駒と牙
王は駒を動かす。駒は盤の上を走り、王の意図通りに機能する。駒は王の深謀を知らない。知らなくていい、と王は思っている。だが時に、駒は盤の外を見る。自分が何のために動かされているかを、問い始める。その瞬間から、駒は駒ではなくなる。それを王は「裏切り」と呼び、駒は「目覚め」と呼ぶ。
―――
騎士団別館の西棟は、これまでの宿舎とは別の世界だった。
石造りの壁は頑強で、磨かれた廊下には自分たちの足音が心地よく反響する。部屋には人数分の清潔な寝台と、私物を収める頑丈な木箱、そして中央には大きな円卓。窓からは聖都の街並みが一望でき、遠くにはトマス城の白銀の尖塔がそびえていた。
「わあ……!藁の匂いがしない。本当にシーツが敷いてある!」
アイリーンが弾かれたように寝台へ飛び込み、その柔らかさを確かめるように跳ねた。サラが窓際に歩み寄り、透明なガラス越しに差し込む光に目を細めた。ロバートは部屋の隅に置かれた木架に目をやった。そこには、深い紺色の外套と、軽量ながら急所を守るよう設計された銀色の胸当てが並んでいた。
「……これ、俺たちの装備か」
「ああ。今日からそれがお前たちの新たな体になる」
フクロウが自分の外套を肩にかけながら言った。
シューベルトは自分の寝台の横に立てかけられた新しい剣帯を手に取った。指先で銀の翼の紋章をなぞる。準騎士。その響きは、かつてホワイト王国で夢見た「本物の騎士」の輝きにはまだ遠い。だが、仲間たちのこれほどまでに明るい顔を見るのは、あの火の日以来、初めてのことだった。
「シュー!見て見て、あたし似合うかな?」
アイリーンが紺色の外套を羽織って、その場でくるりと回ってみせた。少し丈が長いが、彼女の快活さをいっそう引き立てている。
「……ああ、よく似合っている」
「もう、相変わらず素っ気ないんだから!」
アイリーンは頬を膨らませ、それからいたずらっぽく笑った。
---
陽が落ち、聖都エリュシオンの街並みが魔法灯の柔らかな光に包まれる頃、騎士団別館の円卓には、傭兵時代には考えられなかった晩餐が並んでいた。
焼きたての分厚い麦パン、香草を添えた鶏の丸焼き、底が透けて見えるほど澄んだスープ。ロバートが感極まったような声を上げ、アイリーンが徽章をテーブルに置いて愛おしそうに転がした。サラが全員の皿に料理を取り分け、エドが珍しく文句を言わずに食べている。
それは、泥の中から這い上がった彼らが初めて手にした、自分たちだけの「城」だった。
食事が落ち着いた頃、エドが冷めた瞳で自分の手元を見つめながら呟いた。
「……首輪を付け替えられただけだ。準騎士なんて、いつでも剥奪できる都合のいい肩書きだろ。あいつらは、俺たちをまだ仲間だなんて思っちゃいない」
ロバートが言い返そうと口を開きかけたが、フクロウが制した。
「エドの言う通りだ。俺たちはまだ、トマス家の所有物として認められたに過ぎない」
フクロウは静かに立ち上がり、窓の外、闇夜に浮かび上がるトマス城を見上げた。
「だがな……この首輪がなければ、俺たちはまたあの泥濘に逆戻りだ。サラに診療所を、アイリーンに家を、ロバートに誇りを与えるためには、今はトマスの中でその価値を証明し続けるしかない」
フクロウは振り返り、静かに食事を続けていたシューベルトを見つめた。
「……シュー。お前はどう思う」
シューベルトは、手にしたパンをスープに浸し、ゆっくりと咀嚼してから顔を上げた。
「……俺は、この場所で安らいでいる仲間たちの顔を、守りたいだけだ。準騎士だろうが流れ者だろうが、やることは変わらない。邪魔する者がいるなら、斬るだけだ」
迷いのない言葉に、ロバートが「全くだぜ!」と快活に笑い、ジョッキを打ち鳴らした。アイリーンも少しだけ安心したように、再び肉にかじりつく。
---
仲間たちが眠りについた後、シューベルトは一人、バルコニーへ出た。
夜風が、新調された紺色の外套を揺らす。眼下には、魔法灯に照らされた聖都の夜景が広がっていた。美しい。だがその美しさの足元には、昼間に見た老人の姿や、自分たちへ向けられた拒絶の視線がある。
左胸の奥が、微かに熱を帯びた。
アンネリーゼ。あの夜、月明かりの下で「外の匂いがする」と言った少女。彼女もまた、同じ月を見上げているだろうか。
自分たちは泥を落として銀を纏った。だが、その銀色が本物の輝きなのか、それとも剥げやすいメッキに過ぎないのか。答えは、遠くない未来に突きつけられることになる。
「……明日も、生き残らなければな」
シューベルトは夜の闇に誓うように呟き、静かに部屋へと戻った。
仲間たちの穏やかな寝息が、新しい「家」を満たしていた。
---
同じ夜、トマス城の最上層。猛禽の巣のように突き出した円形の執務室で、辺境伯ゲオルグ・トマスは地図の前に立っていた。
「――閣下。例の傭兵団、『空の戦士団』に準騎士の地位を与えました」
官房長バルカスの報告に、ゲオルグは振り返ることなく、地図の西側に置かれた駒を一つ動かした。
「……バッカスの中隊が逃げ出した砦を、その余所者たちが落としたか」
感情の起伏はない。ただ、言葉の端々に敵を屠り続けてきた者特有の冷徹な重みがある。
「はい。特に、団長の弟分とされる男が、単身で砦の核を破壊したと」
「ふん。我が家の騎士どもは、鏡の前で鎧を磨く時間はあっても、泥の中で牙を研ぐことは忘れたらしいな」
ゲオルグはゆっくりと振り返った。その瞳は、深い赤みを帯びた鋭い光を放っていた。
「官房長よ。私は『血筋』という名の飾り物が欲しいわけではない。魔族の喉笛を食い破る『牙』が欲しいのだ。例えそれが、泥を啜り、名前さえ持たぬ者の牙であったとしてもな」
「……シューベルトという男、注視せよと」
「ああ。奴の瞳には、ただの傭兵には持ち得ぬ冷たい火が宿っている。それがトマスを照らす光になるか、焼き尽くす炎になるか……見極めねばならん」
バルカスが深く頭を下げ、部屋を辞した。
一人残されたゲオルグは、再び窓の外、夜の闇に沈むエリュシオンを見下ろした。その視線は、愛娘アンネリーゼがいるはずの白亜の塔を一瞬だけ捉え、それからさらに遠くへと向けられた。
---
城の最奥、白亜の塔の一室。
アンネリーゼは一人、バルコニーで月を見上げていた。腰まで届く金髪が、月光を浴びて白銀の糸のように輝いている。
胸の奥で、神獣が微かに揺れている。数日前から続く、落ち着かない共鳴。それが何に呼応しているのか、彼女にはわかっていた。
「……まだここにいるのね」
アンネリーゼは呟いた。
あの夜、路地で出会った名もなき剣士。「外の匂いがする」と言って近づいたのは、確かに自分だった。だが、彼の目を見た瞬間、何かが変わった。泥の中にいても死んでいない目。籠の外の世界を知っている者の目。
その男が、今夜から準騎士としてこの城の一部になった。
老侍女から聞いた時、アンネリーゼはその知らせをしばらく胸の中で転がした。準騎士。それは、彼がこの城の住人として、正式に「光の当たる場所」へ足を踏み入れたことを意味していた。
「神獣様。……私、あの方にまた会いたい」
アンネリーゼが祈るように呟くと、精神の深いところで神獣が応えるように静かに羽ばたいた。
トマス城。野心を抱く覇王、そして誇りを取り戻そうとする亡国の剣士。二つの運命が交錯する嵐の予感の中で、アンネリーゼという一輪の花は、静かに、力強く開花の時を待っていた。




