再会
その任務が言い渡されたのは、巡回が一区切りついた翌日のことだった。
「アンネリーゼ様の、警護だと?」
ロバートが、素っ頓狂な声を上げた。バルカスの使者が告げた任務は、それまでの下層市場の巡回とは、明らかに毛色が違っていた。
「左様。トマス辺境伯令嬢アンネリーゼ様が、城下の慰問に赴かれる。その道中の警護を、空の戦士団に一任する」使者は、いつもの感情のない声で続けた。「これは官房長バルカス様、ならびにタレス・ホーエン様のご意向である」
アンネリーゼ。
その名に、シューベルトの記憶が、ざわりと反応した。
どこかで、聞いた名だ。いや——聞いたのではない。あの夜、城の裏門へ続く小路で出会った、フードの少女。彼女を探す騎士たちの声が、確かにその名を呼んでいた。「アンネリーゼ様、どこにおいでですか」と。
まさか。
シューベルトは、胸の奥がざわつくのを感じた。あの少女が、トマス辺境伯の令嬢。そして、タレス・ホーエンの婚約者。
―――
使者が去った後、フクロウだけが、しばらく黙っていた。
「フクロウ?」シューベルトが声をかけると、フクロウは静かに言った。
「……名誉な任務だ。表向きは、な」
「どういう意味だ」
「考えてみろ」フクロウは腕を組んだ。「下層市場の巡回で評価を得た俺たちに、今度は領主令嬢の警護という名誉ある任務が回ってきた。順当な出世に見える。だが、なぜ今、このタイミングなんだ。そして、なぜ、タレス・ホーエンの意向なんだ」
「婚約者の警護を、なぜ準騎士に……」
「そうだ。正規騎士団でも、私兵でもなく、あえて俺たちに回した」フクロウは、わずかに目を細めた。「タレスは、俺たちを近くに置いて、何かを見ようとしている。名誉に見せかけた、監視だ。何のためかは、まだ分からん。だが、ただの善意でないことは確かだ」
シューベルトは、第一話の廊下を思い出した。あの時、バルカスと話していた金髪の男。こちらを見た一瞬の、品定めをするような目。あれが、タレスだったのか。
「気をつけろ」フクロウは、全員を見渡して言った。「この任務、楽な仕事だと思うな。城の中の方が、下層市場より、よほど危険だ」
シューベルトは、頷いた。だが、彼の頭の中にあったのは、タレスの思惑よりも、あの夜の少女のことだった。
あの少女に、また会えるのかもしれない。
―――
慰問の当日は、よく晴れていた。
冬の入り口の、冷たく澄んだ空気。城門の前に、令嬢を乗せる馬車が用意されていた。装飾を抑えた、だが上質な造りの馬車だ。トマス家の紋章——翼を広げた神獣の意匠が、扉に刻まれている。
シューベルトたちは、徒歩で馬車に随行する手筈になっていた。フクロウが前方、ロバートとエドが左右、アイリーンが後方、サラが馬車の近く。シューベルトは、馬車の右側——令嬢が乗り降りする側を担当することになった。
やがて、城の奥から、警護対象が姿を現した。
腰まで届く、金の髪。澄んだ碧い瞳。慰問用の、簡素だが品のある装い。彼女は侍女に付き添われ、背筋を伸ばして、ゆっくりと馬車へと歩いてきた。
その立ち姿は、まぎれもなく、辺境伯の令嬢のものだった。
だが、シューベルトには分かった。
あの夜の、少女だ。
フードを被って、月明かりの下に立っていた、あの少女。今は気品ある令嬢として装っているが、あの碧い瞳は、見間違えようがなかった。
―――
アンネリーゼが、馬車に近づくにつれ、シューベルトの左胸が、静かに、しかし確かに、脈打ち始めた。
あの夜と、同じだ。
彼女が近づくほど、左胸の拍動が強まる。自分の中の「何か」が、彼女の中の「何か」に呼応している。
アンネリーゼが、ふと足を止めた。
彼女もまた、何かを感じ取ったように、シューベルトの方を見た。碧い瞳が、まっすぐにシューベルトを捉える。
その瞬間、彼女の表情が、わずかに動いた。
令嬢としての澄ました顔の下から、あの夜の少女の顔が、ほんの一瞬、覗いた。驚きと、それを上回る——歓喜に似た光。彼女もまた、気づいたのだ。警護に来た「準騎士」が、あの夜の「名もなき剣士」であることに。
だが、彼女はすぐに、令嬢の顔に戻った。周囲には侍女がいる。今は、何も知らないふりをしなければならない。アンネリーゼは、何事もなかったかのように、優雅に馬車へ乗り込んだ。
ただ、乗り込む間際。
シューベルトにだけ見えるように、彼女は、ほんのわずかに微笑んだ。
あの夜と、同じ微笑みだった。
―――
慰問先は、城下の救護院だった。
戦災孤児や、身寄りのない病人を収容する施設だ。トマス家は、こうした施設への慰問を定期的に行っているらしい。領主一族としての務め、というやつだろう。
アンネリーゼが馬車を降り、施設へと入っていく。シューベルトたちは、その周囲を警護しながら付き従った。施設の中では、子供たちがアンネリーゼを取り囲み、彼女は一人ひとりに、優しく言葉をかけていた。
その姿を、シューベルトは少し離れた場所から見ていた。
子供たちに微笑みかける彼女の表情には、作り物ではない温かさがあった。義務でやっているのではない。本当に、この子供たちを気にかけている。膝をついて子供と目線を合わせ、頭を撫で、時には子供の他愛ない話に声を上げて笑う。その笑い方は、令嬢のものというより、年相応の少女のものだった。
「綺麗な人だねえ」隣で、サラがぽつりと言った。
「ああ」
「それに、子供の扱いが上手。あれは、心から好きじゃないとできないやつ」
サラは、こういうことには妙に鋭い。シューベルトは、何も言わずに頷いた。
子供の一人が、アンネリーゼに何か悪戯を仕掛けたらしい。彼女は「まあ!」と大袈裟に驚いてみせ、それから子供を追いかける真似をした。子供がきゃあきゃあと逃げ回り、アンネリーゼが笑う。侍女が「お嬢様、はしたのうございます」と窘めるが、彼女はどこ吹く風だ。
あの夜、城を抜け出してきた少女。退屈に耐えられなくて、外の匂いを求めた少女。その無邪気さは、令嬢の仮面の下に、ちゃんと生きていた。
―――
慰問が終わり、アンネリーゼが施設を出る時だった。
子供の一人が、彼女に小さな花を手渡した。野に咲く、名もない花だ。アンネリーゼはそれを大切そうに受け取り、嬉しそうに微笑んだ。だが、施設の段差を降りる際、彼女の足が、わずかにもつれた。
とっさに、シューベルトの体が動いていた。
アンネリーゼの腕を、支える。倒れる寸前で、彼女の体を受け止めた。
その瞬間。
二人の体が触れた、その一瞬。
シューベルトの左胸が、激しく脈打った。あの夜よりも、さらに強く。まるで、二つの鼓動が、一つに重なろうとするかのように。アンネリーゼもまた、息を呑んで、シューベルトを見上げた。彼女も、感じている。同じものを。
「……失礼、いたしました」
シューベルトは、慌てて手を離した。
「いえ」アンネリーゼは、姿勢を正した。声が、わずかに震えていた。だが、その碧い瞳は、まっすぐにシューベルトを見ていた。
そして、侍女に聞こえないほどの、小さな声で。
「……また、会えたわね。名もなき剣士さん」
シューベルトの息が、止まった。
覚えていた。彼女は、あの夜のことを、覚えていた。
―――
「お怪我は、ありませんか」
シューベルトは、辛うじて、そう返した。令嬢への、警護としての言葉。だが、声が、わずかに上ずっていた。
「ええ。あなたが、助けてくれたから」
アンネリーゼは、令嬢としての受け答えをしながら、その瞳だけは、あの夜の少女のまま、悪戯っぽく輝いていた。
「準騎士に、なられたのね」
「……ええ」
「よかった。光の当たる場所へ、出られたのね」
その一言に、シューベルトは胸を突かれた。あの夜、自分は「どこにも属していない」と言った。泥の中を這いずっているだけだと。彼女は、それを覚えていて、今、自分が少しだけ前へ進めたことを、我がことのように喜んでくれている。
「アンネリーゼ様、お時間が」侍女が、控えめに促した。
「ええ、今行きます」
アンネリーゼは、令嬢の顔に戻り、馬車へと向かった。だが、馬車に乗り込む間際、彼女はもう一度だけ振り返り、シューベルトにだけ聞こえる声で、囁いた。
「約束、覚えてる?もっと外の話を聞かせて、って」
「……覚えています」
「なら、いつか。きっとよ」
彼女は、ふわりと微笑んで、馬車に消えた。
―――
帰りの馬車が、城へと向かう。
シューベルトは、再び馬車の右側を歩いていた。左胸の鼓動は、まだ収まっていない。
馬車の窓の帳が、わずかに開いた。アンネリーゼの瞳が、こちらを見ている。シューベルトも、目を逸らさなかった。二人は、しばらく見つめ合った。言葉はない。ただ、視線だけが、何かを交わしていた。あの夜の続きのような、静かな対話。
やがて、帳が、静かに閉じた。
―――
城門をくぐり、任務が終わった後。
フクロウが、シューベルトの隣に並んで歩いてきた。
「シュー」
「……何だ」
「あの令嬢と、知り合いだったのか」
シューベルトは、息を呑んだ。気づかれていた。フクロウの目は、いつも何でも見ている。
「……一度だけ。あの領地に着いた夜、城下で偶然会った。名前も知らなかった。まさか、彼女が令嬢だとは」
「共鳴だな」フクロウは、前を向いたまま言った。「翼の神獣の巫女と、お前の左胸に宿る何か。二つが、呼び合っている。お前があの夜、城に引き寄せられたのも、それだ」
「お前、知っていたのか」
「お前との付き合いも長いからな」フクロウは、それ以上は語らなかった。だが、その横顔には、何か——昨夜、西の森の地図を見つめていた時と、同じ光が、ほんの一瞬、よぎった気がした。
「気をつけろ、シュー」フクロウは言った。「タレスは、お前とあの令嬢を、近づけようとしている。なぜかは分からん。だが、近づけば近づくほど、お前は危うくなる。……それでも、お前は離れられないだろうな」
「どういう意味だ」
「さあな」
フクロウは、そう言い残して、先へ歩いていった。
シューベルトは、立ち尽くした。
左胸が、まだ、静かに脈打っている。「また会えたわね」と囁いた、あの声。「いつか、きっと」と微笑んだ、あの顔。それらが、頭から離れなかった。
あの夜の約束。もっと外の話を聞かせて、という、他愛ない約束。それが、こんな形で、続いていくとは思わなかった。
もう一度、彼女と、言葉を交わしたい。
それは、警護という任務とも、神獣の共鳴とも、関係のない感情だった。ただ、あの無邪気に笑う少女と、もう一度、ゆっくり話してみたい。シューベルトは、西へ傾き始めた陽を見上げながら、その自分の感情を、静かに持て余していた。
西の空に、薄い雲が、ゆっくりと流れていた。




