第六話「黒き刃の少女」
依頼を終えて報酬を受け取った翌日、零はギルドの掲示板の前で、また新しい依頼を探していた。
「……今日も、薬草採取か」
F-ランクの零に許された依頼は、相変わらず限られている。だが、それでいいと零は思っていた。焦っても仕方がない。一つずつ、地道に積み重ねていくしかないのだから。
依頼書を選び、受付に向かおうとしたとき、ふと視界の端に、何かが動いた気がした。
振り返っても、誰もいない。ただの人混みだ。
(気のせいか)
そう思いながらも、零は妙な胸騒ぎを覚えた。誰かに見られている――そんな感覚が、うなじの辺りにまとわりついている。
その日の依頼は、街道沿いの排水路の清掃だった。地味な作業だが、誰かがやらなければならない仕事だ。零は黙々と、詰まった落ち葉や泥を取り除いていく。
作業を終え、日が傾き始めた頃、零は近道をしようと、街の裏通りに足を踏み入れた。
――そこで、また同じ気配を感じた。
今度は、はっきりとわかった。誰かが、確かに後をつけてきている。
零は足を止め、静かに振り返った。
「……出てこいよ。わかってるんだろ」
しばらくの沈黙のあと、路地の暗がりから、すっと人影が現れた。
黒装束に身を包んだ、細身の少女だった。フードを目深に被り、腰には複数の短剣を差している。年の頃は零と同じくらいだろうか。フードの隙間から覗く瞳は、鋭く冷たい光を宿していた。
「……気づかれるとはね」
少女の声は、感情の起伏をあまり感じさせない、平坦な響きだった。
「あんた、誰だ。何で俺を尾けてた」
「別に、あんたに興味はない」
少女はぶっきらぼうにそう言うと、腰の短剣に手をかけた。
零は反射的に身構えた。だが、少女は攻撃してくる様子はなく、じっとこちらを観察するように見つめてくるだけだった。
「……水晶を壊した男、って噂で聞いた。それだけ」
「壊した、って人聞き悪いな。数値が低すぎただけだ」
「それも、変な話。この街に来てから、急に現れた。身分も、経歴も、何もかもわからない。そんな人間が、たまたま聖女様に拾われて、たまたま牙獣に襲われて生き延びた」
少女の言葉には、探るような響きがあった。
「疑ってるのか、俺のこと」
「疑って何が悪い。この街には、色んな依頼が持ち込まれる。中には、素性を隠して潜り込んでくる厄介な連中もいる」
零はその言葉で、少女の職業をなんとなく察した。
「……あんた、暗殺者か何かか」
少女は微かに肩をこわばらせたが、すぐに平静を取り戻した。
「答える義理はない」
「別に、答えなくていい。ただ、俺は本当にただの行き倒れだ。疑うだけ無駄だと思うけどな」
「無駄かどうかは、私が決める」
少女はそう言うと、踵を返して立ち去ろうとした。だが、その足が、ふと止まる。
「……名前」
「え?」
「名前、なんて言うの」
零は少し面食らいながらも、素直に答えた。
「零。神代零」
「……夜。黒羽夜」
そう名乗ると、夜は振り返ることなく、路地の暗がりへと溶けるように消えていった。
零はしばらくその場に立ち尽くしていた。
(なんだったんだ、今のは)
疑われているのはわかった。だが、それだけではない、何か別の含みがあるようにも感じられた。
⸻
その夜、零は聖教会に戻り、聖に今日の出来事を話した。
「黒羽夜……」
聖はその名を聞いて、少し驚いたような顔をした。
「知ってるのか?」
「噂だけね。この街のギルドに時々出入りしてる、腕利きの暗殺者兼諜報員。表向きは冒険者だけど、実際は貴族や商会の裏の依頼を受けてるって話」
「そんな奴が、なんで俺を尾けてたんだ」
「さあ……もしかしたら、あなたのことを、誰かに調べるよう頼まれたのかもしれないわね」
聖の言葉に、零は少し不安になった。この街に来て、まだ十日も経っていない。それなのに、もう自分を探る者が現れている。
「厄介事に巻き込まれてなければいいけど」
聖はそう言って、心配そうに零を見た。
「大丈夫だ。俺には、疑われるような後ろ暗いことは何もない」
「それはそうだけど……あなた自身が、まだ何もわかってないでしょう。自分がどこから来たのかも、その力が何なのかも」
聖の指摘は、痛いところを突いていた。零は苦笑するしかなかった。
「……そうだな。何もわかってない。だからこそ、疑われても仕方ないのかもな」
その夜、零は部屋のベッドに横になりながら、昼間の出来事を思い返していた。
黒羽夜という少女の、あの冷たい瞳。疑いと、それだけではない何か。
(また会うことになるんだろうか)
漠然とそんな予感がしたが、答えの出るはずもない。零は静かに目を閉じ、眠りに落ちていった。
⸻
数日後。
零が街の外れで新たな依頼――今度は井戸の清掃をこなしていると、不意に背後から声がかかった。
「……手伝う」
驚いて振り返ると、そこに立っていたのは、黒羽夜だった。フードを外し、素顔を晒している。整った顔立ちに、どこか警戒心を滲ませた表情。
「手伝う、って……なんでだ」
「暇だから。それだけ」
夜はそう言うと、勝手に井戸のロープを取り、慣れた手つきで作業を始めた。零は戸惑いながらも、その様子を見つめる。
「この前は、俺を疑ってたんじゃないのか」
「疑いは、まだ晴れてない」
「なのに手伝うのか」
「……近くで見張ってた方が、都合がいい。それだけ」
夜の口調は素っ気なかったが、零はなぜか、それが本心の全てではないような気がした。
作業を進めながら、零はふと尋ねた。
「暗殺者なんだろ、お前。こんな地味な仕事、退屈じゃないのか」
「地味な仕事の方が、性に合ってる。派手な依頼ばかりが、仕事じゃない」
夜はそう言うと、ふいに手を止めて、零の方を見た。
「……あんた、変わってる」
「え?」
「疑われてるのに、普通に接してくる。大抵の人間は、もっと怯えるか、逆ギレするか」
「別に、疑われて当然だと思ってるだけだ。俺自身、自分のことがよくわかってないんだから」
その素直な答えに、夜は僅かに目を見開いた。そして、それ以上何も言わず、また作業に戻った。
井戸の清掃を終える頃には、日が傾き始めていた。
「……ありがとな、手伝ってくれて」
零が礼を言うと、夜は小さく頷いた。
「別に、礼を言われるようなことじゃない」
そう言い残し、夜は踵を返して歩き去っていく。だが、その背中は、最初に会ったときよりも、心なしか強張りが解けているように、零には見えた。
(少しは、疑いが晴れたのかな)
零はそんなことを考えながら、井戸の前に立ち、夕暮れの空を見上げた。
見知らぬ場所での日々は、少しずつ、確かに動き始めていた。
一人、また一人と、零の周りに、新しい繋がりが生まれつつあった。




