第九十一話「敵か、味方か」
零の言葉に、エルナは、大きく、目を見開いたまま、動きを、止めていた。
「――ワタシノ力ヲ、受ケ止メル……? ソレハ、ドウイウ、意味ダ」
エルナの声には、これまでの、平坦な、感情の読み取れない響きとは、僅かに異なる、戸惑いの色が、滲んでいた。
「言葉の通りだ。試してみたい」
零の申し出に、聖が、慌てて、駆け寄ってきた。
「零、待って! 危険よ! 相手が、どんな力を、持ってるか、まだ、何もわかってないのに」
聖の声には、切実な、心配が滲んでいた。零は、その気持ちを、痛いほど、理解していた。これまでの旅で、幾度となく、危険な敵と、対峙してきた。だからこそ、聖の警戒は、決して、大げさなものではない。
「聖、大丈夫だ」
零は、静かに、しかし、確かな眼差しで、聖を見つめた。
「エルナは、俺たちを、傷つけたいわけじゃない。さっきから、ずっと、そんな気がしてるんだ」
「――でも、あの子の周りには、明らかに、危険な瘴気が、渦巻いてる。院長様も、灰堂さんも、そういう気配には、絶対に、油断するなって、教えてくれたじゃない」
聖の指摘は、もっともだった。零自身、これまでの旅で、その教えを、幾度となく、胸に刻んできた。
だが。
零は、静かに、エルナの、瞳の奥を、見つめた。
その、感情の読み取れない、虚ろな瞳の、さらに奥――そこに、確かに、何か、迷いにも似た、揺らぎがあることを、零は、見て取っていた。
「聖、エルナの目を見てくれ。あれは、俺たちを、殺そうとしてる目じゃない」
聖は、しばらく、躊躇いながらも、静かに、エルナを見つめた。そして、僅かに、息を呑んだ。
「――確かに。あの子の目、なんだか、迷子の子供みたいな、目をしてる」
「だろう」
零は、静かに、頷いた。
夜も、少し離れた場所から、鋭く、状況を、見極めていた。
「――あの少女の、瘴気の質、これまで、対峙してきた、使徒や、四天王のものとは、明らかに、違う。攻撃的な、悪意は、感じない」
夜の分析に、零は、確信を、深めた。
「そうか。夜も、そう感じてたか」
「あくまで、感覚的な、話だけど」
夜は、そう前置きしながらも、静かに、続けた。
「あの子の力、まるで、何かに、閉じ込められてる、みたいな感じがする。自分自身の、意思とは、関係なく」
⸻
熊谷も、大盾を、構えたまま、慎重に、エルナの様子を、観察していた。
「――零、無茶はすんなよ。だが」
熊谷は、少し、考えるように、続けた。
「あの子から、確かに、悪意っていうもんは、感じねえべ。むしろ、なんつうか、寂しそうな、雰囲気の方が、強い」
花霞も、静かに、頷いた。
「零殿の、その、見立て――わたくしも、同じように、感じております。エルナ殿の、瞳の奥に、確かな、悲しみが、宿っておいでのように」
仲間たちの、それぞれの意見を聞きながら、零は、改めて、自分の判断に、確信を、持った。
「――みんな、ありがとう。それじゃあ、少し、試してみる」
⸻
零は、静かに、エルナへと、歩み寄った。エルナは、明らかな、戸惑いを見せながらも、逃げようとは、しなかった。むしろ、その場に、根が生えたように、動けずにいるようだった。
「――ホントニ、近ヅイテ、良イノカ」
エルナの声には、これまでにない、微かな、震えが、混じっていた。
「ああ」
零は、一歩、また一歩と、着実に、距離を、詰めていった。
「――近ヅケバ、貴様モ、病ニ、蝕マレル。ワタシハ、ソウイウ、存在ダ」
エルナの警告に、零は、静かに、答えた。
「知ってる。でも、俺の体は、そういうものと、向き合うために、これまで、ずっと、旅を、続けてきたんだ」
零が、エルナの、すぐ近くまで、歩み寄ると、エルナの周囲の、黒い靄が、ゆらりと、揺れ動いた。まるで、警戒するように、それでいて、どこか、零を試すように。
「――ッ……」
靄の一部が、零の腕に、触れた。一瞬、零の体に、これまでの旅で、幾度となく感じてきた、あの、病の気配――しかし、これまでとは、明らかに、異なる、複雑で、幾重にも、絡み合った、苦しみの気配が、流れ込んできた。
(これは……)
零の胸の奥で、あの、馴染みの熱が、静かに、しかし確かに、反応し始めた。だが、それは、これまでのような、単純な、共鳴とは、違っていた。
まるで、幾つもの、異なる「病」が、同時に、零の中に、流れ込んでくるような感覚。高熱、呼吸困難、意識の混濁、そして――それら、全てを、統べるような、深い、孤独感。
「――ッ、く……!」
零は、思わず、片膝をつきそうになった。だが、なんとか、その場に、踏みとどまった。
「零!」
聖が、悲鳴のような、声を上げる。
「大丈夫、だ……」
零は、荒い息を、整えながら、そう、答えた。
胸の奥の、熱が、これまでにない、規模で、燃え上がっていた。零は、静かに、意識を、集中させた。
(受け止めろ。そして、変えていくんだ)
これまでの旅で、積み重ねてきた、無数の、経験。トビアスとの出会い、灰堂の教え、白川郷での戦い、藤原家での葛藤、そして――農村地帯や、この国の、聖なる河での、様々な、想い。
それら、全てが、今、零の中で、確かな、力へと、結びついていく。
「――ナ……ナニ、ガ……」
エルナが、驚いたように、零を、見つめた。
「――ワタシノ力ガ、消エテイク……! ドウシテ……!」
エルナの声には、明らかな、動揺と、そして、これまで、感じたことのない、何か――希望にも似た、感情の色が、滲み始めていた。
「消えてるんじゃない」
零は、静かに、しかし、確かな声で、答えた。
「俺の中で、別のものに、変わってるだけだ」
⸻
その光景を、少し離れた場所から見ていた、聖、夜、熊谷、花霞も、驚きを、隠せない様子だった。
「――零殿の力、あの少女の、力すらも、受け止めて、いらっしゃる……」
花霞の呟きに、夜も、静かに、頷いた。
「あんたの力、本当に、底が知れないわね」
聖は、両手を、胸の前で、握りしめながら、祈るように、その光景を、見守っていた。
「――お願い、無事に、乗り越えて……!」
熊谷も、大盾を、構えたまま、緊張した様子で、事の成り行きを、見つめていた。
⸻
しばらくすると、エルナの周囲の、黒い靄は、次第に、その勢いを、弱めていった。まるで、荒れ狂っていた、嵐が、静かに、凪いでいくかのように。
「――ドウシテ……。病神様ノ力ハ、絶望ト、苦シミノ、象徴ノハズ……。ナノニ……」
エルナは、混乱した様子で、そう、呟いた。自分自身の、力の在り方が、根底から、揺らいでいるかのような、そんな、戸惑いが、その声には、滲んでいた。
零は、静かに、乱れた息を、整えながら、エルナに、微笑みかけた。
「エルナ、お前の力は、確かに、病や、苦しみを、もたらすものかもしれない。でも」
零は、優しく、続けた。
「それを、どう受け止めるか、どう使うかは、また、別の話なんだ。俺は、そのことを、これまでの旅で、何度も、教えられてきた」
エルナは、しばらく、無言のまま、零を、見つめていた。その、感情の読み取れなかった、瞳の奥に、確かに、何か、新しい、色が、生まれつつあるように、零には、感じられた。
「――ワタシハ、ドウスレバ、良イ……」
その、震える問いに、零は、静かに、しかし確かな声で、答えた。
「一緒に、来ないか。俺たちと」
その申し出に、エルナは、大きく、目を見開いた。
「――病神様ヲ、裏切レ、ト……?」
「裏切る、っていうより……」
零は、静かに、言葉を、選びながら、続けた。
「エルナ、お前自身の、生き方を、選んでほしいんだ。誰かに、決められた道じゃなくて」
その言葉に、エルナは、しばらく、深く、考え込むように、沈黙していた。
⸻
その、長い沈黙の中、零は、静かに、エルナの、様子を、見守り続けた。急かすことは、しなかった。これまでの旅で学んだ、「待つこと」の大切さを、零は、確かに、身につけていた。
聖も、夜も、熊谷も、花霞も、それぞれ、静かに、その、瞬間を、見守っていた。
風が、静かに、森の梢を、揺らしていく。その音だけが、辺りに、静かに、響いていた。
見知らぬ国の、静まり返った森の中で、エルナという、新たな存在との、複雑な、しかし、確かな絆の始まりが、静かに、その第一歩を、踏み出そうとしていた。この出会いが、これから先の、零たちの旅に、そして、病神という、巨大な存在との、戦いの行方に、どれほど大きな意味を持つことになるのか――それは、まだ、誰にも、わからないことだった。




