第十話「絶望の底で見た光」
レイヴンクロフトに戻ってから、三日が過ぎた。
隣町の惨状は、街中に広まっていた。原因不明の奇病、そして正体不明の異形の存在――人々の間には、静かな不安が広がっている。
零は聖教会の一室で、院長ヨハネスと向き合っていた。
「坊やが見たという、あの黒い装束の者について、詳しく聞かせてもらえるか」
零は、あの日の記憶を、できる限り正確に伝えた。人の形をした黒い靄、こもった不気味な声、そして――自分だけを見つめていたような、あの視線のこと。
院長は、話を聞き終えると、深く息を吐いた。
「……坊やの話が確かなら、それは間違いなく、ただの魔物ではない。恐らく、伝承にある存在――何かしらの意思を持って、この世界に病をもたらす者に連なるものだろう」
「その伝承について、詳しく教えてもらえませんか」
零が尋ねると、院長は少し逡巡した後、静かに首を振った。
「すまんが、まだ話せる段階ではない。確証のない伝承を、迂闊に語るわけにはいかん。だが、一つだけ言えることがある」
院長は零をまっすぐに見据えた。
「坊やのその力――正体はわからずとも、あの者と、何か関係があるのかもしれん。あの者が、坊やだけを見ていたというのなら、なおさらだ」
零は拳を握った。
「俺と、関係がある……」
「今はまだ、推測の域を出ない。だが、心しておくといい。この先、坊やの旅には、恐らくあの者たちが、幾度となく立ちはだかることになるだろう」
その言葉に、零は不思議と、恐怖よりも、静かな決意が胸に湧き上がるのを感じた。
「……逃げませんよ、俺は」
「ほう?」
「これまでだって、逃げてばかりだった。逃げて、耐えて、それだけで精一杯だった。でも」
零は自分の手のひらを見つめた。
「今は、少しだけ、体が動く。少しだけ、誰かの役に立てる。だったら、逃げてばかりはいたくない」
院長は、しばらく黙って零を見つめていたが、やがて柔らかく微笑んだ。
「良い覚悟だ。だが、無茶だけはするな。坊やには、まだ知らぬことが多すぎる」
「はい」
⸻
その日の夕方、零は聖教会の裏庭で、一人、空を見上げていた。
隣町での出来事は、確かに零の心に、重い影を落としていた。あの黒い装束の者の存在。原因不明の病に苦しむ人々。何もできなかった自分自身への、悔しさにも似た感情。
(俺は、何のために、ここにいるんだろうな)
ふと、そんな問いが胸をよぎる。
見知らぬ場所で目を覚まし、行き倒れ、拾われ、冒険者として最弱のランクからのスタートを切った。そして今、得体の知れない力と、得体の知れない敵の存在を知った。
自分の人生は、これまでもずっと、ままならないことばかりだった。貧しさ、病、孤独――何一つ、自分の思い通りにはいかなかった。
だが。
零は、自分の手のひらを見つめた。
かつて、当たり前のように付き纏っていた痛みや息苦しさが、今は嘘のようにない。それだけでも、十分すぎるほどの奇跡だと、零は思う。
「――零」
声をかけられて振り返ると、聖が立っていた。
「一人で何してるの」
「……ちょっと、考え事」
聖は零の隣に腰を下ろした。しばらくの間、二人は無言で、茜色に染まる空を見上げていた。
「零、怖くないの? あんなものを見て」
聖の問いに、零は少し考えてから答えた。
「怖くないと言えば、嘘になる。正直、今も足が震えてる気がする」
「なのに、逃げないなんて言うのね」
「怖いのと、逃げるかどうかは、別の話だと思うから」
零はそう言って、微かに笑った。
「俺は、これまでずっと、何もできない自分が嫌いだった。病気で、貧しくて、誰の役にも立てなくて。でも今は、少しだけでも、誰かの力になれる可能性がある。だったら、それを使わない理由がない」
聖はしばらく黙っていたが、やがて優しく微笑んだ。
「……あなたは、変わってるわね」
「よく言われる」
「でも、悪い意味じゃないから」
聖の言葉に、零は少し照れくさくなって、視線を逸らした。
「これから、どうするの?」
聖が尋ねる。零はしばらく考えてから、答えた。
「冒険者として、もっと経験を積みたい。この力の正体も、まだ何もわかってない。だったら、いろんなことを経験して、少しずつでも、答えに近づいていきたい」
「それに、あの黒い装束の者のことも?」
「ああ。院長様の話じゃ、また現れるかもしれないんだろう? だったら、今のままの俺じゃ、また同じように、何もできずに終わる」
零は拳を握りしめた。
「もっと、強くなりたい」
その言葉には、確かな決意が宿っていた。
聖は零の横顔を見つめながら、静かに頷いた。
「なら、私も協力するわ。治癒師として、あなたの力になれることがあるはずだから」
「……ありがとう」
夕暮れの空が、少しずつ夜の色に染まっていく。二つの月が、淡い光を放ち始めていた。
零は立ち上がり、その光を見上げた。
まだ、何もわかっていない。この体に眠る力の正体も、あの黒い装束の者の目的も、そして――自分がなぜ、この場所にいるのかも。
だが、絶望の中にいたあの雪の夜とは、確かに何かが違っていた。
あのとき、零はただ、消えていくことを静かに受け入れようとしていた。
今は違う。
わからないことだらけの世界で、それでも、前へ進もうとする自分がいる。
「行こうか」
零がそう言うと、聖は小さく頷いた。
二人は並んで、教会の中へと戻っていく。
見知らぬ世界での最初の一章が、静かに幕を閉じようとしていた。
そしてこれから、零の本当の冒険が――最弱の冒険者としての日々が、本格的に始まろうとしていた。




