路地裏の鏡
巡回が三日目を迎える頃には、下層市場の地理が頭に入ってきた。
市場は大きく三つの区画に分かれている。入り口に近い表区画は、まだ多少はまともな店が並ぶ。野菜、魚、布、金物。値段交渉の声が飛び交い、人の往来も多い。その奥の中区画になると、屋根のない露天が増え、扱う品も古着や雑多な廃品に変わっていく。そして最も奥の裏区画。ここまで来ると、もう市場と呼べるのかどうかも怪しい。地面に布を一枚敷いて、その上に何か得体の知れないものを並べているだけの者が大半だ。
六人はその日、表区画の巡回を担当していた。
午前の市場は、それなりに活気がある。声を張り上げる魚売り、籠を抱えた主婦、駆け回る子供たち。準騎士の制服を見て一瞬手を止める者はいるが、三日も同じ顔ぶれが回っていれば、市民も少しずつ慣れてくる。完全に無視するわけでもなく、過剰に畏まるわけでもない、微妙な距離感が生まれつつあった。
その距離感の中で、シューベルトはそれを見た。
市場の外れに、乾物を商う老婆の露天があった。干し魚、豆、干し芋。決して安くはないが、その区画では最も日持ちのする食料だ。貧しい者にとっては、なけなしの銭を握りしめて買いに来る、最後の砦のような店だった。
その老婆が、客の応対のために背を向けた瞬間。
十歳そこそこの少年が、すっと手を伸ばした。
―――
少年の手が、干し魚を一本、懐に滑り込ませた。
動きは速かった。慣れていた。一度や二度ではない、という手つきだった。シューベルトはおよそ十メートル離れた場所から、その一部始終をはっきりと見ていた。
そして、少年もまた、シューベルトに気づいた。
目が合った。
少年は凍りついた。逃げる体勢のまま、足が止まった。その目には、恐怖があった。だがそれだけではなかった。恐怖の奥に、もっと深いものがあった。諦めだ。捕まることへの諦めではない。助からないことへの、根の深い諦め。生まれた時から、この世界に自分の居場所などないと知っている者の目だった。
シューベルトは、その目を知っていた。
かつて、鏡の中で見た目だ。泥の中を這いずっていた頃の、自分の目だ。
シューベルトは、動かなかった。
動くべきだった。法を執行する側として、窃盗を目撃したのなら、止めるべきだった。それが準騎士の役目だ。下層市場の巡回とは、まさにこういう瞬間のためにある。
だが、足が動かなかった。
―――
代わりに動いたのは、サラだった。
シューベルトの隣にいたサラは、すでに気づいていた。彼女はシューベルトを一瞥して、その逡巡を見て取ると、静かに歩き出した。少年の正面からではない。斜め前から、ゆっくりと。怯えた動物に近づくような、警戒させない歩き方だった。
少年が逃げようと身を翻しかけた瞬間、サラはその場にしゃがんだ。
少年と、目の高さを合わせた。
「食べてないの?」
優しい声だった。咎める響きは、欠片もなかった。
少年は答えなかった。だが、その沈黙が答えだった。痩せた手首、落ち窪んだ頬、土気色の肌。サラの問いに、少年の体がすべて答えていた。
サラは懐から、小さな布の包みを取り出した。巡回の途中で食べるための、自分の昼食だ。固いパンを二切れ、布に包んだだけのもの。それを少年の手に、そっと握らせた。
「干し魚は、お婆さんに返してきなさい。このパンは、あげるから」
少年は、サラの顔とパンを交互に見た。混乱していた。なぜ罰せられないのか、なぜ食べ物を与えられるのか、理解できないという顔だった。
それからゆっくりと、懐から干し魚を取り出して、老婆の台の端にそっと戻した。老婆はまだ気づいていない。少年はパンを握りしめると、一度だけサラを見て、それから路地の奥へと駆け去った。
その背中が見えなくなるまで、サラは座ったまま見送っていた。
―――
「お優しいことですねえ、準騎士様は」
声がした。
近くで一部始終を見ていた市民の一人だった。中年の男で、自分の露天の前に座って煙管をふかしている。皮肉のこもった声だった。だが、不思議と悪意は感じられなかった。
「ああいう連中を甘やかすから、盗みが減らないんですよ。一度盗んで見逃されりゃ、味を占める。次はもっと大きいものを盗む。情けってのは、巡り巡って正直者の首を絞めるんでさ」
男は煙を吐いた。
「あたしらは毎日、盗まれないように気を張って商売してる。盗む奴を捕まえてくれるのが、お役人の仕事じゃないんですかい。それを、パンを恵んでやるなんてねえ」
サラは立ち上がった。何も言い返さなかった。
シューベルトは、その男の顔を見た。
怒っているわけではなかった。意地が悪いわけでもなかった。ただ、正しいことを言っている、という顔だった。そしてそれは、確かに正しかった。窃盗は窃盗だ。見逃せば秩序は崩れる。真面目に働いて、真面目に税を納め、盗まれないように毎日気を張っている者たちにとって、盗人を見逃す役人など、ただの裏切りだ。
それがかえって、応答を難しくした。
―――
巡回を終えた帰り道、シューベルトは口を開いた。
「……あの男の言ったことは、正しい」
「ああ」フクロウが頷いた。「法的にも、論理的にも、正しい。窃盗は窃盗だ。見逃すことには問題がある。あの市民が腹を立てるのも当然だ」
「でも」
アイリーンが言いかけて、止まった。
「でも、あの子は……」
その先が、続かなかった。
でも、あの子は腹を空かせていた。でも、あの子には他に方法がなかった。でも、あの子の目はまるで——。「でも」の先にある言葉を、誰も持っていなかった。腹を空かせていれば盗んでいいのか。事情があれば法を破っていいのか。そう問われれば、否としか答えられない。だが、あの少年を罰することが正しいとも、誰も思えなかった。
「情けをかけることが、罪になる」
フクロウが静かに言った。「この立場では、そういうことが起きる。傭兵だった頃は、誰を助けようが誰を見逃そうが、俺たちの勝手だった。法の外にいたからだ。だが今は違う。俺たちは法の側に立った。法の側に立つということは、情けが越権になり、優しさが不正になる場所に立つということだ」
「……じゃあ、サラのやったことは間違いだったのか」
ロバートが聞いた。フクロウは少し間を置いてから答えた。
「制度の上では、間違いだ。だが、人としては間違っていない。……どちらを取るかは、その場に立った者が決めるしかない。正解はない」
―――
その夜、別館の部屋は静かだった。
ロバートとアイリーンは早めに横になり、フクロウは何かの書類に目を通している。エドは部屋の隅で、いつものように砥石を動かしていた。規則正しい、しゃっ、しゃっ、という音だけが、部屋に響いている。
シューベルトが寝台に腰かけていると、サラが静かに近づいてきた。
「シュー」
「……サラ」
「あの子ね、栄養が足りてなかった。手首が、細すぎた。私の指で輪が作れるくらい。あの歳の子の手首じゃなかった」
サラの声は、いつものおっとりした調子だった。だが、その奥に何かが沈んでいた。
「分かってる」
「分かっていて、止まらなかったでしょう。あなたも、私も」
「……ああ」
シューベルトは認めた。
あの瞬間、自分は法の執行者として動くべきだった。だが動けなかった。そしてサラは、法に反することを承知で、少年にパンを渡した。二人とも、制度の側ではなく、あの少年の側を選んだ。それが正しかったのかどうか、シューベルトには今も分からない。
「あなたが正しいのか、私が正しいのか、それとも昼間の煙管のおじさんが正しいのか。分からなかった」
サラは寝台の端に、少しだけ腰かけた。
「でもね、私、思うの。分からないことを、分からないまま抱えていられる人でいたいって。簡単に答えを出して、楽になりたくないって。……あなたも、そうでしょう」
シューベルトは答えなかった。だが、それが答えだった。
砥石の音が、止まっていた。
エドが、いつの間にか手を止めて、二人の方をぼんやりと見ていた。何を考えているのかは分からない。だが、その横顔は、どこか遠くを見ているようだった。捨てられたと思っていた頃の自分を、あの少年に重ねているのかもしれない。シューベルトはそう思ったが、口には出さなかった。
左胸が、静かに脈打っていた。
今夜の拍動は、痛みではなかった。けれど、安らぎでもなかった。答えの出ない問いを抱えたまま、ただそこにある。守るとは何か、正しさとは何か。その問いと共に、神獣もまた、シューベルトの中で静かに目を覚ましつつあった。




