予兆の角
その任務が下りたのは、冬も深まったある朝だった。
バルカスの執務室に呼ばれたのは、フクロウとシューベルトの二人。だが今回は、試験ではなかった。
「西の森で、斥候隊が消息を絶った」バルカスは、いつものように書類から顔を上げずに言った。「三日前に偵察へ出た、正規兵の一隊だ。予定の刻限を過ぎても、戻らん。連絡もない」
「全滅、ということですか」フクロウが問うた。
「分からん。だからこそ、確認が必要だ」バルカスは、ようやく顔を上げた。「貴様らに、捜索を命じる。西の森の浅層を巡り、斥候隊の痕跡を探せ。生存者がいれば、保護。魔獣の仕業であれば、その規模を報告せよ」
「魔獣の、規模」シューベルトは、引っかかった。
「最近、西の森の様子がおかしい」バルカスの声に、わずかな緊張が混じった。「これまで、あの一帯に出る魔族は、知性なき魔族——泥喰い大顎の群れ程度だった。傭兵でも捌ける、害獣の類だ。だが、ここ最近、斥候隊が消えることが増えている。一隊や、二隊ではない」
バルカスは、眼鏡の奥の目を細めた。
「何かが、変わりつつある。それが何なのかを、見極めてこい」
―――
西の森へは、馬で半日の距離だった。
空の戦士団は、六人全員で向かった。捜索任務に、班分けの余裕はない。未知の脅威が相手なら、戦力は固めておくべきだ、とフクロウが判断した。
森の入り口に着いた頃には、日が高く昇っていた。だが、森の中は、薄暗かった。
常緑の針葉樹が、空を覆い尽くしている。冬だというのに、葉は落ちず、ただ陰だけが深い。地面には、苔と、朽ちた倒木。足を踏み入れると、空気が、ひやりと重くなった。湿った土と、樹脂と、それから——かすかに、何か、饐えたような臭い。
「……臭うな」エドが、最初に口を開いた。
「魔族か?」シューベルトが聞いた。
「分からない。でも、嫌な臭いだ」エドは、鼻先を風に向けた。「血の臭いが、混じってる。古い血だ」
エドの嗅覚は、戦士団でも随一だ。臭いや気配で、敵をいち早く察知する。そのエドが「嫌な臭い」と言うなら、間違いない。この森には、何かがいる。あるいは、何かが、あった。
フクロウが、先頭に立った。
「散らばるな。隊列を保て。エドが先行偵察、俺が前。シューとロバートが中央、アイリーンとサラが後方だ」
六人は、森の奥へと、慎重に進んでいった。
―――
最初の痕跡を見つけたのは、森に入って一刻ほど経った頃だった。
倒木の陰に、壊れた装備が転がっていた。正規兵のものだ。へし折れた槍。引き裂かれた革鎧。盾は、真っ二つに割れていた。
「斥候隊の、ものか」ロバートが、割れた盾を拾い上げた。「ひでえ壊れ方だ。これ、ただの魔獣の仕業か?」
シューベルトは、盾の断面を見た。
鋭い。獣の牙や爪で引き裂かれたのではない。何か、刃物のような——あるいは、それ以上の力で、一撃で叩き割られたような断面だった。泥喰い大顎の顎では、こうはならない。
「……これは、おかしい」シューベルトは、低く言った。
サラが、装備のそばにしゃがみ込んでいた。普段のおっとりした空気は、消えている。彼女の目は、冷静に、地面を観察していた。
「シュー。血の跡があるけど、遺体がないの」サラが言った。「ここで、人が傷ついた。たくさん血が流れてる。なのに、遺体も、骨も、ない。獣に食われたなら、骨くらい残るはずなのに」
「持ち去られた、ということか」
「分からない。でも、知性のない魔族は、獲物を持ち去ったりしない。その場で食べて、終わり」サラは、立ち上がった。「これは、違う。何か、別の——意志を持った、何かがやったことだと思う」
その言葉に、全員が、沈黙した。
―――
森の奥へ進むほど、痕跡は、増えていった。
壊れた装備。古い血の跡。引き裂かれた木々。だが、遺体は、一つも見つからなかった。まるで、何者かが、戦いの跡を「片付けた」かのように。
そして、森の最奥に近い、開けた場所で。
シューベルトたちは、それを見た。
地面に、何かが、刻まれていた。
大きな岩の表面に、爪で削ったような、模様。いや、模様ではない。それは、明らかに、意図を持って刻まれた、何かの印だった。角ばった、鋭い線。幾何学的な配置。知性のない獣が、偶然つけた傷ではない。
「……文字、か?」ロバートが、訝しげに言った。
「分からん」フクロウが、岩に近づいた。「だが、意味のある印だ。何かを、伝えようとしている。あるいは——縄張りを示している」
その岩の前の地面には、焚き火の跡があった。
石で囲まれた、整然とした焚き火の跡。獣は、火を使わない。これは、知性ある存在が、ここで野営をした証拠だった。一体ではない。複数。組織的に。
シューベルトの背筋に、冷たいものが走った。
いつもの魔族とは、違う。これは、明確な意志と、組織と、文化を持った、何か。
「鬼族だ」フクロウが、静かに言った。
―――
その一言に、空気が、凍りついた。
「鬼族って……あの、鬼族?」アイリーンの声が、わずかに上ずった。「噂でしか聞いたことない、あの?」
「ああ」フクロウは、焚き火の跡を見つめていた。「魔族の多くは、知性なき獣だ。だが、その中に、知性を持つ数少ない種族がいる。鬼族は、その筆頭だ。組織と意志を持ち、人間と同等以上の文明を築いている。……これまで、この一帯に、本格的に出てくることは、稀だった」
「それが、出てきてるってことか」ロバートが、長槍を握り直した。
「斥候隊を襲ったのも、おそらく、鬼族だ」フクロウは続けた。「装備の壊れ方、遺体の持ち去り、この印。すべて、知性ある存在の仕業だ。……知性なき魔族の討伐とは、訳が違う。これは、戦争の、前触れかもしれん」
シューベルトは、岩に刻まれた印を、見つめた。
角ばった、鋭い線。それは、どこか——角を、思わせた。鬼の、角を。
左胸が、かすかに、脈打った。共鳴でも、警告でもない。ただ、何か大きなものが、近づいてくる予感。これまで対峙してきた、知性なき魔族とは次元の違う何かが。
―――
「これ以上、奥には進むな」フクロウが、判断した。「俺たちの任務は、斥候隊の捜索と、脅威の規模の確認だ。生存者はいない。脅威は、鬼族。それが分かれば、十分だ。これ以上深入りすれば、俺たちが、次の犠牲になる」
「待て、フクロウ」シューベルトが言った。「斥候隊の、遺体は」
「持ち去られた以上、回収は不可能だ」フクロウの声は、冷静だった。「無念だが、ここで全滅した可能性が高い。俺たちにできるのは、この事実を持ち帰り、城に報告することだ。それが、彼らの死を、無駄にしないことになる」
シューベルトは、唇を噛んだ。だが、フクロウの言うことは、正しかった。感情で動けば、被害が増えるだけだ。
「撤収する。来た道を戻れ」
フクロウの指示で、六人は、踵を返した。
その時だった。
シューベルトは、ふと、フクロウの動きに、違和感を覚えた。
―――
全員が撤収に向かう中、フクロウだけが、一瞬岩のそばに残った。
ほんの、数秒だった。
フクロウは、岩の根元に落ちていた、何か——小さな、黒い破片のようなものを、素早く拾い上げ、懐に収めた。その動きは、流れるように自然で、誰の注意も引かなかった。
偶然、振り返ったシューベルトだけが、それを見た。
「フクロウ?何か、拾ったのか」
フクロウは、シューベルトを見た。一瞬の、間。
「……ああ。鬼族の痕跡の、欠片だ」フクロウは、淡々と答えた。「城に持ち帰って、報告の材料にする。証拠があった方が、話が早い」
「そうか」
シューベルトは、頷いた。理にかなった説明だった。証拠を持ち帰る。当然のことだ。
だが、フクロウが破片を拾い上げた、あの一瞬の動き。
仲間に気づかれないように、素早く、懐に収めた、あの手つき。
それが、ただ「報告の材料」を拾うだけの動きには——見えなかったことを、シューベルトは、心のどこかに、引っかかりとして残した。だが、それを言葉にすることは、しなかった。フクロウが、報告の材料だと言うならそうなのだろう。長年そうやって、信じてきた。
―――
森を出る頃には、日が傾き始めていた。
馬に乗り、城への帰路につく。誰もが、無言だった。西の森で見たものの重さが、全員の肩にのしかかっていた。
魔族との戦いは、慣れた日常だった。稼ぎ仕事だった。だが、鬼族は、違う。意志を持ち、組織を持ち、人間を「狩る」存在。これまで対峙してきたものとは、根本的に、別の脅威。
「……なあ、フクロウ」ロバートが、ぽつりと言った。「鬼族が出てきたってことは、これから、でかい戦になるのか」
「分からん」フクロウは、前を向いたまま答えた。「だが、その可能性は、高い。ゲオルグ様も、西の森の異変には気づいている。……近いうちに、何か、動きがあるだろう」
その言葉は、現実になる。シューベルトには、なぜかそんな予感があった。
左胸が、静かに、しかし、これまでにない深さで脈打っていた。
西の空を見上げると、灰色の雲の向こうに、沈みかけた陽が赤く滲んでいた。その赤は、どこか血の色を思わせた。森に残された、古い血の跡の色を。
何かが、始まろうとしている。
シューベルトは、その予感を、はっきりと胸に抱きながら馬を進めた。懐に何かを収めたフクロウの背中が夕暮れの中で、いつもより少しだけ遠く見えた。




