知性はほぼなく、本能で動く獣。だが、群れると厄介だ。今回は、十数体の群れだった。
「来た!」アイリーンが、真っ先に飛び出した。
戦士団の連携は、滑らかだった。
ロバートが、大盾を構えて前に出る。「不落の盾」の魔法で、土の防壁を展開し、群れの突進を受け止める。その盾の陰から、アイリーンが風のように飛び出し、双剣で泥喰い大顎の脚を斬り裂く。動きを止められた魔獣に、エドの投剣が的確に急所を貫く。
シューベルトは、片手剣を抜き、群れの中央に斬り込んだ。
一体の顎を、横から斬り払う。返す刀で、別の一体の首を落とす。動きに迷いはない。獣の動きは、単純だ。本能のままに突進し、噛みつこうとするだけ。その動きを読めば、捌くのは難しくない。
サラが、後方から障壁を張り仲間を守る。フクロウは、影を操り、群れの一部を足止めしながら、細身の長剣で確実に仕留めていく。
半刻もかからず、群れは殲滅された。
―――
「ふー、こんなもんかな」アイリーンが、双剣の血を払った。「やっぱり、獣は楽でいいね。突っ込んでくるだけだもん」
「気を抜くな」フクロウが言った。「だが、まあ……今日の浅層は、こんなところだろう」
シューベルトも、剣を鞘に収めた。
久しぶりの、魔獣狩り。体は、まだ覚えていた。傭兵時代の感覚が、自然と戻ってくる。獣との戦いは、確かに、危険だ。だが、それは「慣れた危険」だった。動きが読める。対処法が分かる。だからこそ、稼ぎ仕事として成立する。
仲間たちが、倒した魔獣の数を確認し、討伐の証となる部位を回収し始めた。いつもの、作業だ。
その時。
エドが、ぴたりと、動きを止めた。
「……来る」
―――
エドの声は、低く、鋭かった。
全員が、即座に身構えた。エドが「来る」と言う時、それは、ほぼ確実に当たる。アイリーンが双剣を構え直し、ロバートが大盾を持ち上げ、サラが杖に魔力を込めた。
「何だ、エド」シューベルトが、剣の柄に手をかけた。
「分からない。でも、さっきの泥喰い大顎とは、違う」エドの声が、緊張していた。「もっと……重い。臭いが、濃い。あの深層の臭いだ。それが、近づいてくる」
森の奥。木々の陰。
そこから、姿を現したのは、二体の——赤い肌をした、人型の魔族だった。
人間より一回り大きい、屈強な体躯。頭部には、短い角。手には、それぞれ、無骨な戦斧と、刃の厚い剣を握っている。獣ではない。明確な意志を宿した目が、戦士団を、まっすぐに捉えていた。
「赤い鬼……っ」ロバートが、息を呑んだ。
鬼族。それも、深層から、浅層まで降りてきている。
―――
二体の赤鬼は、言葉を発しなかった。
ただ、戦士団を「敵」と認識すると、迷いなく、踏み込んできた。
その一歩目の速さに、シューベルトは、ぞっとした。泥喰い大顎とは、まるで違う。獣の突進は、ただ前に出るだけだ。だが、この赤鬼の踏み込みには、明確な「狙い」があった。最も崩しやすい一点を、的確に突いてくる。戦士の動きだった。
「散れッ!」フクロウが、叫んだ。
一体の赤鬼が、戦斧を、ロバートに振り下ろした。ロバートが大盾で受ける。
「ぐっ……重ェ!」
受けた腕が軋んだ。土の防壁ごと、後ろへ押し込まれる。魔獣の突進では、ありえない衝撃。ロバートの巨体が、たたらを踏んだ。
アイリーンが、側面から、双剣で斬りかかる。風魔法で速度を乗せた必殺の一撃。だが、赤鬼は、それを、戦斧の柄で、難なく弾いた。アイリーンの目が見開かれる。
「嘘でしょ……っ、あたしの斬撃を、見てから防いだ!?」
―――
もう一体の赤鬼は、シューベルトに向かってきた。
刃の厚い剣が、唸りを上げて振るわれる。シューベルトは、片手剣で受け流そうとして——その重さに、姿勢を崩しかけた。受け流しきれない。まともに受ければ、剣ごと持っていかれる。
とっさに、半身でかわす。剣風が頬を掠めた。
速い。重い。そして、何より——上手い。
シューベルトは、舌を巻いた。この赤鬼は強い。一対一でも容易には勝てない。それが、二体。戦士団は、六人いる。数では勝っている。だが、一体あたりに、複数で当たらなければ抑えきれない。
エドの投剣が、赤鬼の一体の顔面を狙った。だが、赤鬼は、首をわずかに傾けて、それをかわした。投剣は、虚しく、背後の木に突き刺さる。
「効かないっ……あの巨体で、エドの投剣をかわすの!?」アイリーンが、信じられない、という声を上げた。
戦況は、拮抗していた。いや——じりじりと、押されていた。
サラが障壁で守り、ロバートが盾で受け、アイリーンとエドが攪乱し、シューベルトとフクロウが斬りかかる。総がかりで、辛うじて、二体を抑え込んでいる。だが、決定打が入らない。赤鬼の守りは固く、反撃は鋭い。長引けば、こちらの体力が、先に尽きる。
―――
「くそっ、硬ェ……!」ロバートが、歯を食いしばった。「こいつら、魔獣とは、訳が違うぞ……!」
シューベルトの息も、上がっていた。
左胸が、激しく脈打っている。だが、力は、引き出せない。守るべきものは、はっきりしている。仲間だ。だが——この拮抗した戦いの中では、神獣の力は応えてくれなかった。まだ、何かが足りない。
戦いが膠着し始めた、その時。
森の奥から、低い、地鳴りのような声が、響いた。
「——よせ。引け」
二体の赤鬼が、ぴたりと、動きを止めた。
戦斧を引き、剣を下ろす。戦士団との間に距離を取る。まるで、その声に絶対の服従を誓っているかのように。
―――
木々の陰から、もう一体の赤い鬼が、姿を現した。
先の二体よりも、さらに大きい。燃えるような赤い肌に、太く鋭い二本の角。全身に刻まれた、無数の戦傷。手には、巨大な、鉄の棍。その存在感は、二体の赤鬼とは、比べ物にならなかった。立っているだけで、空気が、ずしりと重くなる。
歴戦の戦士だけが纏う、研ぎ澄まされた気配。
シューベルトの背筋に、冷たいものが走った。さっきまで死力を尽くして渡り合っていた二体ですら、この赤鬼の前では、ただの兵に過ぎない。格が、違う。
「お前たち、よく、俺の手の者と渡り合った」その赤鬼は、低く言った。地鳴りのような、声だった。「人間の戦士にしては、なかなかだ」
それは、人間の言葉だった。
「……名乗る、義理はないが」赤い鬼は、口の端を吊り上げた。「ボルガ、と呼べ。この辺りの、赤鬼をまとめる者だ」
―――
シューベルトは、剣を構えたまま、動けなかった。
ボルガの放つ気配は、先の二体とは、次元が違った。これと戦えば——戦士団は、全滅する。理屈ではなく、本能でそう分かった。
フクロウの手が、シューベルトの腕をそっと制した。「動くな」と、目で告げている。
ボルガは、戦士団が戦う意志を見せないのを見て取ると、鼻を鳴らした。
「案ずるな。今日は、狩りに来たわけではない」ボルガは、鉄の棍を、肩に担いだ。「人間どもが、どの程度の戦力を、西に向けてくるのか。それを、見に来ただけだ。……手の者が、つい、お前たちに手を出したようだがな」
その赤い目が、戦士団をゆっくりと見渡した。そして、最後に、シューベルトの上で、止まった。
「だが、お前は——」ボルガは、シューベルトを指差した。「お前からは、いい匂いがする。血と、鉄と、それから、何か、奥に、燃えるものがある。良い戦士になる匂いだ」
シューベルトは、その赤い目を、見返した。何も、言えなかった。
―――
「いずれ、また会うだろう」ボルガは、口の端を吊り上げた。獰猛だが、不思議と、悪意のない笑みだった。「その時は、こんな小競り合いではなく、本気でやり合おう。楽しみにしているぞ、人間」
ボルガが顎をしゃくると、二体の赤鬼が、音もなく、森の奥へと退いていった。ボルガ自身も踵を返す。
その背中には、一切の隙がなかった。背を向けても、なお、戦士団の誰一人、追撃しようとは思えなかった。それほどの格の差。
赤い影が、完全に森に消えるまで、誰も、動けなかった。
―――
「……はあ、はあ……今の、何」アイリーンが、ようやく、地面に膝をついた。双剣を握る手が、震えていた。「最初の二体だって、必死だったのに……最後のやつ、あれ、別格じゃない……」
「ああ」フクロウが、低く言った。「あの二体ですら、お前たちが総がかりで、辛うじて抑えていた。倒しきれなかった。……そして、あのボルガという赤鬼は、その二体が、傅く相手だ」
「あんなのと、戦うことに、なるのか……」ロバートが、大盾を下ろした。その顔は、青ざめていた。「正直、最後のやつを見た時、足が竦んだ。情けねえが、本当だ」
「当然だ」フクロウは言った。「あれを前に足が竦まない方が、おかしい。お前たちが、震えたのは、戦士として正しい本能だ」
シューベルトは、ボルガが消えた森の奥を、見つめていた。
左胸の鼓動は、まだ、収まっていない。さっきの二体との戦いで、神獣の力は、応えてくれなかった。仲間を守るという意志は、あった。だが、それだけでは足りないらしい。あの力が、本当の姿を見せるには、何が必要なのか。シューベルトには、まだ、分からなかった。
―――
城への帰り道、シューベルトは、ずっと、考えていた。
魔獣の駆除は、慣れた稼ぎ仕事だ。突っ込んでくる獣を、捌くだけ。だが、あの赤鬼たちは、違った。明確な意志と、戦士としての技を持っていた。とりわけボルガは、誇りと矜持を纏った、一個の「人格」だった。
ボルガと向き合った今、シューベルトの中で、何かが、わずかに、揺れていた。あの赤鬼の目には、ただの殺意ではない、もっと複雑な——戦士としての、何かがあった。
「魔族にも、信念や、誇りが、あるのか」
シューベルトは、思わず、呟いた。
その問いに、誰も、答えなかった。だが、フクロウだけが、前を向いたまま、ほんの一瞬、何かを考えるような表情を浮かべた。そして、すぐにいつもの無表情に戻った。
西の空に、陽が沈んでいく。
森の奥に消えた、赤い影。
それは、これから訪れる大きな嵐のほんの一片に過ぎなかった。シューベルトは、まだ、それを知らない。だが、左胸の鼓動だけが、その嵐の近さを、静かに、告げていた。




