アイリーンの本音
その夜は、戦士団にとって、久しぶりに何の任務もない夜だった。
ロバートの兄貴分の一件も片付き、アンネリーゼの慰問も、しばらく予定がない。束の間の休息。仲間たちは、思い思いに過ごしていた。
ロバートとエドは、武器の手入れをしながら、何やら賭け事をしている。サラは、薬草の整理。フクロウは、いつものように一人で書類に向かっている。
シューベルトは、別館の屋上にいた。
城の別館には、見張り台を兼ねた小さな屋上がある。普段は誰も来ない場所だ。シューベルトは、時々ここで、一人になる。星を眺めながら、考え事をするのが、傭兵時代からの習慣だった。
冬の夜空は、よく澄んでいた。無数の星が、瞬いている。西の方角の低い空には、ひときわ赤い星が、一つ。
その時、背後で、階段を上ってくる足音がした。
「あ、やっぱりここにいた」
アイリーンだった。手に、酒の瓶を二つ、ぶら下げている。
―――
「探したよ、シュー」アイリーンは、にっと笑った。
「今夜は任務ないでしょ。だから、付き合ってよ。一人で飲むの、寂しいんだもん」
「お前、また飲むのか」
「いいじゃない、たまには。ほら」
アイリーンは、シューベルトの隣に腰を下ろし、酒の瓶の一つを押し付けた。屋上の縁に、二人並んで座る形になった。眼下には、聖都エリュシオンの夜景が広がっている。
シューベルトは、仕方なく瓶を受け取った。
「乾杯」アイリーンが、瓶を掲げた。
「……乾杯」
二人は、瓶を軽くぶつけた。アイリーンが、ぐびりと飲む。シューベルトも、一口だけ含んだ。安い酒だ。喉が焼ける。
しばらく、二人は、無言で夜景を眺めていた。アイリーンにしては珍しく、すぐに絡んでこなかった。それが、シューベルトには、少し意外だった。いつもなら、酒が入れば、すぐに「好き?」と聞いてくるのに。
「……星、綺麗だね」アイリーンが、ぽつりと言った。
「ああ」
「あたしさ、星を見るの、好きなんだ」
その声は、いつもの彼女より、少しだけ、静かだった。
―――
「シューは、覚えてる?あたしが、戦士団に入った時のこと」アイリーンが、夜空を見上げたまま言った。
「覚えてる。戦場跡で、行き倒れてた」
「そう。あたし、あの時、死にかけてた」アイリーンは、ふっと笑った。「もう、どうでもいいやって思ってた。一人で、誰にも必要とされなくて、生きてる意味なんてないって。そんな時に、シューが拾ってくれた」
シューベルトは、黙って聞いていた。アイリーンが、こういう話をするのは、珍しかった。
「あたしね、本当は、ずっと一人だったの」アイリーンは、酒を一口飲んだ。「親の顔も覚えてない。物心ついた時には、戦場をうろついて、死んだ兵士の持ち物を漁って生きてた。盗人みたいなもんだよ。誰からも、必要とされなかった」
「アイリーン……」
「だからさ、戦士団に入れた時、本当に嬉しかったんだ。あたしにも、居場所ができたって。みんなが、あたしを必要としてくれるって」
アイリーンの横顔は、笑っていた。だが、その笑みは、いつもの陽だまりのような明るさとは、違っていた。どこか、危うげな、脆い笑みだった。
―――
「でも、時々、怖くなるんだ」
アイリーンの声が、ふと、沈んだ。
「怖い?」
「うん。……みんなが、いつか、いなくなるんじゃないかって」アイリーンは、膝を抱えた。「あたしたち、戦うのが仕事でしょ。いつ、誰が死んでもおかしくない。今日笑ってた仲間が、明日にはいなくなってるかもしれない。そう思うと、たまに、夜、眠れなくなるの」
シューベルトは、はっとした。
いつも明るく、底抜けに陽気なアイリーン。何も深く考えていないように見える彼女が、こんな不安を抱えていたとは、思ってもみなかった。
「あたし、また一人になるのが、怖い」アイリーンは、小さな声で言った。「やっと、居場所を見つけたのに。やっと、必要としてもらえたのに。それが、また、消えちゃうんじゃないかって。……ばかみたいでしょ。考えても、どうしようもないのに」
「ばかみたいなんかじゃない」
シューベルトは、静かに言った。
アイリーンが、シューベルトを見た。
「みんな、同じだ」シューベルトは、夜空を見上げた。「俺も、フクロウも、サラも、ロバートも、エドも。みんな、何かを失って、ここにたどり着いた。だから、失うことの怖さを、知ってる。お前だけじゃない」
―――
「……そうなのかな」
「そうだ」シューベルトは、頷いた。「お前が、その怖さを抱えてるのは、それだけ、この戦士団を大事に思ってるってことだ。何とも思ってなければ、失うのも怖くない。お前が怖いのは、お前が、ちゃんと俺たちを愛してるからだ」
アイリーンの目が、わずかに潤んだ。
「……シューって、たまに、ずるいよね」
「ずるい?」
「そういう、人がぐっとくること、さらっと言うんだもん」アイリーンは、酒の瓶に口をつけた。誤魔化すように。「だから、好きになっちゃうんだよ。困るなあ、もう」
いつもの、軽口だった。だが、その声には、いつもの茶化すような響きがなかった。もっと、まっすぐで、不器用な響き。
シューベルトは、しばらく黙っていた。
アイリーンの好意は、知っている。彼女は、いつも、それを隠さない。酒の席で「好き?」と絡んでくるのも、いつものことだ。だが、今夜のそれは、いつもと違った。冗談ではなかった。本音だった。
「アイリーン」シューベルトは、口を開いた。
「あ、いいよいいよ、返事とか」アイリーンは、慌てたように手を振った。「分かってるから。シューが、今、そういうの考えてる余裕ないの。アンネリーゼ様のこととか、神獣のこととか、色々あるもんね。あたしの気持ちは、ただの、片想いってやつ。気にしないで」
その言葉に、シューベルトは、胸を突かれた。
アイリーンは、気づいている。シューベルトとアンネリーゼのことを。あの直感の鋭さで、とっくに、感じ取っていたのだ。それでも、彼女は、明るく振る舞っていた。自分の気持ちを、押し殺して。
―――
「……ごめん」シューベルトは、それだけ言った。
「なんで謝るの」アイリーンは、笑った。「謝ることないでしょ。好きになったのは、あたしの勝手だもん。シューは、何も悪くない」
「だけど」
「いいの」アイリーンは、シューベルトの言葉を遮った。「あのね、シュー。あたし、別に、シューと結ばれたいとか、そういうことだけじゃないんだ」
彼女は、夜空を見上げた。赤い星が、瞬いている。
「あたしが、一番怖いのは、この居場所が消えること。みんなが、いなくなること。シューのことが好きなのも、その一部なんだ。シューがいてくれるから、あたしは、一人じゃない。それで、十分なの」
アイリーンは、シューベルトを見て、にっこりと笑った。
今度は、いつもの、陽だまりのような笑顔だった。
「だからさ、約束して。簡単に、死なないでね。あたしより、先にいなくならないで。……それだけ、守ってくれたら、あたしは、それでいいんだ」
その言葉に、シューベルトは、胸が締め付けられた。
―――
「約束する」
シューベルトは、まっすぐにアイリーンを見て、言った。
「俺は、簡単には死なない。お前を、一人にはしない。……それだけは、約束する」
アイリーンの目から、一粒、涙がこぼれた。彼女は、慌ててそれを拭った。
「やだ、なんで泣いてるんだろ、あたし」アイリーンは、笑いながら、涙を拭いた。「酔っ払ったかな。やっぱ、安い酒はだめだね」
「ああ。安すぎる」
「でしょ。今度、もっといいの買おう」
二人は、顔を見合わせて、笑った。
その笑いの中で、何かが、少しだけ変わった。恋人になったわけではない。シューベルトの気持ちが、変わったわけでもない。だが、二人の間に、これまでとは違う、何か——もっと深い、信頼のようなものが、生まれていた。
アイリーンは、自分の弱さを、シューベルトに見せた。シューベルトは、それを、まっすぐに受け止めた。そして、約束した。それだけで、十分だった。
―――
「ねえ、シュー」アイリーンが、また酒を飲みながら言った。「一つだけ、聞いていい?」
「なんだ」
「アンネリーゼ様のこと、好き?」
シューベルトは、言葉に詰まった。
「……分からない」彼は、正直に答えた。「ただ、彼女といると、左胸が、落ち着くんだ。神獣の共鳴のせいなのか、それとも、別の何かなのか、自分でも分からない」
「ふぅん」アイリーンは、にやりと笑った。「それ、好きってことだと思うけどな。あたしの直感だけど」
「……お前の直感は、よく当たるからな」
「でしょ?」アイリーンは、得意げに胸を張った。「あたし、難しいことは分かんないけど、人の気持ちだけは、よく分かるんだ」
その通りだ、とシューベルトは思った。アイリーンは、深く考えない代わりに、人の心の機微を、直感で捉える。自分の気持ちも、シューベルトの気持ちも、アンネリーゼとのことも、とっくに見抜いていた。それでいて、それを、明るく受け止めていた。
強い女だ、とシューベルトは思った。
明るさは、弱さを隠すための仮面ではない。明るさそのものが、アイリーンの強さなのだ。不安を抱えながら、それでも笑う。失う怖さを知りながら、それでも仲間を愛する。それが、アイリーンの生き方だった。
―――
夜が更け、二人は屋上を後にした。
階段を下りながら、アイリーンが、いつもの調子で言った。
「あ、今夜のこと、みんなには内緒ね。あたしが、しんみりした話したなんて、ばれたら恥ずかしいから」
「分かった。言わない」
「ほんとに?約束だよ?」
「ああ、約束だ。今夜は、約束ばっかりだな」
「ふふ、そうだね」アイリーンは、楽しそうに笑った。「じゃあ、もう一個。今度、二人で、もっといい酒、飲みに行こ。デートじゃないからね、ただの、仲間の付き合いとして」
「……ああ。いいぞ」
「やった!」
アイリーンは、嬉しそうに、ぴょんと跳ねた。さっきまでの、しんみりした空気は、もうどこにもない。いつもの、明るいアイリーンだ。
だが、シューベルトは、知ってしまった。その明るさの裏に、確かに存在する、彼女の不安と、強さを。
別館の廊下で、二人は別れた。
自室へ戻る途中、シューベルトは、ふと、窓の外を見た。西の方角の、赤い星が、相変わらず瞬いている。
簡単には死なない。お前を一人にはしない。
アイリーンと交わした、約束。
それは、口にした以上、必ず守らなければならない約束だった。ロバートが言っていた。義理は、果たせる時に、果たさなければならないと。約束も、同じだ。
左胸が、静かに脈打っていた。
その拍動は、温かく、そして、ほんの少しだけ、重かった。守るべきものが、また一つ、増えた。その重さは、決して、嫌なものではなかった。




