籠の鳥の夢
アンネリーゼの慰問は、その一度きりではなかった。
トマス家の令嬢として、彼女には城下の各施設を巡る定期的な務めがあった。救護院、孤児院、施療院。そのたびに警護が必要となり、その任は引き続き、空の戦士団に委ねられた。
タレスの意向だ、とフクロウは言った。
「一度きりなら、ただの名誉職だ。だが、繰り返し同じ任務を与えるということは、それだけ長く、俺たちを観察したいということだ」フクロウの声は冷静だった。
「タレスは、何かを確かめようとしている。気を抜くな」
シューベルトは頷いた。だが、警護が続くということは、アンネリーゼと会う機会が続く、ということでもあった。その事実に、自分の胸がわずかに高鳴るのを、シューベルトは否定できなかった。
三度目の慰問の日。
慰問先の施療院で、アンネリーゼが患者たちと過ごしている間、シューベルトは中庭の警備についていた。冬枯れの庭に、午後の陽が淡く差している。人の気配の少ない、静かな場所だった。
そこへ、アンネリーゼが、一人でやってきた。
―――
「少しだけ、休ませてもらえるかしら」
アンネリーゼは、侍女を施療院の中に残し、中庭のベンチに腰を下ろした。令嬢が一人で警護の者の近くにいるのは、本来あまり褒められたことではない。だが、この中庭には、二人のほかに誰もいなかった。
「お疲れですか」シューベルトは、警護の距離を保ったまま尋ねた。
「ええ、少し。……でも、それより」
アンネリーゼは、悪戯っぽく微笑んだ。あの夜の、少女の顔だ。
「やっと、二人で話せるわ。ずっと、警護の人と令嬢として、よそよそしくしているのが、退屈だったの」
シューベルトは、思わず口元を緩めた。令嬢の仮面を、彼女はこういう時、いとも簡単に脱ぎ捨てる。
「約束、覚えていてくれた?」アンネリーゼが言った。
「外の話を、聞かせてくれるって」
「綺麗な世界の話は、あまり知らないと言ったはずですが」
「綺麗じゃなくていいの。あなたが見てきた、外の話が聞きたい」
アンネリーゼは、ベンチの上で少し身を乗り出した。その瞳が、好奇心に輝いている。籠の中の鳥が、外の空気を吸おうとするように。
―――
シューベルトは、少し考えてから、話し始めた。
城下町の話。下層市場の喧騒。露店に並ぶ干し魚や古着。値切りの声。子供たちの駆け回る路地。酒場の賑わい。決して美しい話ではない。むしろ、貧しく、雑然として、時には残酷ですらある世界の話。
だが、アンネリーゼは、目を輝かせて聞いていた。
「市場って、そんなに人がいるのね」
「ええ。朝は特に。歩くのも大変なくらいだ」
「いいなあ。私、人混みって、ほとんど知らないの。城の中はいつも静かで、決まった人としか会わないから」彼女は、足をぶらぶらさせた。令嬢らしからぬ仕草だった。「ねえ、その酒場って、どんなところ?お酒を飲んで、みんなで騒ぐの?」
「ええ。仲間と、よく行きます。うるさいくらいに騒ぐ奴がいて」
「楽しそう」
「楽しいですよ。たいてい、誰かが酔って絡んできて、誰かがそれを止めて、また別の誰かが巻き込まれる」
シューベルトは、アイリーンの絡み酒や、ロバートの喧嘩仲裁の失敗を話した。アンネリーゼは、声を上げて笑った。中庭に、鈴を転がすような笑い声が響く。それは、令嬢の上品な笑いではなく、心から面白がっている、年相応の少女の笑いだった。
「あなたの仲間、素敵ね」アンネリーゼが言った。
「そういう人たちに囲まれて、あなたは生きてきたのね」
「……ええ」
「羨ましい」
その一言に、シューベルトは、あの夜のことを思い出した。お互いに、ないものを羨む。あの夜と、同じ会話を、また繰り返している。
―――
「今度は、あなたの話を聞かせてください」シューベルトは言った。
「城の中は、どんなところなんですか」
アンネリーゼの笑顔が、わずかに陰った。
「……綺麗よ。とても。白い大理石の床に、磨かれた窓。庭には季節の花が、いつも完璧に咲いている。食事は豪華で、衣装も上等で、何不自由ない」
「でも…息苦しい、と」
あの夜、彼女が言った言葉だ。アンネリーゼは、少し驚いたように目を見開き、それから寂しげに微笑んだ。
「覚えていてくれたのね。……ええ、そう。何不自由ないけれど、何も自由がないの。私は、決められた場所で、決められた通りに微笑んで、決められた相手と結ばれる。それが、トマス家の令嬢の務め」
彼女は、空を見上げた。冬の薄い青空に、鳥が一羽、横切っていく。
「私、あの鳥が羨ましい。どこへでも行ける。誰の許しもいらない。……私には、それがないの」
シューベルトは、何も言えなかった。彼女の境遇は、自分とは正反対だ。自分は、どこにも属さず、どこへでも行ける代わりに、何も持っていない。彼女は、すべてを持っている代わりに、どこへも行けない。
「タレス様との、婚約も」アンネリーゼは、静かに続けた。
「私が決めたことではないわ。父と、ホーエン家が決めたこと。トマス家の神獣の加護と、ホーエン家の財力を結びつける、政略よ。私の気持ちは、誰も聞かない」
その声には、諦めが滲んでいた。だが、完全に諦めきってはいない。あの夜、彼女が言ったように——諦めたいと思っても、諦めきれない。だから、こうして、外の話を聞きたがる。
―――
「タレス様は、どんな方なんですか」
シューベルトは、思い切って尋ねた。フクロウの言う「監視」の主。あの、廊下で見た金髪の男。
アンネリーゼは、少し考えてから答えた。
「……優しい方よ。表向きは。いつも穏やかで、私に贈り物をくださって、丁寧に接してくださる」
「表向きは」
「ええ」アンネリーゼは、自分の手元に視線を落とした。
「でも、あの方が私を見る時、私は『アンネリーゼ』として見られていない気がするの。トマス家の令嬢として、神獣の巫女として、政略の駒として……そういうものとして見られている。私自身を見てくれている感じが、しないの」
彼女は、顔を上げて、シューベルトを見た。
「あなたは、違う」
「……俺が?」
「あの夜も、今も。あなたは私を、令嬢としてでも、巫女としてでもなく、ただの一人の人間として見てくれる。だから、話していて、楽なの」
シューベルトの胸が、跳ねた。左胸の拍動とは別の、もっと単純な、人として当たり前の鼓動だった。
「……俺は、ただ」シューベルトは、言葉を探した。
「あなたが、あの夜、城を抜け出してきた少女と、同じ人だと知っているだけです。退屈に耐えられなくて、外の匂いを求めた少女と。だから、令嬢に見えないのかもしれない」
アンネリーゼは、ふっと笑った。
「それでいいの。それが、嬉しいの」
―――
二人は、しばらく、他愛ない話を続けた。
シューベルトが外の世界の話をして、アンネリーゼが城の中の話をする。互いに、自分の知らない世界の話を、夢中になって聞いた。籠の外を知らない鳥と、籠の中を知らない獣。二人は、互いの世界の窓になっていた。
左胸の拍動は、ずっと、静かに脈打っていた。
不思議と、不快ではなかった。アンネリーゼといると、左胸の「何か」が、満たされていくような感覚があった。長い間、別々の場所に閉じ込められていた二つの存在が、ようやく出会えたことを、喜んでいるような。
「ねえ」アンネリーゼが、ふと言った。「この感覚、何だと思う?あなたといると、胸のここが、温かくなるの」
彼女は、自分の胸元に手を当てた。
「俺にも、分かりません」シューベルトは正直に答えた。
「ただ、あなたといると、左胸が……落ち着く。ずっと、何かを訴えるように鳴っていたのが、あなたといると、穏やかになる」
「同じね」
アンネリーゼは、微笑んだ。
「私たち、似た者同士なのかしら。籠の中と、籠の外で、別々に生きてきたけれど」
―――
その時だった。
シューベルトの左胸が、ふと、別の脈を打った。
共鳴ではない。警告のような、ざわめき。シューベルトは、反射的に周囲を見渡した。誰もいない中庭。だが、視線を感じる。どこか高い場所から、こちらを見ている、誰かの視線。
施療院の、二階の窓。
その窓辺に、人影があった。
金髪の、青年。タレス・ホーエン。
彼は、中庭を——シューベルトとアンネリーゼを、じっと見下ろしていた。表情までは、距離があって分からない。だが、その立ち姿には、隠しきれない何かがあった。穏やかさの底に沈んだ、冷たい何か。
シューベルトが気づいたことに気づいたのか、タレスは、ゆっくりと窓辺から姿を消した。
「どうかした?」アンネリーゼが、シューベルトの視線を追った。
「……いえ。何でもありません」
シューベルトは、そう答えた。アンネリーゼを、不安にさせたくなかった。だが、左胸のざわめきは、収まらなかった。
見られていた。
いつから。どこまで。あの男は、二人の何を見ていたのか。
―――
慰問が終わり、アンネリーゼが馬車へ戻る時。
彼女は、シューベルトにだけ聞こえる声で、囁いた。
「今日は、ありがとう。久しぶりに、息ができた気がするわ」
「……またいつでも。警護は、続きますから」
「ふふ、そうね」アンネリーゼは、悪戯っぽく笑った。「警護の名目で、また話を聞かせてもらえるのね。タレス様に、感謝しないと」
その無邪気な一言に、シューベルトは何も返せなかった。彼女は知らない。この警護が、タレスの「監視」であることを。そして今しがた、その当人に、二人の姿を見られていたことを。
馬車が、ゆっくりと動き出した。
帳の隙間から、アンネリーゼの瞳が、いつものように、こちらを見ていた。シューベルトは、その視線を受け止めながら、胸の奥に、二つの相反する感情が渦巻くのを感じていた。
彼女と話せた喜び。
そして、見られていたことへの、不安。
―――
城への帰り道、フクロウが、シューベルトに並んだ。
「タレスが、施療院に来ていた」フクロウは、前を向いたまま言った。「気づいていたか」
「……ああ。二階の窓から、見ていた」
「やはりな」フクロウの声は低かった。「あの男は、お前とアンネリーゼを、わざと近づけている。そして、その様子を観察している。……何のためか、お前には分かるか」
「分からない」
「嫉妬だ」フクロウは、静かに言った。
「いや、まだ嫉妬とまでは言えないかもしれん。だが、その芽だ。タレスは、アンネリーゼを愛している。歪んだ形で。道具としてしか扱えないくせに、誰かに奪われることは、許せない。……お前という存在が、その男の中で、少しずつ何かを刺激し始めている」
シューベルトは、ぞくりとした。
「俺は、何もしていない」
「お前がしているかどうかは、関係ない」フクロウは言った。「タレスがどう感じるかだ。そして、ああいう男の歪んだ感情は、いつか必ず、形になって牙を剥く。……気をつけろ。お前だけじゃない。アンネリーゼも、危うい」
フクロウは、それきり黙った。
シューベルトは、西の空を見上げた。日が、ゆっくりと傾いていく。アンネリーゼの笑顔と、タレスの冷たい視線が、交互に頭をよぎった。
籠の中の鳥と、外を行く獣。
二人が出会ってしまったことは、果たして、幸運だったのか。それとも——。
左胸が、答えの代わりに、静かに、一度だけ脈打った。




