エドの仕事(後編)
その夜、シューベルトはエドが砥石を動かしているところに、そっと近づいた。
しゃっ、しゃっ、という規則正しい音。エドが考え事をしているサインだ。他の仲間はもう寝静まっている。ロバートの大きな寝息と、アイリーンの寝言が、時折聞こえてくるだけだ。フクロウだけが、窓辺で何かの書類に目を通していた。
シューベルトは、エドの隣に腰を下ろした。
「昼間の、あの子供たちのことだが」
エドの手が、止まった。
「お前が探してる『ある子供』ってのは、誰なんだ」
エドは、しばらく答えなかった。砥石を脇に置き、研いでいた短剣を鞘に戻す。その動作が、いつもより少し遅かった。
「……うまく、言えない」
「言えない?」
「探してるのが、誰なのか。俺にも、よく分からないんだ」
エドは、自分の手のひらを見つめた。
―――
「俺は、捨て子だった」
ぽつりと、エドが言った。
その話は、仲間うちでは何となく知られている。だがエド自身の口から聞くのは、初めてだった。シューベルトは、黙って耳を傾けた。
「物心ついた時には、孤児院みたいな場所にいた。教会が細々とやってる、貧乏な施設だ。親の顔も覚えてない。捨てられたんだと思ってた。ずっと、恨んでた。顔も知らない親を」
しゃっ、と、エドはもう一度だけ砥石に触れたが、研ぎはしなかった。ただ、指先で表面をなぞった。
「でも、後で知った。施設にいた婆さんが、教えてくれた。俺の親は、俺を捨てたんじゃなかった」
エドの声は、淡々としていた。感情を込めまいとしている、というより、込め方を知らない、という響きだった。
「母親は、俺を生かすために、自分の食う分を全部俺に回して、痩せ細って死んだ。父親は、魔族との戦いで死んだ。辺境の、名もない兵卒として。……二人とも、俺を守ろうとして死んだ。捨てたんじゃなかった」
シューベルトは、何も言わなかった。
「それを知った時、俺は——」エドは、言葉を切った。「もう、遅かった。恨んでた相手は、最初から俺を愛してた。謝ることも、礼を言うこともできない。とっくに、死んだ後だった」
窓辺のフクロウは、書類から目を上げない。だが、聞いているのは分かった。この男は、いつも聞いている。
―――
「だから、あの子供たちか」シューベルトが言った。
エドは、小さく頷いた。
「あの貧民街の子供の中に、俺みたいな奴がいる。親に捨てられたと思って、恨んでる奴が。……だから、探してる」
「特定の、誰かじゃないのか」
その問いに、エドはしばらく黙ってから、ゆっくりと答えた。
「……最初は、誰かを探してるつもりだった。でも、違ったんだ。気づいたんだ。俺が探してるのは、特定のだれかじゃない」
エドは、顔を上げた。その目は、いつもより少しだけ、揺れていた。
「俺みたいな目をしてる子供を、探してる。捨てられたと思い込んで、世界を恨んでる目だ。……あの目をしてる奴を見つけたら、教えてやりたい。お前は捨てられたんじゃないかもしれない、って。確かめもしないで恨んだまま生きるのは、つらいぞって」
しゃっ、と、エドの指が砥石を撫でた。
「それは、一人じゃない。何人もいる。だから、終わらない。一人見つけて教えてやっても、また次がいる。……たぶん、ずっと終わらない」
「それでも、続けるのか」
「ああ」
即答だった。
「俺は、手遅れだった。親に何も返せなかった。でも、あの子供たちは、まだ手遅れじゃないかもしれない。一人でも、恨んだまま死ぬのを止められたら……それで、いい」
―――
シューベルトは、しばらく言葉を探した。
うまい言葉は、見つからなかった。慰めも、励ましも、エドには似合わない。だから、ただ思ったことを口にした。
「いい仕事だ」
エドが、シューベルトを見た。
「立派とか、偉いとか、そういうことじゃなくて。……いい仕事だと思う。お前にしかできない仕事だ」
エドは、何も言わなかった。だが、その横顔から、ほんの少しだけ、強張りが抜けた気がした。
「手伝うか」シューベルトが言った。
「……いや」
エドは、即座に断った。
「これは、俺の仕事だ。一人でやる。シューが来たら、子供が警戒する。あいつらは、大人数を怖がる」
「そうか」
「でも」エドは、ほんの少し間を置いた。「……パンの数が足りない時は、言う。その時は、頼む」
シューベルトは、頷いた。
「ああ。いつでも言え」
―――
その時、窓辺のフクロウが、ぽつりと言った。
「エド」
「……何だ」
「明日、財務官房に余剰物資の払い下げ申請を出す」
エドが、フクロウを見た。フクロウは書類から顔を上げず、淡々と続けた。
「期限切れ間近の保存食が、毎月かなりの量、廃棄されている。城の倉庫で、ただ腐らせているだけだ。準騎士の遠征用備蓄という名目なら、申請が通る。……余ったら、どう使おうと、俺たちの自由だ」
「……」
「廃棄される食料を、誰が食おうと、城は気にしない。子供が食おうが、犬が食おうが、同じことだ。使えるものは、使え」
短い沈黙の後、エドが言った。
「……恩に着る」
「礼はいらない。事務手続きだ」
フクロウは、それきり書類に目を戻した。
シューベルトは、その横顔を見た。フクロウは、いつもこうだ。誰にも気づかれない形で、必要なものを必要な場所に流す。正面から「子供を助けよう」とは言わない。あくまで事務手続きとして、感情を一切見せずに、ただ仕組みだけを整える。
それが優しさなのか、計算なのか、シューベルトには分からなかった。
おそらく、その両方だ。そしてフクロウという男は、その二つを分けて考えない。優しさと計算が、同じ一つの動作の中に溶けている。それがこの団長の、底の知れなさだった。
―――
数日後。
エドが、いつものように貧民街へ向かう支度をしていた。背負った袋は、いつもより大きく膨らんでいる。フクロウの払い下げた保存食が、たっぷりと詰まっていた。
「エド」
出ていこうとするエドを、アイリーンが呼び止めた。
ばれていた。あの夜の話を、アイリーンもロバートも、いつの間にか知っていた。狭い別館で、隠し事は長くもたない。
「あたしも行く!」アイリーンが言った。
「来るな。子供が警戒する」
「えー」
「大人数は、怖がられる」
「じゃあ、これ持ってって」
アイリーンが差し出したのは、布の包みだった。中身は、こないだサラが買い込んだ干し菓子だ。
「子供、甘いもの好きでしょ。パンばっかりじゃ味気ないし」
エドは、その包みをじっと見た。それから、無言で受け取って、袋に押し込んだ。
「……行ってくる」
「いってらっしゃーい」
エドが出ていった後、ロバートがにやりと笑った。
「あいつ、最近ちょっと喋るようになったよな」
「そうか?」シューベルトが言った。
「ああ。前は『……』ばっかりだったぞ。今は『……行ってくる』だ。一語増えた」
「それは増えたって言わない」
サラが、くすくす笑った。「でもね、エドくん、嬉しそうだったよ。干し菓子もらった時」
「嬉しそう?あの無表情が?」アイリーンが目を丸くした。
「うん。眉が、ほんのちょっとだけ下がってた。あれは、嬉しい時の顔」
サラは、こういうことには妙に鋭い。普段はぼんやりしているくせに、人の表情の機微を、ふと正確に言い当てる。シューベルトは、サラのそういうところを、密かに信頼していた。
―――
その夜、エドは遅くに戻ってきた。
袋は、空になっていた。配りきったのだろう。エドは黙って自分の寝床に戻り、いつものように砥石を取り出した。
しゃっ、しゃっ、という音が、夜の別館に響く。
シューベルトは、寝たふりをしながら、その音を聞いていた。
今夜の砥石の音は、いつもと同じだった。規則正しく、淡々として、無表情で。だが、その音の奥に、ほんのわずかな何かが滲んでいる気がした。それが何なのか、シューベルトにはうまく言えない。満足、とも違う。安らぎ、とも違う。
たぶん、それは——「続けていく」という、静かな決意のようなものだ。
手遅れだった少年が、手遅れになる前の子供たちのために、夜の貧民街を歩き続ける。終わりのない仕事だ。報われるとも限らない。それでもエドは、やめないだろう。
左胸が、静かに、温かく脈打っていた。
その拍動は、エドの砥石の音と、どこか重なっているような気がした。誰かを守りたいという意志。形は違っても、根っこは同じだ。シューベルトは目を閉じ、その二つの音を聞きながら、眠りに落ちていった。
探しているのが誰なのか、エドはもう、迷っていなかった。
自分のような目をした、すべての子供。それを一人ずつ、恨みから救い出していく。
気の遠くなるような仕事を、この無口な少年は、たった一人で背負うと決めていた。




