第八話「病神の使徒、現る」
その日は、朝から街の空気がどこか張り詰めていた。
零がギルドに顔を出すと、いつもは喧騒に包まれているはずの建物内が、妙に静まり返っている。冒険者たちが、掲示板の前で顔を寄せ合い、何かを囁き合っていた。
「……何かあったのか?」
零が近くにいた顔見知りの冒険者に尋ねると、男は声を潜めて答えた。
「隣町で、妙な事件があったらしい」
「妙な事件?」
「一晩のうちに、村人のほとんどが、原因不明の病に倒れたんだと。しかも、聖教会の治癒魔法が、まるで効かなかったらしい」
零の背筋に、冷たいものが走った。
「治癒魔法が効かない、って……」
「ああ。しかも、現場には妙な痕跡が残ってたそうだ。黒い靄みたいなもんが、村全体を覆ってたって話もある」
そこへ、聖が慌ただしい様子でギルドに駆け込んできた。
「零、いた!」
「聖、どうした」
「教会に、緊急の招集がかかったの。院長様が呼んでる。あなたも一緒に来て」
零は聖に連れられて、教会へと向かった。
⸻
教会の会議室には、院長ヨハネスの他に、聖教会の上級神官たちが数名、険しい表情で顔を揃えていた。
「聖、それに坊やも。ちょうどいい、お前たちにも聞いておいてもらいたい」
院長は重々しい口調で切り出した。
「隣町のことは、もう耳にしたか?」
「はい、噂程度ですが」
「噂ではない。事実だ」
院長は手元の書類――現地から届いた報告書らしきものに目を落とした。
「村人の八割が、原因不明の病に倒れた。高熱、呼吸困難、意識混濁――症状は様々だが、共通しているのは、我々の治癒魔法がほとんど効果を示さないという点だ」
上級神官の一人が、緊張した面持ちで付け加えた。
「現地に派遣した治癒師の報告では、患者の体内に、何か『異質な力』の痕跡があったと。それが治癒魔法の効果を阻害しているのではないか、と」
「異質な力……」
零はその言葉に、なぜか胸がざわつくのを感じた。
「院長様、まさか……」
聖が息を呑むようにそう言うと、院長は静かに頷いた。
「伝承にある『病をもたらす者』の関与を、疑わざるを得ない状況だ」
会議室に、重い沈黙が落ちた。
「病をもたらす者、ですか」
零が尋ねると、院長は零をじっと見つめた。
「古い伝承だ。詳しいことは、まだ話せる段階ではない。だが、こういった異変が起きるたび、その存在が囁かれてきた」
院長はそれ以上、詳細を語ろうとしなかった。まだ確証のない話を、迂闊に広めるわけにはいかないのだろう。
「聖教会は、隣町へ調査団を派遣する。聖、お前も同行してもらう」
「はい」
「坊やも、もしよければ同行してくれるか。お前のその力――正体はわからずとも、何か役に立つ場面があるかもしれん」
零は一瞬、躊躇った。だが、頷くのに、それほど時間はかからなかった。
「わかりました。行きます」
⸻
翌朝、零と聖、そして数名の聖教会の護衛を伴った調査団は、隣町へと向かった。
隣町に着くと、そこには異様な光景が広がっていた。
家々の戸は固く閉ざされ、通りには人の姿がほとんどない。時折すれ違う住人たちは、皆一様に顔色が悪く、覇気のない足取りで歩いている。
「これは……」
聖が絶句する。零も、言葉を失っていた。ただの病というには、あまりにも異様な空気が、町全体を覆っている。
町の中央にある集会所には、簡易的な診療所が設けられ、幾人もの患者が横たわっていた。治癒師たちが忙しなく動き回っているが、その表情には焦りの色が濃い。
「効かないんです……! いくら魔法をかけても、症状が引かない……!」
若い治癒師が、涙目で訴える。
聖はすぐに、患者の一人に駆け寄り、自らの治癒魔法を試みた。だが、聖の顔にも、すぐに困惑の色が浮かんだ。
「……本当だ。効いてる感触はあるのに、すぐに元に戻ってしまう」
零はその光景を、じっと見つめていた。
胸の奥で、何かが微かに疼いている。あの、体の中に眠る「何か」が、この異様な空気に反応しているような感覚があった。
(なんだ、この感じ)
零はそっと、横たわる患者の一人に近づいた。年老いた女性が、荒い呼吸を繰り返しながら、うなされるように呻いている。
零がその手にそっと触れた瞬間――
胸の奥の疼きが、一気に強くなった。
まるで、女性の体の中にある「何か」が、零に向かって語りかけてくるような、そんな奇妙な感覚だった。
「……零?」
聖が怪訝そうに声をかける。零は額に汗を滲ませながら、女性の手を握ったまま、しばらく動けずにいた。
(この病、普通のものじゃない)
根拠はない。ただ、そう確信できた。
そのとき。
集会所の外から、悲鳴が上がった。
零と聖が慌てて外に出ると、町の広場に、黒い靄のようなものが渦を巻いているのが見えた。靄の中心には、人の形をした何かが、ゆっくりと姿を現しつつあった。
全身を黒い装束で覆い、顔には不気味な仮面をつけたその者は、まるで意思を持つ影のように、揺らめきながら立っていた。
「あれは……」
聖が震える声で呟く。
護衛の一人が、剣を抜きながら叫んだ。
「聖女様、下がってください! あれは――」
その言葉が終わる前に、黒い装束の者が、ゆっくりと口を開いた。声にならない、こもった音のような声だった。
「――穢れなき者ヨ。喰ラワレヨ」
その言葉と共に、黒い靄が一気に広がり、周囲の空気そのものが重く淀んでいくのを、零は肌で感じた。
「零、離れて!」
聖の叫びが響く中、零は動けずにいた。
目の前の異形の存在から放たれる、途方もない不快感。それは恐怖であり、同時に――なぜか、零の胸の奥にある「何か」を、強く共鳴させるものでもあった。
(なんだ、これは。俺は、こいつを知っている……のか?)
理由のわからない既視感が、零の胸をよぎる。
黒い装束の者の仮面の奥、暗い眼窩が、まっすぐに零を見据えていた。
見知らぬ町に、確かな異物が、姿を現していた。




