街、冷たい目
神獣とは何か。学者によって答えは異なる。ある者は「異界から召喚された上位存在」と言い、ある者は「古代の契約によって現世に縛られた精霊」と言う。共通しているのは一点だけだ。神獣の力を持つものはそのほかを圧倒する力を持つ。
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石畳というのは、歩く者を選ぶ。
シューベルトはそう思った。磨き上げられた白磁の石畳が夕陽を浴びて琥珀色に輝く大通りを歩きながら、自分たちの革靴が踏みしめるたびに泥の跡が残っていくのを見ていた。まるで、ここに踏み込んではいけないと言われているようだった。
トマス辺境伯領の首都、聖都エリュシオン。
城壁の内側に広がるその街は、シューベルトがこれまで見てきたどの町とも違っていた。三階建ての石造りの商店が軒を連ね、色とりどりの看板が掲げられ、焼きたてのパンや香辛料の匂いが漂っている。道幅は広く、馬車がすれ違っても余裕がある。水路には澄んだ水が流れ、橋の欄干には花が飾られていた。
「おいおい、見てくれよ。この人の数、それにあの店の構え」
ロバートが、物珍しそうに首を左右に振りながら声を弾ませた。
「帝都の目抜き通りだってこれほどじゃねえぞ」
確かに豊かだった。市場には物資が溢れ、民衆の服装も小綺麗だ。魔族との戦火が絶えない辺境でありながら、この街には不釣り合いなほどの活気が脈動していた。
だが、シューベルトはその活気の中に、何か張り詰めたものを感じていた。
「……シュー、見て」
隣を歩くサラが、控えめに指を差した。
大通りの中央を、数騎の騎兵隊が悠然と横切っていく。トマス家の正規騎士団だ。磨き抜かれた青いマントを翻し、白馬に跨る彼らが通るたびに、それまで賑やかだった街の喧騒が、潮が引くように静まり返る。
騎士たちは道行く民衆に目を向けることさえしない。ただ前を見据え、自らの行軍を妨げるものは存在しないと確信しているかのような傲慢さが、その背中に漂っていた。
路地から飛び出しそうになった子供を、母親が血相を変えて抱き寄せ、騎士の馬列が通り過ぎるまで深く頭を下げる。騎士の側は、馬の蹄が子供の指先を掠めようとも、速度を落とすことさえしなかった。
「……歓迎されてるわけじゃなさそうね、あたしたち」
アイリーンが、肩をすくめて周囲の視線を指摘した。
その通りだった。市民たちは、泥と血の匂いを漂わせた一行を明らかな拒絶の目で見ていた。母親が子供を引き寄せ、商人が店の前から荷物を引っ込め、老人が道の端へと避けていく。騎士団が来た時の「恐れ」とも違う。もっと純粋な、「汚いものを見た」という反応だった。
「……これが、神獣の加護を受ける街の正解ってわけか」
シューベルトは腰の剣に触れながら呟いた。
かつての故郷、ホワイト王国も美しかった。だが、そこにあったのは互いを尊重し合う平穏だった。この街の美しさは種類が違う。力による徹底した階級の選別が、その美しさを支えている。
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案内役の騎士は、背後の傭兵たちが受けている無言の圧力を楽しむかのように、わざと人通りの多い大通りを選んで進んでいく。
広場の噴水のそばを通りかかったとき、シューベルトは一つの光景を目にした。
一人の老人が、騎士に詰め寄られていた。
老人は荷車の通行許可を求めているようだったが、騎士は一言も発せず、ただ鞭の柄で老人の胸を突き放した。老人は石畳に転がった。荷車から野菜が散らばり、それが排水溝へと転がり落ちていく。
周囲の人間は誰も助けようとしない。ただ目を伏せて通り過ぎていく。騎士はすでに老人のことを忘れたように歩き出していた。
「……っ」
エドが、殺気を含んだ瞳でその光景を睨みつけた。彼の手が、腰の短剣の柄に伸びかけた。
「やめろ、エド」
シューベルトが低く言った。
「”今”は、やめろ」
エドは舌打ちをして、手を離した。その瞳には珍しく、剥き出しの怒りが揺れていた。シューベルトは老人が転がったまま荷物を拾い集める姿を視界の端で追いながら、前を向き続けた。
足を止めれば、すべてが終わる。わかっている。だが、その「わかっている」という感覚が、今日だけで何度目だろうかとも思った。
フクロウが、無言でシューベルトの横に並んだ。彼は老人の方を一瞥しただけで、すぐに前へ視線を戻した。
「……今の俺たちにできることは、前へ進むことだけだ」
その言葉は、言い訳にも聞こえた。だが、反論できなかった。
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大通りを外れ、内郭へと続く坂道に差し掛かると、街の様相がさらに変わった。
石造りの建物はより豪奢になり、道を歩く人間の服装も格が上がる。香水の匂いが漂い、馬車は飾り立てられ、すれ違う者たちの視線はより露骨な冷たさを持つ。この辺りは貴族や上級騎士たちが暮らす区画なのだろう。
ここでは、一行への視線は蔑みでさえなかった。
存在を認識した上で無視している。それが最も正確な表現だった。目が合っても何も映っていないかのように、すぐに別の方向へ流れていく。石畳の染みを踏み越えるような、そんな感覚。
「なんか、ここの人たち、俺たちのこと見えてないみたいだね」
アイリーンがぽつりと言った。いつもの強がりがなかった。ただ、静かに事実を述べていた。
「見えてるよ」
エドが短く答えた。
「見えてて、見えないふりをしてる。……その方が、よっぽど性質が悪い」
誰も何も言わなかった。
シューベルトは歩きながら、自分の右手を見た。剣だこが固く盛り上がった、傷だらけの手だ。この手で何十もの魔獣を仕留めてきた。この手で仲間を守ってきた。だが今、この街を歩くすべての人間にとって、この手は「見えないもの」だ。
力があっても、それが認められる場所にいなければ、力は存在しないのと同じだ。
だから、騎士になる。
シューベルトは拳を握った。それだけのために、今日この屈辱を呑み込んでいる。
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城へと続く最後の坂を登り切ったところで、一行は立ち止まった。
目の前に、トマス城の正門が現れた。白銀の巨大な扉。壁面には巨大な獣の浮き彫りが施され、その翼が街全体を覆い隠すかのように広がっている。門の前には完全武装の近衛兵が整列し、こちらを値踏みするように見つめていた。
「……でかいな」
ロバートが、普段の豪快さをどこかへ置いてきたような声でそう言った。
シューベルトも、その威容に一瞬だけ足を止めた。
壮麗で、清廉で、そして冷たい。これがトマス家の力だ。神獣の加護を受けた家系が数百年かけて築き上げた、揺るぎない秩序の象徴。
そしてその秩序の中に、泥だらけの傭兵たちが今から踏み込もうとしている。
「……行くぞ」
フクロウが短く言い、先頭に立った。
シューベルトはもう一度、来た道を振り返った。
大通りに広がる美しい街並み。あの噴水の前で、老人はもう立ち上がれただろうか。散らばった野菜は拾い集められただろうか。誰かが手を貸してやれただろうか。
答えはわかっていた。
シューベルトは前を向き、城の門へと歩き出した。左胸の奥で、拍動が一つ、重く跳ねた。




