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空の戦士団  作者: 葱狸
2章

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サラの診療所

手当てをするという行為は、奇妙なものだ。傷を治しても、傷を負わせた世界は変わらない。明日もまた、同じ傷を負って同じ場所に倒れる者がいる。それでも、目の前の傷に手を伸ばさずにはいられない者がいる。サラは、そういう人間だった。理屈ではない。手が、勝手に動いてしまうのだ。


―――


最初に異変に気づいたのは、巡回からの帰り道だった。


その日、シューベルトはフクロウ、アイリーンと組んで中区画を回っていた。残りの三人——ロバート、サラ、エドは表区画の担当だ。城へ戻る坂の途中で、シューベルトはふと、サラの姿が一行にいないことに気づいた。


「サラは?」


「ああ、サラなら先に行くって」ロバートが頭を掻いた。


「ちょっと寄るところがあるとかでな。エドが付き添ってる」


「寄るところ?」


「さあな。女の買い物だろ。俺は詮索しねえ主義だ」


ロバートはそう言って胸を張ったが、シューベルトには、どうも引っかかった。サラが巡回の後に単独で動くのは珍しい。エドが付き添っているというのも、妙だ。


その夜、サラは夕食の時間になっても戻らなかった。


戻ってきたのは、すっかり日が暮れてからだった。エドと二人、疲れた顔で別館の扉をくぐった。サラの杖の先が、わずかに魔力で発光した残滓を帯びている。シューベルトは、それを見逃さなかった。


「サラ。魔法を使ったのか」


サラの肩が、びくっと跳ねた。


―――


「……えっと、その」


サラが、珍しく言葉に詰まった。いつものふんわりした調子が、影をひそめている。


助け舟を出したのは、エドだった。


「俺が話す」エドが低く言った。「サラは、下層市民の治療をしてる。無許可で。三日ほど前から」


部屋の空気が、変わった。


ロバートが眉を寄せ、アイリーンが「治療?」と聞き返した。フクロウは何も言わず、ただサラを見ている。


「説明してくれ、サラ」シューベルトが言った。咎める口調にはしなかった。ただ、事情を知りたかった。


サラは、観念したように小さく息をついた。それから、いつものおっとりした口調を取り戻して、ぽつぽつと語り始めた。


「あのね、巡回してると、いっぱい見るの。怪我した人とか、病気の人とか。下層には、お医者さんがいないでしょう。いても、お金がなくて診てもらえない。だから、みんな、治らないまま放っておくしかないの」


サラは、自分の杖をそっと撫でた。


「私、光の魔法が使える。治せるのに、見て見ぬふりするのは……なんか、違う気がして。だから、ちょっとだけ。空き家を借りて、そこで」


「ちょっとだけ、じゃないだろ」エドが訂正した。「もう三十人近く診てる。今日だけで八人だ」


「エドくん、ばらさないで!」


「事実だ」


―――


「サラ」フクロウが、静かに口を開いた。「無許可の回復魔法行使が、何を意味するか分かっているな」


サラの表情が、わずかに引き締まった。


「……はい」


帝国において、治癒魔法の行使には許可がいる。治療に関する魔法は、神聖国の教義とも絡んで、厳しく管理されている。資格を持たない者が、無許可で、しかも組織的に治療を行うことは、明確な違反だ。発覚すれば、罰せられる。下手をすれば、せっかく得た準騎士の地位すら失いかねない。


それを、サラが知らないはずがなかった。


「分かってて、やってたのか」シューベルトが聞いた。


「うん」


サラは、まっすぐにシューベルトを見た。いつものぼんやりした目ではない。芯の通った、静かな目だった。普段はふわふわしているこの少女が、こういう目をする瞬間があることを、シューベルトは知っている。戦場で、傷ついた仲間に手を伸ばす時の目だ。


「分かってて、やってた。怒られるのも、分かってる。でも……止められなかったの。目の前で、子供が熱を出して苦しんでるのを、私は治せるのに、許可がないから治しちゃいけませんって、言えなかった」


サラは、少しだけ俯いた。


「私ね、昔……」


言いかけて、止まった。


その先を、サラは言わなかった。シューベルトも、聞かなかった。フクロウも、ロバートも、誰も聞かなかった。サラには、語らない過去がある。それは戦火の子供を前にした時にだけ、ふと滲み出る陰だ。今もまた、その陰が、言葉の手前で揺れていた。


「……とにかく」サラは顔を上げ、また笑った。少し無理のある笑顔だった。「ごめんなさい。みんなに迷惑かけるかもしれない。やめた方がいいのは、分かってるんだけど」


―――


沈黙が、落ちた。


最初に口を開いたのは、アイリーンだった。


「やめなくていいよ」


全員が、アイリーンを見た。


「だってさ、サラは間違ったことしてないでしょ。困ってる人を助けただけじゃない。それが罪になるなんて、そんなの法律の方がおかしいよ」


「アイリーン」シューベルトが言いかけた。


「あたしは、サラの味方。何があっても」アイリーンは腕を組んで、きっぱりと言った。「もし誰かがサラを責めるなら、あたしがそいつをぶっ飛ばす」


単純で、まっすぐな言葉だった。だが、その単純さが、今は救いだった。サラの表情が、ほんの少し緩んだ。


「でもなあ」ロバートが腕を組んだ。「気持ちは分かるが、無許可ってのが厄介だ。準騎士のサラが捕まったら、戦士団全体に傷がつく。最悪、全員が連帯責任を問われる。サラ一人の問題じゃ済まねえ」


「……それは」アイリーンが言葉に詰まった。


ロバートの言うことも、正しかった。準騎士という立場は、まだ脆い。一つの違反が、全員の積み上げてきたものを崩しかねない。サラの善意は本物だが、その善意が、仲間全員を危険に晒す可能性がある。


善意と、立場。どちらも切り捨てられない。第三話の、あの少年の窃盗を見た時と同じ構図だ。正しさが、一つではない。


シューベルトは、しばらく考えた。


―――


「フクロウ」シューベルトは、団長を見た。


「どうにかできないか」


フクロウは、腕を組んで壁にもたれていた。しばらく目を閉じていたが、やがて口を開いた。


「方法は、ある」


全員が、フクロウに注目した。


「無許可だから問題になる。なら、許可を取ればいい」


「許可なんて、簡単に下りるのか?」ロバートが聞いた。


「正面から治療魔法の許可を申請すれば、まず通らない。神聖国の教義が絡む。審査だけで何ヶ月もかかる」フクロウは淡々と続けた。


「だが、抜け道はある。準騎士団の任務として、『下層区画の衛生状態の調査』を名目に申請する。調査の過程で応急処置を行うのは、任務の一環だ。治療魔法ではなく、あくまで巡回任務に付随する救護行為。……これなら、バルカスの裁量で通せる」


「そんな都合よくいくのか」


「いく。バルカスは、下層区画の問題を正規騎士団に押し付けたがっている。俺たちが『調査して報告する』と言えば、喜んで許可を出す。あの男にとっては、面倒事を体よく外注できる話だからな」


フクロウは、薄く笑った。例によって、正面からではない。制度の隙間を縫って、目的だけを通す。第六話で正規騎士を退けた時と、同じやり方だった。


「ただし」フクロウは、サラを見た。「条件がある。サラ一人ではやらせない。必ず、誰かを付ける。記録もつける。あくまで『任務』として、形を整える。……お前の善意を、お前一人の罪にはさせない。それが団としてやる、ということだ」


サラの目が、潤んだ。


「……はい」


―――


翌日、フクロウはバルカスに申請を出した。


フクロウの読み通り、許可はあっさり下りた。バルカスは「下層区画の衛生調査」という名目に何の疑いも持たず、むしろ「正規騎士団に頼らず自分たちで処理する」という姿勢を歓迎すらした。書類の上では、それは立派な準騎士団の公務になった。


こうして、サラの「診療所」は、非公式から公式へと姿を変えた。


空き家を借りた小さな治療場には、看板こそ出ていないが、下層の住民たちが少しずつ訪れるようになった。熱を出した子供、傷の膿んだ労働者、栄養失調の老人。サラは一人ひとりに、丁寧に手を当てた。


付き添いは、日替わりで誰かが務めた。


その日は、シューベルトだった。


サラが治療をする横で、シューベルトは記録をつけ、訪れる住民の整理をする。サラの手つきを見ていると、改めて感心する。普段のふわふわした様子からは想像できないほど、治療中のサラは的確だった。傷を一目で見抜き、迷いなく処置する。子供をあやす言葉も、痛みを和らげる手順も、すべてが滑らかだった。


「サラ、お前、本当に医者みたいだな」


「えへへ。医者じゃないよ。ただの、お手伝い」


「謙遜するな。大したもんだ」


「そんなことないよ。……あのね」


サラは、子供の腕に包帯を巻きながら、ぽつりと言った。


「治せる傷って、すごく少ないの。私が治せるのは、体の傷だけ。心の傷とか、お腹が空いてることとか、明日のご飯がないこととか……そういうのは、治せない。だから、これは気休めなの。本当はね」


その声に、いつもの軽さはなかった。


「それでも、やるんだな」シューベルトが言った。


「うん。気休めでも、目の前の痛いのが少しでも楽になるなら。……それくらいしか、できないから」


―――


夕方、最後の住民を見送った後、サラは小さく伸びをした。


「ふー、今日も終わり。シュー、付き添いありがとね」


「ああ」


「あのね、シュー。一つだけ、言ってもいい?」


「なんだ」


サラは、片付けをしながら、こちらを見ずに言った。


「私が、ここまでするのね。たぶん、昔の私が、誰にも治してもらえなかったからだと思う」


シューベルトは、手を止めた。


それが、サラが自分の過去について口にした、初めての言葉だった。詳しくは、何も言わない。誰に、何を、どう治してもらえなかったのか。それは語らない。ただ、その一言だけを、夕暮れの治療場に、そっと置いた。


「……そうか」


シューベルトは、それだけ言った。


深くは聞かない。サラが語りたいのは、それだけなのだ。語らない部分は、語らないまま、抱えていく。それがサラのやり方であり、シューベルトはそれを尊重した。


「うん。それだけ。聞いてくれてありがとう」


サラは、いつものふんわりした笑顔に戻った。だが、その笑顔の奥に、確かに何かが沈んでいるのを、シューベルトは見た気がした。語られない過去。治してもらえなかった、誰かの傷。


治療場の窓から、夕日が差し込んでいた。


オレンジ色の光の中で、サラは鼻歌を歌いながら、薬包を片付けている。さっきまでの陰は、もうどこにもない。ふわふわと、いつものサラだ。


左胸が、静かに脈打っていた。


守る、ということには、いくつもの形がある。シューベルトは剣で守る。サラは手当てで守る。エドは孤児を恨みから救う。フクロウは制度の隙間を縫って、必要なものを流す。形は違っても、根っこは同じだ。


誰かを、見捨てたくない。


ただ、それだけのことなのだ。


「シュー、帰ろ。お腹空いちゃった」


「お前はいつも腹を空かせてるな」


「治せない傷の代表格だよ、空腹は」


「うまいこと言うな」


二人は、夕暮れの下層区画を後にした。明日もまた、誰かがこの治療場を訪れるだろう。終わりのない仕事だ。だが、終わらないからこそ、続ける意味がある。


その意味を、シューベルトは、少しずつ理解し始めていた。

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