迷子と古傷
その日の巡回は、シューベルト、サラ、エドの三人だった。
担当は中区画。古着や廃品を扱う露天が並ぶ、表区画よりも雑然とした一角だ。午前の光は屋根に遮られて届きにくく、通りはどこか薄暗い。それでも人の往来はそれなりにあり、値切りの声や荷車の軋みが、絶え間なく響いている。
「ねえエド、あれ何だと思う?」
サラが、ある露天を指さした。布の上に、得体の知れない金属の塊が並んでいる。歯車のようにも、壊れた何かの部品のようにも見える。
エドは無言で一瞥し、「がらくた」と一言だけ言った。
「えー、でも何かに使えそうじゃない?」
「使えない」
「夢がないなあ、エドは」
サラがくすっと笑った。エドは何も言わず、また前を向いて歩く。この二人のやりとりは、いつもこんな調子だ。サラが何かを言い、エドが最小限の言葉で返す。それでも会話として成立しているのが、シューベルトには少し面白かった。エドが言葉を返す相手は、限られている。その数少ない相手の一人が、サラだった。
「シューはどう思う?あれ」
「……がらくただな」
「二人とも夢がない!」
サラが頬を膨らませた。シューベルトは小さく肩をすくめた。こういう何でもないやりとりが、今は妙に心地よかった。
その時だった。
通りの隅で、小さな泣き声が聞こえた。
―――
声の主は、五、六歳ほどの女の子だった。
古着屋の露天の陰に座り込み、膝を抱えて泣いている。周りの大人たちは気にも留めず通り過ぎていく。下層市場では、泣いている子供など珍しくもない。誰かが立ち止まって構ってやる余裕など、この区画の人々にはなかった。
サラが真っ先に駆け寄った。
「どうしたの?迷子になっちゃった?」
女の子はびくっと肩を震わせ、サラを見上げた。涙でぐしゃぐしゃの顔。だが、サラの優しい声に、少しだけ警戒が緩んだ。
「……おかあさんが、いない」
「お母さんとはぐれちゃったのね。大丈夫、一緒に探そう。お姉ちゃんたちが手伝うから」
サラは女の子の目線までしゃがみ、そっと頭を撫でた。女の子はまだしゃくり上げていたが、サラの手にだんだんと落ち着きを取り戻していった。
シューベルトは周囲を見渡した。母親らしき人物の姿はない。
「名前は言えるか?」シューベルトが聞いた。
「……リル」
「リルか。いい名前だな。お母さんの名前は?」
「……おかあさん」
「そうだよな」
幼い子供にとって、母親は「おかあさん」だ。名前など知らない。シューベルトは小さく息をついた。これは少し時間がかかりそうだ。
「エド、市場の入り口の方を見てきてくれ。子供を探してる大人がいるかもしれない」
エドは無言で頷き、人混みの中に消えていった。こういう時、エドの動きは速い。気配を消して人波を縫い、見落としなく観察してくる。先行偵察はこの少年の得意分野だ。
―――
エドが戻ってくるまでの間、サラはリルをあやし続けていた。
「リルちゃんは、お母さんと何しに来たの?」
「……おふるぎ、かいにきた」
「お古着を買いに来たのね。寒くなるもんね、もうすぐ」
サラはリルの服を見た。継ぎ接ぎだらけの、薄い服だ。袖は短く、丈も足りていない。成長に服が追いついていないのだろう。下層市場で古着を買うというのは、そういうことだ。
「リルちゃん、お父さんは?お父さんも一緒に来た?」
その瞬間、リルの顔が、ふっと曇った。
「……おとうさんは、いない」
「お留守番してるの?」
「ちがう。……しんだの。せんそうで」
サラの手が、一瞬止まった。
シューベルトも、動きを止めた。
リルは、それを特別悲しそうに言ったわけではなかった。むしろ淡々と、当たり前のことのように口にした。それがかえって、胸に刺さった。この子にとって、父親が戦争で死んだことは、もう「泣くこと」ですらないのだ。日常の一部として、すでに受け入れてしまっている。
戦争。
辺境では、当たり前の言葉だ。魔族との終わりのない消耗戦。傭兵も、正規兵も、領主の私兵も、毎日のように誰かが死んでいる。その「誰か」には、リルの父親のような、名もなき一兵卒も含まれている。そして残されるのは、こうして古着を買いに来る、痩せた子供たちだ。
―――
サラは何も言わず、ただリルを抱きしめた。
「……寒くないように、あったかい服が見つかるといいね」
リルは、こくりと頷いた。
その時、サラがリルの腕に気づいた。袖からのぞく細い腕に、古い傷跡があった。火傷の跡のようにも、何かに擦りむいた跡のようにも見える。
「これ、どうしたの?」
「……おうちが、もえたとき」
サラの表情が、わずかに陰った。だが彼女はすぐに、いつもの柔らかな顔に戻すと、懐から小さな軟膏の包みを取り出した。普段、巡回中の擦り傷に使うためのものだ。
「ちょっとだけ、塗らせてね。すぐ終わるから」
サラは慣れた手つきで、リルの古い傷跡にそっと軟膏を塗った。傷はもう塞がっているから、治療というより、まじないのようなものだ。それでもサラの指先は丁寧で、優しかった。
シューベルトは、その光景を黙って見ていた。
サラは、自分の過去をほとんど語らない。出身も、家族のことも、戦士団に加わる前のことも。だが、戦火で傷ついた子供を前にした時のサラの表情には、何か個人的なものが滲んでいた。きっと彼女自身も、似たような何かを抱えているのだろう。それを今、口にするつもりはないのだとしても。
シューベルトは、聞かなかった。
仲間には、聞かない方がいいこともある。フクロウがそうであるように。サラもまた、語らない過去を持っている。それでいい。今、目の前のリルに優しくできるなら、過去が何であれ、それでいい。
―――
しばらくして、エドが戻ってきた。
後ろに、青ざめた顔の女性を連れている。リルの母親だった。
「リル!」
「おかあさん!」
リルが弾かれたように立ち上がり、母親に駆け寄った。母親はリルを抱きしめ、何度も「ごめんね、ごめんね」と繰り返した。人混みではぐれてしまい、必死に探していたのだという。
母親はサラたちに、何度も頭を下げた。
「準騎士様が、こんな……。本当に、ありがとうございます」
「いえ、私たちは何も。この子が頑張って待ってたんですよ」サラが微笑んだ。
「それと、これ」
サラは軟膏の包みを、母親の手に握らせた。
「リルちゃんの腕の傷に。もう塞がってるけど、乾燥すると痒くなるから。塗ってあげてください」
母親は包みを握りしめ、また深く頭を下げた。リルはサラに向かって、小さく手を振った。
「おねえちゃん、ありがとう」
サラは手を振り返した。母子が人混みに消えていくまで、ずっと。
―――
二人の姿が見えなくなった後、エドがぽつりと言った。
「……すぐ見つかった。母親の方も、必死で探してた」
「お手柄だな、エド」シューベルトが言った。
エドは何も答えなかった。だが、その横顔は、どこか落ち着かなげだった。
「エド、どうした」
「……いや」
エドは少し間を置いてから、低い声で続けた。
「あの子は、母親が探しに来た。……探しに来てくれる親がいる子は、いい」
それきり、エドは口を閉じた。
シューベルトは、何も言わなかった。エドが捨て子だったこと、親に捨てられたと思って育ったことは、仲間うちでは知られている。母親が必死に探していたあの光景は、エドにとって、自分が持てなかったものだったのかもしれない。
だが、シューベルトはそれを口にしなかった。サラも、ただ静かにエドの隣に立っていた。
その時、リルの母親が言った言葉が、不意にシューベルトの中で反響した。
「準騎士様」
あの母親は、シューベルトたちを「準騎士様」と呼んだ。名前ではなく、立場で。それは当然のことだ。市民が準騎士の名前など知るはずもない。だが、ふと思った。
もしリルに「お兄ちゃんの名前は?」と聞かれていたら、自分は何と答えただろう。
シューベルト。それは王子だった頃の名だ。今の自分の名でもある。だが、その名を名乗ることに、ほんの一瞬、躊躇いを覚える自分がいる。シューベルト・ホワイト。滅びた王国の、最後の王子。その名を口にするたび、自分が何者なのかを問われている気がする。
「シュー、難しい顔してる」
サラが覗き込んできた。
「……いや。何でもない」
「そう?お腹空いたなら、帰りに何か買って帰る?パンとか」
「お前、さっき自分の昼飯あの少年にやっただろ。今度は俺の昼飯まで狙ってるな」
「ばれた」
サラがぺろりと舌を出した。シューベルトは小さく笑った。
左胸が、静かに脈打っていた。リルの腕の古い傷を思い出す。家が焼けたときの傷。戦争が残した傷。自分の故郷も、同じように焼けた。あの炎の中で、自分も何かを失い、何かを置いてきた。
名前を問われて詰まる自分は、まだその答えを探している途中なのだろう。
だが、急ぐ必要はない。
隣で軟膏の話をするサラと、無口なまま歩くエドと一緒に、この曖昧な道を歩いていけば、いつか答えにたどり着く気がした。




