影
その日、フクロウは一人で城の本館へ向かった。
「団長は?」
朝、アイリーンが尋ねた。
「上の方に呼ばれたとさ」
ロバートが答えた。
「ゲオルグ様に、直々にな」
「ゲオルグ様って、あの覇王の?」
アイリーンが目を丸くした。
「なんで団長だけ?」
「さあな。任務の話だろ。団長なんだから、そういうこともある」
ロバートは気にした風もなかった。シューベルトも、同じように受け止めた。団長が領主に呼ばれる。準騎士団を率いる者として、ありうることだ。フクロウなら、そつなくこなすだろう。
シューベルトは、それ以上は考えなかった。フクロウに任せておけば、間違いはない。長年、そうやって生きてきた。
―――
トマス辺境伯ゲオルグの執務室は、城の最上層にあった。
広い部屋だ。壁には、歴代のトマス家当主の肖像と、無数の武具が飾られている。窓からは、辺境の広大な土地が一望できた。西の彼方には、魔族の領域へと続く、暗い森が霞んで見える。
その部屋の主——ゲオルグ・トマスは、窓辺に立っていた。
百九十に届かんとする巨躯。強面の顔には、深い皺と、いくつもの古傷が刻まれている。覇王、あるいは狂犬と呼ばれる男。魔族への憎しみを、世代を超えて燃やし続けてきた、辺境の統治者。
「来たか、傭兵上がりの団長」
ゲオルグは、振り返りもせずに言った。低く、地を這うような声だった。
「お呼びと伺い、参上いたしました」
フクロウは、片膝をついて礼をした。完璧な作法だった。傭兵上がりとは思えぬほど、洗練された所作。
「楽にしろ。茶番は好かん」ゲオルグは、ようやく振り返った。鋭い眼光が、フクロウを射抜く。
「貴様らの働き、聞いている。下層市場の巡回、娘の警護。どちらも、そつなくこなしているようだな」
「過分なお言葉です」
「世辞ではない」ゲオルグは、椅子にどかりと腰を下ろした。
「俺は、実力しか信じん。称号も、血筋も、どうでもいい。使える者は使う。使えん者は捨てる。それだけだ」
ゲオルグの目が、フクロウを値踏みするように細められた。
「貴様は、使えそうだ」
―――
「貴様に、聞きたいことがある」ゲオルグは、身を乗り出した。「西の森のことだ」
フクロウの表情は、変わらなかった。
「最近、西の森で、斥候隊が消息を絶っている。一隊や二隊ではない。何かが、いる。これまでの魔獣とは、違う何かが」ゲオルグの声に、わずかな緊張が混じった。
「貴様、傭兵として各地を巡ってきたと聞く。この状況について、何か知っていることはあるか」
フクロウは、しばらく沈黙した。
そして、口を開いた。
「……鬼族の動きが、活発になっているという噂は、耳にしております」
ゲオルグの眉が、ぴくりと動いた。
「鬼族だと」
「あくまで、噂です。確証はございません」フクロウは、慎重に言葉を選んだ。
「ですが、もし鬼族が組織的に動き始めているとすれば、これまでの魔族との戦いとは、次元が異なります。鬼族には、知性があり、組織があり、明確な意志がある」
「ほう」ゲオルグの目が、光った。
「貴様、よく分かっているな」
「傭兵として、生き延びるために、敵を知る必要がありましたゆえ」
それは、半分は真実だった。だが、もう半分は——フクロウだけが知る、別の何かだった。
フクロウは、表情を一切変えずに、ゲオルグと向き合っていた。その内心で何が動いているのか、この部屋の誰にも——おそらくゲオルグにも、読めなかった。
―――
「気に入った」ゲオルグは、ニヤリと笑った。獣のような笑みだった。
「貴様のような男は、嫌いではない。腹の底は読めんが使える。それで十分だ」
「光栄です」
「貴様らに、追って西方の任務を与えるかもしれん。心しておけ」ゲオルグは立ち上がった。
「下がってよい」
フクロウは、再び礼をして、執務室を辞した。
扉が閉まる。
一人になったゲオルグは、再び窓辺に立ち、西の森を見つめた。
「鬼族、か」
彼は、低く呟いた。その顔には、憎しみと、それを上回る——戦意とも、渇望ともつかぬ、何かが浮かんでいた。魔族への、世代を超えた執念。それが、この男を覇王にし、同時に狂犬にした。
「面白い」
ゲオルグの口元が、歪んだ。
―――
一方、執務室を出たフクロウは、長い廊下を一人で歩いていた。
その足取りは、いつも通り静かだった。表情も、変わらない。だが、彼の頭の中では、何かが、確かに動いていた。
ゲオルグは、西の森の異変に気づいている。鬼族の影を、すでに感じ取っている。それは、フクロウにとって——好都合だった。
なぜ好都合なのか。それは、フクロウだけが知っていた。
彼は、廊下の窓から、西の空を見上げた。
その横顔に、ほんの一瞬、何かがよぎった。普段の、仲間といる時の余裕のある顔とは、違う何か。だが、それを見ている者は、今、誰もいなかった。フクロウは、すぐにいつもの無表情に戻り、別館への道を歩き始めた。
彼が何を考えているのか。
何を、企んでいるのか。
それは、誰にも分からなかった。
―――
別館に戻ったフクロウを、仲間たちが迎えた。
「おかえり、団長!ゲオルグ様、なんだって?」アイリーンが飛びついた。
「西方の任務を、追って与えるかもしれん、とのことだ」フクロウは、淡々と答えた。
「それだけだ」
「西方って、魔族のいる方だよね。やばいやつ?」
「分からん。まだ何も決まっていない」
「ふぅん」アイリーンは、すぐに興味を失ったように離れていった。彼女は、難しいことを長く考えない。
ロバートが、「西方か」と腕を組んだ。
「久々に、本格的な戦になるかもしれねえな。腕が鳴るぜ」
「気が早いよ、ロバート」サラが苦笑した。
仲間たちは、いつも通りだった。フクロウの言葉を、額面通りに受け取り、それ以上は詮索しない。団長が言うなら、そうなのだろう。その信頼が、この戦士団を支えていた。
シューベルトも、その一人だった。
―――
その夜、シューベルトは、フクロウの小部屋に立ち寄った。
扉が、わずかに開いていた。明かりが灯っている。シューベルトは、軽くノックをした。
「……シューか。入れ」
シューベルトは、扉を開けた。フクロウは机に向かい、いつもの任務の書類に目を通していた。
「まだ起きてたのか」シューベルトは言った。
「ゲオルグ様との話、どうだった」
「ただの顔合わせのようなものだ」フクロウは、書類から顔を上げた。
「西方の任務がある『かもしれん』という、含みのある話だけでな。具体的なことは、何も」
「西方か」シューベルトは、椅子の一つに腰を下ろした。
「本格的な戦になるかもしれないって、ロバートが張り切ってた」
「あいつは、いつも気が早い」フクロウが、わずかに口元を緩めた。
シューベルトは、その横顔を見ながら、ふと思った。フクロウは、魔族のことになると、いつもどこか、人とは違う集中を見せる。傭兵時代から、そうだった。魔族の生態、鬼族の動向、戦線の移り変わり。誰よりも詳しく、誰よりも関心を持っていた。
だが、それも当然だ、とシューベルトは思う。
フクロウは、帝国の戦火で故郷を焼かれた。家族を失った。魔族との果てしない戦いも、その戦火の延長線上にある。だからこそ、フクロウは戦のことに人一倍敏感なのだ。生き延びるために、敵を——魔族も、帝国の理不尽も——知り尽くそうとしてきた。
それは、フクロウという男の、痛みの裏返しなのだ。
シューベルトは、そう理解していた。だから、フクロウが西の森の地図を眺めていようと、魔族の動向を調べていようと、不思議には思わなかった。むしろ、団長として当然の備えだと、信頼していた。
―――
「フクロウ」シューベルトは、ふと言った。
「お前が俺を拾った日のことを、覚えてるか」
「唐突だな」
「いや。ゲオルグ様の話で、なんとなく思い出した。あの城が燃えた日のことを」
フクロウは、しばらく黙ってから、答えた。
「覚えている。お前は、あの時、泣きもしなかった」
「泣く余裕も、なかったんだ」シューベルトは、小さく笑った。「お前が、俺の手を引いて走ってくれた。あれがなければ、俺は今、ここにいない」
「過ぎたことだ」
「礼を言いたかっただけだ」シューベルトは、まっすぐにフクロウを見た。
「お前は、ずっと俺を守ってくれた。傭兵の頃も、今も。……ありがとう、フクロウ」
フクロウは、シューベルトを見返した。
その目に、一瞬、何かがよぎった。だが、それはすぐに消えた。
「礼はいらん」フクロウは、静かに言った。
「俺は、お前を守る。何があっても。それだけは、変わらない」
その言葉に、シューベルトの胸が、熱くなった。
この男がいたから、自分は生きてこられた。泥の中を這いずる日々も、フクロウがいたから、絶望せずに済んだ。絶対的な信頼。それが、シューベルトのフクロウへの想いだった。
「ああ。俺も、お前を信じてる」シューベルトは、頷いた。「何があっても、な」
フクロウは、何も答えなかった。
ただ、わずかに目を伏せて、書類に視線を戻した。
―――
「もう遅い。寝ろ」フクロウが言った。
「ああ。おやすみ」
シューベルトは、小部屋を出た。
胸の中が、温かかった。久しぶりに、フクロウと、昔の話をした。あの兄貴分は、何も変わっていない。ずっと、自分の隣にいてくれた。これからも、そうだろう。シューベルトは、そう信じて疑わなかった。
自室へ戻る彼の足取りは、軽かった。左胸の拍動も、穏やかだった。
―――
扉が閉まり、シューベルトの足音が遠ざかると、小部屋には、再び静寂が戻った。
フクロウは、書類を脇に寄せた。
そして、机の引き出しの、一番奥から、一枚の紙を取り出した。それは、西の森の地図だった。いくつもの印と、線と、走り書き。何かの動きを、執拗に追い続けた痕跡。
フクロウは、その地図を、じっと見つめた。
「……何があっても、守る」
彼は、低く呟いた。それは、先ほどシューベルトに告げた言葉だった。だが、一人で呟くその声には、シューベルトの前では見せなかった、別の響きが混じっていた。
守る。
その言葉が、本当は何を意味しているのか。何と引き換えに、何を守ろうとしているのか。それは、この小部屋の闇の中に、深く沈んでいた。
窓の外、西の空には月もなく、ただ暗い森が闇に沈んでいた。その闇を見つめながら、一人の男が、誰にも明かせない何かを静かに育てていた。
仲間への愛情は、本物だった。
フクロウは夜の中、一人座っていた。
フクロウの背後に伸びるその影が、どれほど濃いものなのか。
まだ、誰も知らない。シューベルトでさえ、知らない。
小部屋の明かりは、その夜、長いこと消えなかった。




