酒場の夜、六人の音
場所は人を変える、と言う。騎士の制服を着た者が酒場に入れば、周囲は少しだけ背筋を伸ばす。だが六人の準騎士が、傭兵時代と同じように笑い声を立て、同じように酒をこぼし、同じように馬鹿げた言い争いを始めれば、場所はあっさりもとの顔に戻る。人が場所を変えるのか、場所が人を変えるのか。少なくともその夜は、六人が場所を変えた。完全に、騒がしく。
―――
最初の一週間が過ぎた頃、巡回のやり方が少し変わった。
毎日六人で同じ区画を回るのは効率が悪い、とフクロウが言い出したのだ。下層市場は広い。表区画、中区画、裏区画と三つに分かれている上に、それぞれに枝分かれした路地が無数にある。六人が固まって歩いていては、一日に一区画しか回れない。
「二班に分ける」とフクロウは言った。
「日替わりで担当を変える。一班三人、これなら半分の時間で全区画を見られる」
というわけで、その日からは三人ずつの巡回になった。フクロウとエドとサラ。シューベルトとロバートとアイリーン。組み合わせはその日の気分で入れ替わる。最初こそ慣れなかったが、三人だと身軽で、市民とも自然に言葉を交わせるようになった。
そして、その日の巡回は、特に何事もなく終わった。
何事もなく終わる、というのは、実はそれなりに価値のあることだ。窃盗もなく、諍いもなく、踏み潰される果実もない。ただ穏やかな半日。城へ戻ってきた六人の顔には、珍しく余裕があった。
別館の部屋に戻るなり、フクロウが言った。
「今夜は飲みに行くぞ」
一瞬、部屋が静まった。
それから、アイリーンが両手を突き上げた。
「やったあああっ!」
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城下の酒場は、下層市場からほど近い場所にある「銀ジョッキ亭」だった。
傭兵や職人が集まる、庶民的な店だ。樽を改造した椅子、油染みた木の卓、煤けた天井。決して綺麗とは言えないが、その雑然とした空気が、かえって落ち着く。フクロウが選んだ理由は明らかだった。正規騎士が顔を出すような店ではないから、誰にも気を遣わなくていい。
店に入るとき、フクロウは制服の上にくたびれた外套を羽織っていた。徽章が見えないようにするためだ。他の者もそれに倣った。今夜は騎士として飲む夜ではない。傭兵時代の、ただの六人として飲む夜だ。
卓を囲み、ジョッキが六つ並んだ。
ロバートが真っ先にそれを持ち上げ、「乾杯」と短く言った。誰かが「乾杯」と返し、ジョッキのぶつかる音が重なった。最初の一口を流し込むと、アイリーンが「んーっ!」と声を上げて卓に突っ伏した。
「生き返るうう……。やっぱり仕事終わりの一杯は最高だよ……」
「お前、仕事中も飲みたそうな顔してたけどな」とロバート。
「してない!」
「してた。市場の酒屋の前で三回立ち止まった」
「あれは見回り!ちゃんと巡回してたの!」
「巡回の名目で品定めしてたんだろ」
アイリーンが顔を真っ赤にして反論する横で、サラがくすくすと笑っていた。
―――
一杯目が半分になった頃、ロバートが今日の巡回での出来事を話し始めた。
「いや、聞いてくれよ。今日な、中区画で揉め事があってさ」
「揉め事?」
シューベルトが聞いた。
「八百屋の親父と魚屋の親父が、店の境界線でいがみ合っててな。お前の籠がはみ出してる、いやお前の樽が出てるって、もう取っ組み合い寸前よ。で、俺が間に入ったわけだ」
「ロバートが?」
アイリーンが嫌な予感のする顔をした。
「そうだ。『まあまあ落ち着け』ってな。穏便に、紳士的に」
「で、どうなったの」
「……二人とも、俺を睨んできた」
卓に沈黙が落ちた。
「なんでだよ」とシューベルト。
「分からん!俺は止めようとしただけだぞ!そしたら二人して『でかい声出すな』って!俺の声、そんなにでかいか!?」
「でかい」
全員が同時に答えた。エドまでもが、わずかに頷いた。
「お前なあ……」ロバートが頭を抱えた。
「俺は穏便にやろうとしてるのに、なんで毎回こうなるんだ」
「ロバートが『落ち着けええっ!』って怒鳴ったら、そりゃ怖くて二人とも団結するよ」
アイリーンがけらけら笑った。
「敵同士が、共通の敵を見つけて仲直りするやつ。ロバートのおかげで八百屋と魚屋は仲良くなったんじゃない?」
「そういう問題か!?」
「人助けだよ。よかったね」
ロバートが本気で悩み始めたので、シューベルトは思わず吹き出した。この男が善意で何かをしようとして、毎回斜め上の結果になるのは、いつ見ても同じおかしさがある。
サラがジョッキをゆっくり傾けながら、穏やかに言った。
「でも、手が出なかったのは偉いと思う」
「……まあ、準騎士が殴り合いに加わったら、ただのみっともない話だからな」
「そうじゃなくて。あなたが、止めようとした気持ちのこと。あれは正しかったよ」
ロバートは少し黙ってから、照れ隠しのようにジョッキをあおった。
「……まあ、な」
―――
二杯目に差し掛かった頃。
アイリーンが、ジョッキを片手にシューベルトの隣にずいと移動してきた。頬がすでにほんのり赤い。
来たなとシューベルトは思った。
「ねえ、シュー」
「……なんだ」
「あたしのこと、好き?」
「酒が入ると必ずそれを聞くな、お前は」
「だって素面じゃ恥ずかしいじゃない!酔ってる今が言える時なの!」
アイリーンはシューベルトの腕にぐいぐいと体を寄せてきた。赤い髪が肩に触れる。いつもより距離が近い。卓の向かいでロバートが「おーおー」と冷やかし、サラが微笑ましそうに見ている。
「好きって言ってよ。仲間として好きです、くらいなら言えるでしょ」
「仲間として好きだ」
「……素っ気なっ!もっと熱量入れて!」
「無理だ」
「なんでよ!」
シューベルトはアイリーンの頭をぽんと一度叩いてから、絡みついた腕をやんわりと解いた。アイリーンは「ひどい!扱いが雑!」と文句を言ったが、三秒後にはロバートのジョッキを勝手に奪って飲んでいた。
「あっ、それ俺のだぞ!」
「いいじゃない、減ってないし」
「半分以上減ってる!」
サラが隣で、肩を震わせて笑っていた。
「アイリーンちゃん、相変わらずだねえ」
「相変わらずが一番だろ」
シューベルトは小さく笑った。
―――
夜が深まった頃、シューベルトはふと、卓の端に目をやった。
エドが、一人で静かにジョッキを傾けていた。
誰も気づかなかったかもしれない。乾杯の音頭でもなく、誰かに誘われたわけでもなく。ただそこにいて、騒がしい仲間たちの真ん中で、自分の速度で酒を飲んでいた。
その横顔が、いつもより少しだけ柔らかかった。
普段は何も映さない瞳が、揺れる灯りと笑い声を、かすかに映していた。口元は笑っていない。だが、強張ってもいない。エドにとって、これがどういう夜なのかは分からない。「楽しい」という言葉が、この少年の中にあるのかどうかも分からない。
だが、ここにいることを、エドは選んでいた。
部屋に残ることもできた。一人で武器の手入れをしていることもできた。それなのに、ついてきて、卓について、ジョッキを手にしている。それだけで十分だとシューベルトは思った。
その時、エドがふと顔を上げて、シューベルトと目が合った。
シューベルトは、何も言わなかった。ただ、軽くジョッキを持ち上げてみせた。
エドは、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、口の端を持ち上げた。それから自分のジョッキを、ほんのわずかに持ち上げ返した。
言葉のない乾杯だった。
それきり、エドはまた静かに飲み始めた。だがシューベルトは、その小さな仕草を、しばらく忘れないだろうと思った。
―――
帰り道、城への坂道を、六人は千鳥足で登っていた。
アイリーンはロバートの背中におぶさり、すでに半分眠っている。サラがその様子を見て笑い、フクロウは少し前を歩いている。エドは相変わらず最後尾だが、その足取りは、いつもより少しだけ軽い気がした。
「……傭兵の頃も、こんな夜はあったな」ロバートが言った。アイリーンを背負ったまま。
「あったな」シューベルトは答えた。
「でも、今夜はちょっと違う気がするんだよな。何が違うのか、うまく言えねえけど」
「制服の重さが違う」
前を歩くフクロウが、静かに言った。振り返りもせずに。
それだけで、その意味は全員に届いた。泥の中で飲んだ酒と、守るべきものを背負って飲む酒。味は同じかもしれない。だが、背負っているものが変わった。その重さは、決して悪いものではなかった。
坂の上から、聖都エリュシオンの夜景が見下ろせた。魔法灯が石畳を点々と照らし、遠くには城の白銀の尖塔が、月を背にしてそびえている。
シューベルトは少し立ち止まって、その景色を眺めた。
左胸が、静かに鳴っていた。今夜は、とても穏やかな音だった。痛みも、警告もない。ただ、満ち足りた者の心臓のように、ゆっくりと拍動している。
「シュー、置いてくよー」
アイリーンの寝ぼけた声が、坂の上から飛んできた。
「今行く」
シューベルトは夜景に背を向けて、仲間たちの後を追った。
こういう夜が、もっとあればいい。
ただ素直に、そう思える夜だった。




