門の前にて
帝国の法には、こう書かれている。「すべての民は帝国の庇護のもとに平等である」と。
だが法典を読んだことのある民が、この大陸にどれだけいるだろうか。
傭兵は人ではない。
住所を持たず、主君を持たず、法に守られる「市民」の条件をひとつも満たさない。
彼らは戦場の消耗品として使われ、仕事が終われば宿場町から追い出される。
法が彼らを守らないのではない。法は最初から、彼らのために書かれていない。
―――
トマス領へと続く街道は、朝から霧が深かった。
前日の雨が地面に染み込み、足元の土はぬかるんでいる。荷物を積んだ馬車の車輪が泥を跳ね上げ、傍らを歩く一行の革靴はすでに膝下まで汚れていた。木々は黒ずんで葉を落とし始めており、枝の間から差し込む朝日は頼りなく、気温は歩いていても体が温まらないほど低い。
それでも、誰も文句を言わなかった。
これが普通だ。傭兵の移動とはいつもこういうものだ。整備された街道を馬車で移動できるのは、通行税を払える商人か、帝国の紋章を持つ正規兵だけだ。彼らはぬかるんだ獣道を、重い装備を担いで歩く。それが当然だと、全員が体で知っていた。
「……シュー、この先の森、少し臭いがする」
列の端を歩いていたエドが、ふいに口を開いた。彼は普段から無口だが、こういう時の一言は外れたことがない。シューベルトは足を止めずに、それとなく周囲に目を走らせた。
確かに、何かがいる。
森の奥から漂ってくるのは、腐った肉と泥が混じったような、生臭い臭いだ。野生の獣の臭いとも違う。もっとどろりとした、瘴気に近い何かが混じっている。
「どれくらいいる」
「三、いや四かもしれない。……泥喰い大顎だ」
エドの言葉に、仲間たちの空気が変わった。武器に手が伸び、足の間隔が自然と広がる。フクロウが馬を下り、荷馬車の御者に小声で指示を出した。
「止まれ。物音を立てるな」
御者が手綱を引き、馬車が静止する。馬が不安そうに鼻を鳴らした。
森の奥で、枝が折れる音がした。一つ、また一つ。それから、あの音が聞こえてきた。ガチガチ、ガチガチ。顎が噛み合わさる、規則的な音。一体ではない。
「……来るぞ」
シューベルトが剣を抜いた瞬間、茂みが割れた。
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最初の一体が街道へ飛び出してきた。
二本脚で直立した体躯は、人間の背丈ほどある。だが頭部は異様だ。顔の大半を占める巨大な顎が、絶え間なくガチガチと鳴り続けている。皮膚は泥を固めたような灰褐色で、小さな目が鈍く光っていた。それが獲物を認識した瞬間、顎の動きが速くなった。
続いて二体、三体。茂みから次々と姿を現す。
「ロバート、前に出ろ。アイリーン、左を頼む」
フクロウの指示が飛ぶ。仲間たちは無言で動いた。長年共に戦ってきた者だけが持つ、言葉を必要としない連携だ。
ロバートが大盾を構え、街道の中央に仁王立ちした。最初の一体が突進してくる。巨大な顎が盾に噛みつき、金属が軋む音がした。ロバートは一歩も退かない。足を踏ん張り、盾を押し返しながら、槍の穂先を顎の付け根へと叩き込んだ。一体が崩れ落ちる。
「右からもう一体!」
アイリーンがすでに動いていた。茂みから飛び出してきた二体目の側面に回り込み、双剣を閃かせる。一撃一撃は軽いが、的確に足の腱を狙う。動きを封じられた魔獣が体勢を崩した瞬間、シューベルトが踏み込んだ。
「ハァッ!」
短い気合と共に、片手剣が泥喰い大顎の喉元を貫く。鈍い音がして、魔獣が倒れた。返す動作でもう一体に向き直り、アイリーンが作った隙に剣を差し込む。手応えがあり、それも沈んだ。
最後の一体がエドに向かっていた。だがエドは逃げない。泥喰い大顎が顎を開いて噛みつこうとした瞬間、彼の手から投剣が放たれた。二本同時に。一本が目を、もう一本が顎の付け根を貫く。魔獣は断末魔も上げず、その場に崩れ落ちた。
沈黙が戻った。
全部で四体。かかった時間は、ひと呼吸ほどだ。
「サラ、怪我の確認を」
「はい。……全員、問題なさそうです」
サラが一人一人の状態を確認しながら、小さな傷に回復魔法をかけていく。シューベルトは剣についた脂を布で拭いながら、倒れた泥喰い大顎を一瞥した。今日の戦利品だ。毛皮は売れる。顎の骨は素材になる。傭兵の仕事とは、こういうものだ。戦い終わったら、すぐに計算する。感傷を持ち込む余裕はない。
「……この辺りも、随分と増えてきたな」
ロバートが盾についた傷を確認しながら、重い口調で言った。
「去年この街道を通った時は、こんな数じゃなかったぞ」
「西の方から押し出されてるんだろう」
フクロウが短く答えた。
「鬼族が動いているという話は、あちこちで聞く。縄張りを追われた連中が、こっちへ流れてくるのかもしれない」
誰も何も言わなかった。
傭兵が仕事を得るのは、誰かが困っているからだ。魔獣が増えれば仕事が増える。だからといって、それを喜ぶほど彼らは鈍感ではなかった。
「行くぞ。時間を使いすぎた」
フクロウの号令で、一行は再び歩き出した。
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その後も、街道沿いに廃村の跡が点在していた。
かつて農村があったはずの場所に、崩れた屋根と錆びた農具だけが残っている。サラが一度足を止め、泥に汚れた幼子の靴を拾い上げた。それを静かに元の場所に戻し、短く祈りを捧げた。シューベルトはその横を通り過ぎながら、目を逸らした。
見ていれば、考えてしまう。ここにいた人間は今どこにいるのか。無事に逃げられたのか。それとも。
考えても意味がない。今の自分にできることは、前へ進むことだけだ。
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「境界の宿場」が見えてきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
険しい山脈を越える前の旅人や商人が集まる場所で、酒場と宿屋と検問所だけで成り立っているような小さな町だ。遠くから見た時は、人の気配があって少し安心した。だがその安心は、町の入り口に差し掛かった瞬間に消えた。
空気が変わった。
賑やかだったはずの往来が、潮が引くように静まり返る。荷物を抱えた商人が道を空け、野菜を売っていた老婆が目を逸らす。子供の手を引いた母親が、わずかに後退した。
シューベルトは慣れていた。この視線に。
泥にまみれた革鎧、各自てんでばらばらな装備、そして何より、隠しようのない「どこにも属していない者」の空気。傭兵というのはそういうものだ。法に守られた市民でもなく、正規の軍人でもない。どの町に行っても、この目で迎えられる。
慣れているはずだった。それでも、これだけ続くと、どこかが削れていく気がした。
「止まれ。それ以上、一歩も近づくな」
検問所の前に立つ三人の衛兵が、槍を水平に構えた。帝国製の軽装鎧は安価だが手入れが行き届いている。対してシューベルトたちの防具は、戦場で拾い集めた継ぎ接ぎだ。その対比が、すべてを物語っていた。
「我々は傭兵団『空の戦士団』だ。トマス辺境伯様からの招集を受け、この先へ進みたい」
フクロウが馬を下り、丁寧に懐から依頼状の写しを取り出そうとした。だが先頭の衛兵は鼻をつまむような仕草をして、あざ笑うように吐き捨てた。
「トマス様が、お前らみたいな連中を?冗談は死臭だけにしておけ。最近は街道の野盗が傭兵を名乗って門を通ろうとするからな。通行税は、通常の三倍払ってもらおうか」
「三倍だと?さっきの商人は銀貨一枚で通してたじゃないか!」
ロバートがたまらず声を荒らげた。衛兵たちは即座に腰の剣に手をかける。
「商人は税を納める市民だ。お前らみたいな、どこの馬の骨とも分からん連中とは違う。手間賃を上乗せするのは当然だろう?嫌なら、その辺の道端で野垂れ死ぬがいい」
周囲の村人たちも、遠巻きに冷ややかな視線を向けてくる。買い物袋を提げた母親が「あんな汚れちゃダメよ」と囁きながら、子供の目を覆い、足早に去っていく。
今朝、街道で四体の泥喰い大顎を仕留めた。もしあの群れがこの方角に流れてきていたら、この町の被害は相当なものだっただろう。だがそれを言っても意味がない。彼らはそれを見ていない。見えるのは、目の前の泥だらけの傭兵たちだけだ。
「……っ、あたしたちがさっき魔獣を仕留めたから、この村まで被害がいかなかったんだよ!分かってんの!?」
アイリーンが肩を震わせた。その瞳には、悔しさよりも深い、説明のつかない悲しみが滲んでいた。
シューベルトは彼女の腕を、静かに、しかし強く制した。
「やめろ、アイリーン。ここで騒ぎを起こせば、俺たちの目的は潰える」
シューベルトは無表情を保っていた。
かつての自分であれば、この無礼な衛兵を叱り飛ばす権利があっただろう。だが今の自分は、泥にまみれた右手の指さえ自由に動かせない、名もなき者に過ぎない。それが現実だ。怒りは持っていい。だが怒りに動かされてはいけない。
「……これで足りるか」
フクロウが、革袋をそのまま衛兵の足元に放り投げた。チャリン、と虚しい音が響く。それは、彼らが泥水をすすって稼いできた、全員の数日分の食費だった。
「ふん、物分かりがいいな。行けよ。せいぜい、あそこの『鉄槌の門』に追い返されないようにな」
衛兵は鼻で笑い、槍を引いた。
一行は無言で村を通り過ぎた。背後からは「早く通ってくれてよかった」「掃除が大変だ」という村人たちのひそひそ話が追いかけてくる。
村を抜け、再びぬかるんだ街道に戻った時、ロバートが絞り出すように言った。
「……騎士になれば、あいつらを見返せる。俺たちを指差して笑ったあいつらを、一列に並んで跪かせてやれるんだな。なあ、団長」
「復讐のために騎士になるんじゃない、ロバート」
フクロウは前を見据えたまま、静かに答えた。「俺たちが騎士になるのは、もう二度と、あんな無意味な屈辱を受けないためだ。自分の名前を誇り、愛する仲間を堂々と守るためだ。……あいつらの言葉を忘れるな。それを、明日を生きる怒りに変えろ」
シューベルトは、泥にまみれた自分の足元を見つめた。
今朝、泥喰い大顎を四体仕留めた。誰にも頼まれていないが、あの群れが街道を下れば、宿場町にも被害が出ただろう。それをやった。だが、やった事実は誰にも届かない。届けようとしても、伝わる言葉を持っていない。
だから、騎士になる。
自分の名前に、重みを持たせるために。
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「鉄槌の門」が視界に入ったのは、日が傾き始めた頃だった。
「……ありゃあ、たまげたな。門ってレベルじゃねえぞ」
先頭を歩くロバートが、思わず足を止めて見上げた。
断絶山脈の切り立った断崖をそのまま利用し、巨岩を積み上げて造られた巨大な関門。高さ二十メートルはあろうかというその城壁には、無数の矢傷や魔法による焦げ跡が刻まれていた。数多の魔族の侵攻を撥ね退けてきた歴史が、沈黙のままに威圧感を放っている。
門の頂には、帝国の「双頭鷲」の旗と並び、トマス家の家紋——青地に銀の翼を広げた紋章——が、西風を受けて力強く翻っていた。
「止まれ!貴様ら、何者だ!」
城壁の上から、鼓膜を震わせるような怒声が降ってきた。同時に、重厚な石造りの狭間から、数十の長弓が一斉に戦士団へと向けられる。矢尻に込められた魔力が、夕闇の中で青白く火花を散らした。
「おいおい、手荒な歓迎だな……」
アイリーンがシューベルトの背中に隠れるようにして、小声で毒づく。
フクロウは慌てることなく、馬を数歩前に進めた。懐から一通の書状を取り出し、高く掲げる。
「我々は傭兵団『空の戦士団』。辺境伯ゲオルグ・トマス閣下直々の招聘により、加勢に参じました。ここにあるのは、閣下直筆の印が押された通行許可証です!」
しばしの沈黙。やがて、壁の上から一人の騎士が身を乗り出した。磨き抜かれた白銀の甲冑を纏い、マントを翻すその姿は、泥にまみれたシューベルトたちとは住む世界が違うことを告げている。
騎士は吊り下げられた籠で書状を回収させると、時間をかけて内容を検分した。
「……確かに。辺境伯閣下の双翼印だ」
騎士の声には、隠しきれない不快感が混じっていた。書状を籠に戻すと、眼下の傭兵たちを蔑むように見下ろした。
「門を開けろ!……だが、傭兵ども。一つ忠告しておく。この門の先は、神獣の加護に守られた聖域だ。貴様らのような素性も知れぬ者が、その土を汚すことは許されん。閣下の招聘がなければ、今頃はその首を城壁に吊るしていたところだ」
重々しい金属音を立てて、巨大な鉄格子の門がゆっくりとせり上がっていく。
「……顔を上げるんだ」
シューベルトは仲間に声をかけ、真っ先に門を潜った。
門の内部は、巨大なトンネルのようになっていた。壁面にはトマス家の歴代当主や、彼らが跨る神獣の英雄的な姿が石像となって刻まれている。歩みを進めるごとに、石畳を叩く足音が反響し、重く響いた。
「ねえ、シュー……なんか、ここの人たち、すごく怖くない?」
サラが不安げに袖を引いた。通路の両脇には、一糸乱れぬ姿勢で整列したトマス領の守備兵たちが並んでいた。彼らは一言も発しないが、その視線は鋭く、獲物を値踏みするような冷たさがある。
「……気にするな」
シューベルトは前を向いたまま答えた。
だが、本当は気になっていた。宿場町の衛兵の目は軽蔑だった。だがここの兵たちの目には、蔑みではなく、もっと純粋な「異物への警戒」がある。自分たちをゴミとして見ているのではなく、「分からないもの」として観察している。
どちらがより不快か。シューベルトはまだ答えを出せないでいた。
トンネルを抜けた先に、夕焼けに染まるトマス領の全景が広がっていた。街道沿いに整然と並ぶ白壁の民家、遠くに見える巨大なトマス城の尖塔、清潔に整えられた石畳の広場。
「……すげえな」
ロバートが溜息をついた。
シューベルトは、門を通過した瞬間に感じた「空気の膜」のような感覚を思い出していた。結界だ。強力な魔力の場が、この地を覆っている。外の世界の瘴気を撥ね退ける、硬い意志のような何かが。
そしてそれに呼応するように、左胸の奥で、拍動が跳ねた。
(……ここに、何かがある)
シューベルトは無意識に胸元を押さえた。
「ようこそ、トマス辺境伯領へ。……歓迎は、城で行う」
案内役の騎士が、馬の鼻先を城の方角へと向けた。
シューベルトは空を仰いだ。茜色の空に、銀色の翼を模した旗が翻っている。その美しさに一瞬目を奪われながら、剣の柄を、無意識に強く握りしめていた。
泥の中から這い上がるための旅が、今、始まろうとしていた。




