第九話「逃げるという旅」
「――穢れなき者ヨ。喰ラワレヨ」
黒い装束の者が、再びくぐもった声でそう告げた瞬間、周囲の空気が一気に重さを増した。まるで、見えない何かに肺を押し潰されているような感覚。零は思わず胸を押さえた。
「零! しっかりして!」
聖の声が、遠くから聞こえるように響く。零はなんとか意識を保ち、後ずさった。
護衛の男たちが、剣を構えて黒い装束の者に向かっていく。
「かかれ! 相手が何であろうと、聖女様と町の民を守るのだ!」
だが、剣が届く前に、黒い装束の者の周囲を渦巻いていた靄が、まるで意思を持つ触手のように伸び、護衛たちを弾き飛ばした。
「ぐあっ!」
「くっ……!」
護衛たちが次々と地面に叩きつけられる。零は青ざめた。人間の力では、まるで太刀打ちできない。
「逃げて! みんな、逃げて!」
聖が悲鳴のように叫ぶと、集会所の周りにいた住人たちが、我先にと逃げ惑い始めた。
黒い装束の者は、逃げる人々には目もくれず、ただじっと、零の方を見つめ続けていた。
(なんで、俺を見てるんだ)
理由はわからない。ただ、あの暗い眼窩の奥に宿る何かが、明らかに零だけを標的にしているのが、肌でわかった。
「零、こっちへ!」
聖が零の腕を掴み、強引に引っ張った。零は我に返り、聖と共に走り出す。
背後で、靄が唸るような音を立てて広がっていくのが聞こえた。
「あれは、いったい何なんだ……!」
「わからない……! でも、ただの魔物じゃない! 逃げるしかないわ!」
二人は路地を抜け、町の外れへと向かって走った。息が上がる聖とは対照的に、零の足取りは驚くほど軽かった。だが、今はそれを気にしている場合ではない。
「こっちに、避難用の地下通路があるはずよ! 前に来たとき、神官の一人が教えてくれた!」
聖の案内で、二人は町外れの小さな祠のような建物に駆け込んだ。床下に隠された扉を開けると、地下へと続く狭い階段が現れる。
「入って、早く!」
零は言われるままに階段を駆け下りた。聖も後に続き、扉を閉める。わずかな灯りだけが、狭い通路をぼんやりと照らしていた。
しばらくの間、二人は息を潜めていた。頭上から、何か重いものが地面を這うような音が、微かに響いてくる。
「……行った、みたいね」
聖が小さく息を吐く。零も、ようやく肩の力を抜いた。
「聖、さっきのは、いったい……」
「わからない。でも」
聖の声が、微かに震えていた。
「院長様が言ってた、『病をもたらす者』――その関係者なのかもしれない」
零は先ほどの光景を思い返した。あの、意思を持つ黒い靄。人間の力を軽々と弾き飛ばす異形の存在。そして――なぜか自分だけを見つめていた、あの暗い眼窩。
(俺を、見てた。あれは、間違いない)
理由はわからない。だが、確信だけがあった。
「聖、俺、もしかしたら」
「何?」
零はしばらく言葉に詰まった。うまく説明できない。ただの勘だと言われれば、それまでの話だ。
「……いや、なんでもない」
零は言葉を飲み込んだ。今はまだ、確信のない推測を口にする段階ではない気がした。
⸻
しばらく身を潜めた後、地上の様子を確認すると、幸い黒い装束の者の姿はどこにもなかった。町には、逃げ遅れた住人たちの姿もなく、静まり返っている。
「戻りましょう。他の皆と合流しないと」
聖と共に集会所へ戻ると、護衛の男たちは怪我こそしていたものの、幸い全員無事だった。逃げ遅れた住人たちも、聖教会の別の神官たちに保護され、避難を終えていた。
「聖女様、ご無事で……!」
「ええ、なんとか。皆は?」
「幸い、死者は出ておりません。ですが……」
神官の一人が、険しい表情で言葉を継いだ。
「あの者が現れた後、村の被害状況を確認したところ、患者たちの容態が、さらに悪化しているようです」
聖は急いで診療所へと向かった。零もその後を追う。
横たわる患者たちの顔色は、先ほどよりも明らかに悪くなっていた。荒い呼吸を繰り返す者、うわ言のように何かを呟く者――まるで、あの黒い装束の者が現れたことで、何かが加速したかのようだった。
「……酷い」
聖は唇を噛んだ。治癒魔法をかけても、症状は一向に改善しない。
零は、患者の一人――先ほど手を握った年老いた女性の傍に、そっと膝をついた。
(何か、俺にできることは)
わからない。だが、じっとしていられなかった。
零がそっと女性の手に触れると、また胸の奥の「何か」が、微かに疼いた。だが、それ以上、何も起こらなかった。力の使い方も、正体も、零にはまだ何もわかっていない。
(役立たずだな、俺は)
自嘲めいた思いが胸をよぎる。だが同時に、諦める気にはなれなかった。
「院長様に、報告しないと」
聖の声で、零は我に返った。
「ああ。俺たちが見たものを、正確に伝えないと」
二人は、傷ついた護衛たちと、症状の悪化した患者たちを伴い、レイヴンクロフトへと引き返すことになった。
⸻
帰路、荷馬車に揺られながら、零は静かに空を見上げていた。
夕暮れの空は、燃えるような赤に染まっている。だが、その美しさを、今の零は素直に楽しむ余裕がなかった。
(あれは、何だったんだ。そして、なんで俺を見ていた)
答えの出ない問いが、いつまでも頭の中を巡り続ける。
隣に座る聖も、何かを考え込むように黙り込んでいた。
「……零」
「ん?」
「あなたが無事で、良かった」
聖の言葉には、素直な安堵が滲んでいた。零は少し驚いたが、やがて小さく頷いた。
「ああ。聖も、無事で良かった」
荷馬車は、静かに夕暮れの道を進んでいく。
まだ何もわからない。だが一つだけ、確かなことがあった。
――この世界には、零の知らない、大きな何かが動いている。
それが何であるのか、いずれ知ることになるのか、零にはまだわからない。
ただ、あの暗い眼窩の記憶だけが、零の胸の奥に、消えない影として残り続けていた。




