研ぎ澄まされる牙
牙は、使わなければ鈍る。だが、研ぎすぎた牙は、いつか自分の口を裂く。組織も、人も、同じだ。鋭くなることは、強くなることであり、同時に、何かを傷つける準備が整うことでもある。空の戦士団は今、静かに研がれていた。誰のために、何のために——それを全員が同じように理解しているわけでは、なかった。
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下層市場の巡回が始まって、ひと月が過ぎた。
季節は秋の終わりに差し掛かり、聖都エリュシオンの朝は、白い息が出るほど冷え込むようになっていた。別館の窓から見える城の尖塔も、薄い霜をまとって、いっそう白く輝いている。
その朝、フクロウは全員を集めて、ひと月の任務を振り返った。
「巡回任務は、来週で一区切りつく。バルカスからの正式な総括はまだだが、感触は悪くない」
フクロウは、手元の覚書を見ながら淡々と告げた。
「この一ヶ月で、下層区画の小競り合いは目に見えて減った。不正な取り立ても、サラの治療場のおかげで、住民の俺たちへの信頼も増している。数字の上では、十分な成果だ」
「やったじゃない!」アイリーンが拳を突き上げた。「あたしたち、ちゃんと役に立ってるってことでしょ」
「役には立っている」フクロウは頷いた。
「だが、喜ぶのはまだ早い」
その一言で、部屋の空気が少し引き締まった。
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「成果が出れば出るほど、ある問題が深まる」フクロウは続けた。
「正規騎士団との、溝だ」
シューベルトは、思い当たることがあった。
この一ヶ月、下層区画で正規騎士と顔を合わせる機会が何度かあった。第六話の不正取り立ての一件以来、正規騎士たちの態度は、明らかに冷ややかになっていた。すれ違っても挨拶もなく、時には聞こえよがしに「傭兵上がりが」と吐き捨てられることもある。
「俺たちが成果を上げるほど、正規騎士団は面白くない」フクロウは言った。「自分たちが手を出さなかった——いや、出したくなかった場所で、準騎士風情が手柄を立てている。連中のプライドが、それを許さない」
「実際、あいつらがサボってた場所だろ」ロバートが鼻を鳴らした。「文句を言われる筋合いはねえ」
「筋合いの問題じゃない」フクロウの声は冷静だった。「組織というのは、正しさで動かない。面子と利害で動く。俺たちが正しくても、連中の面子を潰せば、報復が来る。それも、正面からではない、陰湿な形で」
「報復って、たとえば?」アイリーンが聞いた。
「分からん。だが、来る。それだけは確かだ」
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フクロウの言葉は、漠然とした不安を残した。
だが、その日の巡回は、いつも通り平穏に終わった。報復の気配は、まだない。シューベルトは、フクロウが心配しすぎているのかもしれない、と思った。
夜、別館の自室で、シューベルトはなかなか寝つけなかった。
ふと、喉が渇いて、水を飲みに部屋を出た。別館の廊下は、夜になると人気がなく、しんと静まり返っている。魔法灯の薄明かりだけが、石の床を照らしていた。
その時、シューベルトは気づいた。
フクロウの姿が、ない。
仲間の寝床を確認したわけではない。だが、廊下の奥、フクロウがいつも一人で書類を読んでいる小部屋に、明かりが灯っていた。こんな夜更けに。
シューベルトは、何気なくそちらへ足を向けた。声をかけるつもりだった。眠れないなら、少し話でもしようかと。
小部屋の扉は、わずかに開いていた。
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扉の隙間から、シューベルトは中を見た。
フクロウは、机に向かっていた。だが、いつも読んでいる任務の書類ではなかった。広げられていたのは、一枚の地図だった。聖都周辺の地図——ではない。もっと西の、辺境のさらに奥。魔族の領域に近い、西の森の一帯を描いた地図だ。
フクロウは、その地図の一点を、じっと見つめていた。
そして、地図の上には、いくつかの走り書きがあった。シューベルトの位置からは、文字までは読めない。だが、フクロウが何かを印で結び、線を引き、書き込んでいるのが見えた。まるで、何かの動きを追っているかのように。
魔族の、動向。
フクロウが独自に魔族のことを調べている——その考えが、ふと頭をよぎった。だが、なぜ。巡回任務とは何の関係もない。西の森は、準騎士団の管轄ですらない。
フクロウの横顔は、いつもと違っていた。
仲間といる時の、どこか余裕のある、すべてを見透かしたような顔ではない。もっと、何かに取り憑かれたような、冷たく、鋭い顔だった。地図を見つめるその目には、シューベルトの知らない光が宿っていた。執念にも、渇望にも見える光。
シューベルトは、声をかけられなかった。
―――
なぜか、かけてはいけない気がした。
今のフクロウは、シューベルトの知っているフクロウではないような気がした。いや——これも、フクロウなのだ。ただ、シューベルトが今まで見たことのない側面の、フクロウ。
その時、フクロウの手が止まり、ふと顔を上げた。
シューベルトは、とっさに身を引いた。気配を消して、廊下の壁に背をつける。心臓が、妙に速く打っていた。なぜ自分が隠れるのか、よく分からなかった。やましいことは何もない。ただ、見てはいけないものを見た、という感覚だけが、はっきりとあった。
しばらくして、小部屋の明かりが消えた。
フクロウが出てくる気配がした。シューベルトは、足音を立てずに自室へ戻った。寝床に潜り込み、目を閉じる。だが、眠気は完全に飛んでいた。
西の森の地図。
魔族の動向を追う、走り書き。
取り憑かれたような、フクロウの目。
それらが、頭の中をぐるぐると回っていた。フクロウが何かを隠している。それは、薄々感じていたことだった。この団長には、語らない部分がある。誰にも見せない顔がある。だが、それが「魔族」と結びついていることに、シューベルトは初めて気づいた。
なぜ、フクロウは魔族を調べているのか。
答えは、出なかった。
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翌朝、フクロウはいつも通りだった。
昨夜のことなど、まるでなかったかのように、淡々と朝の指示を出し、仲間たちと軽口を交わし、巡回の段取りを整えていた。シューベルトは、その顔を見ながら、昨夜見たものが幻だったのではないかと思いそうになった。
だが、幻ではない。
シューベルトは、昨夜のことを誰にも言わなかった。フクロウにも、仲間にも。なぜ言わないのか、自分でもうまく説明できなかった。ただ、言うべきではない、という直感があった。
フクロウには、フクロウの事情がある。サラに語らない過去があるように。エドに語らない傷があるように。フクロウにも、語らない何かがある。それを暴くのは、今ではない。
そう、自分に言い聞かせた。
だが、左胸の奥が、かすかに疼いていた。それは、いつもの拍動とは違う。警告のような、不安のような、名前のつけられない感覚だった。神獣が、何かを感じ取っているのかもしれない。シューベルトには、それが何なのか、分からなかった。
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その同じ朝、城の本館。
高い窓から朝の光が差し込む、優美な一室で、一人の男が紅茶を口に運んでいた。
金髪に、碧い目。仕立ての良い外套。タレス・ホーエンは、窓の外を眺めながら、向かいに座る男——バルカスに、穏やかな声で語りかけていた。
「空の戦士団。なかなか、評判がよろしいようですね」
「は」バルカスは、相変わらず感情のない声で答えた。「下層区画の巡回において、想定以上の成果を上げております。住民からの信頼も厚く」
「結構なことです」タレスは微笑んだ。「優秀な人材は、適切に用いるべきだ。せっかくの才能を、下層市場の巡回などに留めておくのは、もったいない」
「と、おっしゃいますと」
「彼らに、もっと名誉ある任務を与えてはいかがでしょう。たとえば——そう」
タレスは、ティーカップを静かに置いた。その所作には、生まれながらの優雅さがあった。
「我が婚約者、アンネリーゼ嬢の警護など。彼女は近く、城下へ慰問に出る予定がある。その警護を、評判の戦士団に任せれば、彼らにとっても名誉でしょう」
バルカスは、わずかに眉を動かした。
「……アンネリーゼ様の警護を、準騎士に?」
「ええ。実力ある者に任せたいのです。婚約者の安全ですから」
タレスの口元は、穏やかに微笑んでいた。だが、その碧い目は、笑っていなかった。窓の外、別館の方角を、まるで何かを値踏みするように、じっと見つめていた。
「あの黒髪の青年——シューベルト、と言いましたか。彼に、特に」
「は?」
「いえ。優秀な者は、近くで見ておきたいものですから」
タレスは、再び紅茶を口に運んだ。
その横顔には、何の害意も浮かんでいなかった。ただ、穏やかで、親切で、優雅な貴族の顔。だが、その親切さの底に、何かが沈んでいた。それが何なのか、この場にいるバルカスにも、分からなかった。
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別館では、シューベルトたちが巡回の支度を整えていた。
「今日も寒いなあ」アイリーンが両手をこすり合わせた。「早く終わらせて、温かいスープ飲も」
「お前は食うことばっかりだな」ロバートが笑った。
「食べることは生きることだもん!ねえサラ?」
「うん。空腹は治せない傷だからね」サラが、こないだの台詞を繰り返してくすくす笑った。
エドは黙って投剣の本数を確認し、フクロウは覚書を懐にしまっている。いつもの、何でもない朝の光景だった。
シューベルトは、その輪の中にいながら、ふと、昨夜のフクロウの横顔を思い出していた。
研ぎ澄まされていく、この戦士団。
評価が上がり、力をつけ、信頼を得て。だが、その牙は、いったいどこへ向かおうとしているのか。フクロウは、何を見ているのか。そして、城の上の方では、自分たちの知らないところで、何かが動き始めているのではないか。
左胸が、また、かすかに疼いた。
シューベルトは、それを押さえて、空を見上げた。
西の空に、薄い雲が、ゆっくりと流れていた。その雲の向こう——遥か西の森に、何かが潜んでいるような、奇妙な予感がした。




