偽りの恩寵
準騎士という称号は、便利な言葉だ。「騎士ではない」ということを、体裁よく覆い隠してくれる。彼らは騎士団の廊下を歩くことを許される。だが、正規騎士が使う剣術場には立ち入れない。騎士たちと同じ食堂に座ることはできる。だが、上座には座れない。それは「騎士への登り口」ではなく、「騎士の影」として生きることだ。それでも影でいることは、泥の中よりずっと温かかった。少なくとも、最初のうちは。
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別館の西棟に移って七日目の朝、シューベルトは裏庭の訓練場で剣を振っていた。
正規騎士団の剣術場は使えない。そう言われたわけではないが、そういう空気があった。朝、仲間の誰かが剣術場の扉に手をかけようとした瞬間、廊下を歩いていた正規騎士が振り返って黙って見た。それだけで十分だった。以来、空の戦士団は裏庭の小さな訓練場を使っている。石畳に砂が積もった、手入れのされていない場所だ。それでも屋根があり、雨の日でも使える。傭兵時代に比べれば、贅沢なくらいだ。
朝の冷気の中、シューベルトは素振りを繰り返した。片手剣を鞘から抜いて、正眼から袈裟、袈裟から逆袈裟、そのまま下段に落として薙ぎ払い。体に染み込んだ動きだから、考えなくていい。考えなくていい時間が、今は一番落ち着く。
向こうではロバートが大盾を地面に立てて、その端を叩きながら盾捌きの確認をしていた。エドは人気のない隅で、投剣の的当てを黙々と繰り返している。アイリーンはまだ眠い目をこすりながらも双剣を手に取り、サラは杖を持って障壁魔法の出力調整をしていた。フクロウだけが、訓練をしていない。石段の上に腰かけて、全員を眺めている。彼はいつもそうだ。仲間全員を視野に収める場所を選んで、静かに見ている。
一刻ほど打ち込んだところで、別館の扉が開いた。
バルカスの使者だった。銀縁の眼鏡の官房長が直接来ることはない。彼の使いはいつも同じ若い文官で、感情のない顔をしている。伝言装置のような男だ、とシューベルトは思っている。悪意もなければ親切もない。ただ言葉を運ぶだけの存在。
「官房長より、空の戦士団全員に本日の午後、第一任務を申し渡す。政務棟の第三会議室に集合されたい」
それだけ言い残して、使者は去った。足音が石畳に遠ざかっていく。
ロバートが大盾を下ろし、「来たな」と呟いた。アイリーンが欠伸を噛み殺しながら「任務って何だろ」と言った。フクロウは石段から静かに立ち上がり、誰に向けるでもなく「午後までに身支度をしておけ」と言った。
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第三会議室は、城の東棟にある。
正規騎士団が使う大会議室でも、来賓を迎える貴賓室でもない。中途半端な場所にある、中途半端な広さの部屋だ。窓は一つ、天井は低く、調度品はない。長机と椅子が六脚並んでいるだけで、壁には何の装飾もない。準騎士が通されるには、ちょうどいい場所だとシューベルトは思った。
全員が椅子に座ると、しばらく待たされた。
バルカスが入ってきたのは、それから四半刻ほど経った頃だ。書類の束を小脇に抱え、部屋の正面に立った。顔は相変わらず書類の方を向いており、こちらを見ようとしない。この男にとって、空の戦士団は書類の中の一項目に過ぎないのだろうとシューベルトは思う。
「貴様らの最初の公務を告げる。下層市場の巡回だ」
部屋の空気が、微かに変わった。変わったのはロバートとアイリーンだった。ロバートは眉を寄せ、アイリーンは口を半開きにした。フクロウは表情を動かさなかった。シューベルトも動かさなかった。ただ、聞いた。
「城下の下層区画には、裏取引、密売、無許可の魔法行使といった問題が後を絶たない。正規騎士団がそこへ降りることは、体裁上難しい。しかし放置もできない。……貴様らが適任だ」
「体裁上、とは」
フクロウが静かに聞いた。バルカスはペンを走らせながら答えた。
「正規騎士が下層市場をうろつけば、市民の反感を買う。しかし準騎士程度であれば、市民も慣れている。そういうことだ」
「慣れている、とは」
「貴様らはもともと傭兵だ。市民にとって、傭兵が剣を持って歩くことは日常の風景だ。それが準騎士の制服を着ていても、違和感は少ない。……つまり、貴様らは目立たない」
目立たない、という言葉が、妙に明確に耳に残った。
シューベルトは何も言わなかった。フクロウも、それ以上問わなかった。バルカスは書類から顔を上げ、初めて全員を見渡した。眼鏡の奥の目は、値踏みでも興味でもなく、ただの確認だった。
「一ヶ月の任務だ。毎日午前の一刻、担当区画を回れ。問題があれば報告せよ。異常が継続するようであれば、正規騎士団への引き継ぎを検討する。……以上だ」
椅子を引く音がして、バルカスは部屋を出た。
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廊下に出た瞬間、シューベルトは足を止めた。
二十メートルほど先の廊下の角で、バルカスが誰かと話していた。
立ち止まって見ていたのは、ほんの数秒だ。だが、その数秒で十分だった。
バルカスと向き合っていたのは、シューベルトがこれまで見たことのない男だった。金髪で、碧い目。年はシューベルトより少し上か、あるいは同じくらいか。帝国の貴族が好む仕立ての良い外套を纏っており、その立ち姿には生まれながらの余裕があった。鎧を着ていない。剣も帯びていない。だが、その男は明らかにこの城の住人だった。
男は微笑んでいた。
バルカスに何かを言いながら、柔らかく微笑んでいた。バルカスが頷く。男がまた何か言う。バルカスがもう一度頷く。会話の内容は聞こえない。距離があるし、廊下に他の足音が混じっていた。
その時、男の視線がこちらへ向いた。
偶然だったかもしれない。廊下の先に六人の人間がいれば、目が向くのは自然なことだ。だが男は一瞬だけシューベルトを見て、それからまたバルカスへと顔を戻した。その一瞬の目が、シューベルトには引っかかった。
値踏みでも敵意でもなかった。
品定め、という言葉が浮かんだ。品定めをして、興味を持った。そういう目だった。
「……行くぞ」
フクロウが低く言った。シューベルトは足を動かした。男のいた廊下の角を通り過ぎる時、すでにそこに人影はなかった。バルカスも消えていた。何事もなかったかのように、廊下はただ静かだった。
「フクロウ」
「見ていた」
フクロウは前を向いたまま答えた。それだけだった。何者か、とは言わなかった。聞くな、ということでもないと思った。ただ、今は時ではない、ということだ。
シューベルトは廊下の角を、もう一度だけ振り返った。
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会議室を出た後、六人は別館へ戻る道を並んで歩いた。
「下層市場ってのは、一番の場末じゃないか」
ロバートが吐き捨てるように言った。
「正規騎士が行きたくない場所を、俺たちに押しつけただけだろ。目立たない、ときた。俺たちは便利な透明人間かよ」
「その通りだ」
フクロウが即座に答えた。珍しい。彼はたいてい、こういう不満には少し間を置いてから返す。
「名誉に見せかけた汚れ仕事だ。最初の公務と言えば聞こえはいいが、実態は正規騎士団が手を汚したくない場所の清掃役だ。……バルカスはそれをよく分かっていて、それでも俺たちに振った」
「文句を言うの、団長?」
アイリーンが半分揶揄うように聞いた。
「言わない」
「じゃあ」
「ただ、忘れるな。俺たちに与えられる仕事が、最初からどんな性質のものかを」
フクロウの声に温度はなかった。怒ってもいなければ、諦めてもいない。ただ正確に、目の前の事実を言葉に変えているだけだ。
シューベルトはその横顔を見た。フクロウはまっすぐ前を向いて歩いている。廊下の角に男がいたことを、今もどこかで考えているのかどうか、表情からは読めない。
下層市場の巡回。目立たない存在として、正規騎士が降りたくない場所を回る。それが最初の公務だ。
不満があるかといえば、ある。理不尽だと思うかといえば、思う。だがそれ以上に、シューベルトには別のことが引っかかっていた。
バルカスと話していた、あの金髪の男。
この城に来て一週間、シューベルトはそれなりに城内の人間を目にしてきた。正規騎士、文官、侍女、警備兵。その中に、あの男はいなかった。いたとしても目に入らなかったのかもしれないが、あれほど目を引く人間を見落とすとは思えない。
何者なのか。
なぜバルカスと話していたのか。
なぜ、自分を見た目が、あんな色をしていたのか。
―――
夕方、別館の廊下に戻ると、壁に姿見が一枚かけられていた。
誰が置いたのか知らない。移ってきた初日からそこにあった。シューベルトは一度も正面から見たことがなかったが、その日は何となく足が止まった。
鏡の中に、見慣れない人間がいた。
深い紺色の上衣に、銀の縁取り。胸元には銀の翼の徽章。剣帯がまっすぐに腰に収まっており、背筋が伸びている。目だけがいつも通り、少し鋭すぎる。
それが自分だと認識するまでに、少し時間がかかった。
泥にまみれた革鎧を着ていた男と、鏡の中の男が、同じ体を持っているとは思えなかった。どちらが本当の自分に近いかといえば、まだ答えが出ない。答えを出す必要があるのかどうかも、分からない。
「似合ってないと思ってるでしょ」
背後からアイリーンの声がした。振り返ると、廊下の端に赤いポニーテールが揺れていた。彼女は口の端を持ち上げながら近づいてきた。
「そんなことない。似合ってる」
「自分では思えないけどな」
「ならいつか思えるようになる。……あたしも最初、自分じゃないみたいで変な感じだったもん」
アイリーンは自分の徽章をそっと指先で触った。冗談めかした顔ではなかった。
「でも、本物なんだよ。どんな格好してたって、今の俺たちは泥の中じゃない。それは本物だと思う」
シューベルトはもう一度鏡を見た。
紺色の制服の胸元で、銀の翼が廊下の光を拾っていた。小さいが、確かにそこにある。泥を落としても消えない、実力で捥ぎ取ったものの輝きだ。
「……ああ」
シューベルトは短く答えて、鏡から目を離した。
本物であることと、自分らしいことは、まだ一致していない。だがいつかそれが重なる日が来るかもしれない。
それだけは、かすかに、信じることができた。
左胸の奥で、拍動がひとつ、静かに跳ねた。今夜は穏やかな音だった。まるで「まだここにいる」と知らせるような、小さく確かな鼓動。シューベルトはそっと胸元を押さえ、仲間たちの部屋へと戻った。




