タレスの微笑み
その日、シューベルトは、一人で城の中庭を歩いていた。
アンネリーゼの慰問の警護で、待機を命じられていた。令嬢が城内の用を済ませる間、戦士団は中庭で待つことになっていた。仲間たちは別の場所に散っており、シューベルトは、たまたま一人になっていた。
冬の中庭は、静かだった。手入れの行き届いた植え込み。凍った噴水。淡い日差し。
その時、背後から、声がかかった。
「やあ。君が、シューベルト殿かな」
穏やかな声だった。シューベルトは、振り返った。
そこに、金髪の青年が立っていた。
仕立ての良い外套。碧い瞳。整った顔立ち。一目で、高貴な生まれと分かる、優雅な立ち姿。シューベルトは、その顔に、見覚えがあった。
タレス・ホーエン。
城に来た最初の日、廊下の奥でバルカスと話していた、あの男。アンネリーゼの、婚約者。
―――
「……タレス・ホーエン様」シューベルトは、礼をした。「お初に、お目にかかります」
「ああ、そんなにかしこまらないでくれ」タレスは、柔らかく微笑んだ。「私は、ただ、評判の戦士団の一員と、話をしてみたかっただけなのだ。君たちの活躍はよく聞いているよ」
その微笑みは、完璧だった。
穏やかで、親しみやすく、嫌味がない。貴族特有の、人を見下す響きもない。むしろ、相手を尊重するような丁寧な物腰。誰が見ても好感を抱くであろう紳士的な態度。
だが、シューベルトはどこか落ち着かなかった。
何が、とは言えない。タレスの態度に、非の打ちどころはない。言葉も、丁寧だ。表情も、穏やかだ。それなのにこの男と向き合っていると、足元がわずかに浮くような、奇妙な居心地の悪さがある。
握手を交わしているのに、相手の手のひらの感触がまったく伝わってこない。そんな感覚だった。
―――
「下層市場の巡回、令嬢の警護。どちらも、見事な働きだそうだね」タレスは、ゆっくりと歩み寄ってきた。「傭兵から準騎士へ。異例の出世だ。よほど、優秀なのだろうな」
「過分な、お言葉です」シューベルトは、慎重に答えた。
「謙遜することはない。実力は、正当に評価されるべきだ」タレスは、噴水の縁に、軽く手を置いた。「とはいえ、出自というものはついて回る。傭兵上がりの準騎士に対して、城の者たちがどんな目を向けるか。君も、感じているだろう」
「……ええ、まあ」
「いや、責めているのではない」タレスは、微笑んだ。「むしろ、同情しているのだ。実力があっても、生まれが邪魔をする。理不尽なことだ。私は、そういう理不尽を好まない」
その言葉は、優しかった。
傭兵上がりのシューベルトへの、貴族からの、思いやりの言葉。だが、シューベルトは、素直に受け取れなかった。「同情」という言葉が、どこか、上から布をかけるように冷たく響いた。
―――
「だが」タレスは、ふと、声の調子を変えた。穏やかなまま、しかし、わずかに。「同情と、立場をわきまえることは別の話だ」
「……と、おっしゃいますと」
「アンネリーゼと、親しくしているそうだね」
その一言で、空気がわずかに張り詰めた。
タレスの声は、相変わらず穏やかだった。微笑みも、崩れていない。だが、その言葉の底に、何か、ひやりとするものが混じっていた。
「警護の任務で、お話しすることはあります」シューベルトは、慎重に答えた。「ですが、それ以上のことは、何も」
「ああ、分かっているとも」タレスは、軽く頷いた。「君は、警護の任務を、忠実に果たしている。それは立派なことだ。アンネリーゼも、君たちの警護を信頼しているようだ。……少し、信頼しすぎているくらいにね」
その言葉に、棘があった。
穏やかな声に包まれた、見えない棘。シューベルトは、それを確かに感じ取った。
「彼女は、籠の中で育った、純粋な娘でね」タレスは、噴水の凍った水面を見つめた。「外の世界を知らない。だから、優しくされると、すぐに心を許してしまう。危なっかしくて、見ていられない。……特に、彼女が知らない種類の人間には、ね」
―――
彼女が知らない種類の人間。
その言葉が、何を指しているのかは明らかだった。傭兵上がりの、平民の剣士。アンネリーゼが、これまで接したことのない、城の外の人間。それが、シューベルトだ。
「君も、知っているだろう」タレスは、シューベルトに向き直った。「アンネリーゼは、私の婚約者だ。トマス家とホーエン家の、未来を担う、大切な存在。彼女の周りに不要な者が近づくことは、好ましくない」
「……肝に銘じます」シューベルトは、答えた。
「うん。君は聡明な男のようだ。話が早くて助かる」タレスは、満足げに微笑んだ。「誤解しないでくれ。君を、責めているのではない。ただ、忠告しているのだ。君のためにもね」
「俺の、ため」
「ああ」タレスの微笑みが、ほんの少しだけ、深くなった。「分をわきまえぬ者は、時に、思わぬ災いを招く。君のような、有望な若者が、つまらないことでつまずくのを見たくないのだ。……これは、親切心だよ」
親切心。
その言葉が、これほど冷たく響くものかと、シューベルトは思った。タレスは、終始、微笑んでいる。穏やかで、紳士的で、親切な態度を崩さない。だが、その言葉の一つ一つが、刃のように、シューベルトに突き刺さってくる。
近づくな。
彼女は、自分のものだ。
それ以上、踏み込めば、災いが訪れる。
すべてを、微笑みで包んで、タレスは告げていた。
―――
シューベルトの胸を締め付けたのは、その牽制そのものよりも、タレスの言葉の端々ににじむものだった。
アンネリーゼへの執着。
それは、愛情というより執着だった。彼女を、一人の人間としてではなく、所有物として見ている。アンネリーゼが言っていた。「あの方が私を見る時、私は『アンネリーゼ』として見られていない気がする」と。
その通りだ、とシューベルトは思った。
タレスは、アンネリーゼを愛している。だが、その愛は、歪んでいる。彼女自身を見ていない。トマス家の令嬢、神獣の巫女、政略の駒。そういうものとして執着している。そして、その執着ゆえに、女に近づく者を許さない。
「アンネリーゼ様を、大切に思っていらっしゃるのですね」シューベルトは、思わず、そう言った。
タレスの微笑みが、一瞬、止まった。
―――
「……ああ、もちろんだ」タレスは、すぐに微笑みを取り戻した。だが、その目だけは笑っていなかった。「彼女は、私のすべてだ。誰にも、渡さない」
誰にも、渡さない。
その言葉が、中庭の冷たい空気に、溶けた。
シューベルトは、何も言わなかった。言えなかった。タレスの碧い瞳の奥に、初めて、はっきりと何かが見えた気がした。穏やかな仮面の下に隠された、本物の顔。それは、執着と、独占欲と、そして——かすかな、不安だった。
奪われることへの不安。
この男は、恐れている。アンネリーゼを、誰かに奪われることを。だからこそ、こうして、わざわざシューベルトに接近し、忠告し、牽制している。それは、強者の余裕ではなく、むしろ、弱さの裏返しだった。
だが、その弱さこそが、危険だった。
弱さから生まれる執着は、いつか、歪んだ形で、爆発する。シューベルトは、漠然と、そう感じた。
―――
「さて、長話をしてしまったな」タレスは、ふと、空を見上げた。「君と話せてよかった。シューベルト殿。君は、噂以上に興味深い男だ」
タレスは、踵を返した。だが、数歩進んだところで、足を止め、振り返った。
「ああ、そうだ。一つ、言い忘れていた」
その微笑みは、相変わらず穏やかだった。
「アンネリーゼが、最近、よく笑うようになったと、侍女たちが話していてね」
シューベルトは、息を呑んだ。
「以前の彼女は、もっと、物静かだった。それが、近頃は、楽しそうにしている。……何か、心境の変化でもあったのかと、気になっていたのだ」タレスは、首をかしげた。「君は、何か心当たりはあるかな」
「……いえ」シューベルトは、辛うじて答えた。「俺には、何も」
「そうか。ならば、いい」タレスは、にっこりと微笑んだ。「彼女が笑うのは、結構なことだ。ただ——その笑顔が、私以外の誰かのためのものだとしたら、少し寂しいものだね」
その言葉を残して、タレスは、優雅に立ち去っていった。
その後ろ姿が見えなくなるまで、シューベルトは、動けなかった。
―――
仲間たちと合流した後、シューベルトは、フクロウに、タレスとのやり取りを伝えた。
フクロウは、黙って聞いていた。
「……やはり、来たか」フクロウは、低く言った。「タレスが直接お前に接触してきた。それも、わざわざ、お前を一人にして」
「俺を一人に?」
「中庭で、お前だけが一人になったのは、偶然じゃないだろう」フクロウは言った。「仲間の目のない場所で、お前を牽制するために、機会を作ったんだ」
シューベルトは、ぞっとした。あの「偶然」は、仕組まれていたのか。
「気をつけろ」フクロウは、それだけ言った。多くは語らなかった。
シューベルトは、頷いた。
タレスの、最後の言葉が、頭から離れなかった。
アンネリーゼが、よく笑うようになった。その笑顔が、私以外の誰かのためのものだとしたら寂しい。
あれは、気づいているということだ。
アンネリーゼの心境の変化が、シューベルトと関係していることを。確証はなくとも、タレスは、感じ取っている。そして、それを面白く思っていない。
冬の空が、いつの間にか、雲に覆われていた。西の方角から、灰色の雲が、ゆっくりと流れてきていた。何か、嵐の予感のような重い空だった。
シューベルトは、その空を見上げながら、言いようのない不安を、胸に抱いていた。
あの微笑みは、もう一度、必ず、自分の前に現れる。
その時、微笑みの下に隠された刃が、どんな形をしているのか——シューベルトには、まだ、知る由もなかった。




