第五十一話「母の夢」
その夜、零は、久しぶりに、深い眠りに落ちた。
夢の中で、零は、雪の降る、見知らぬようで、どこか懐かしい路地に立っていた。
「――零」
聞き覚えのある声に、零は、振り返った。そこに立っていたのは、若い頃の姿をした、母だった。
「母さん……?」
母は、優しく微笑みながら、零に歩み寄ってきた。
「大きくなったわね」
「これ、夢、なのか」
零が戸惑いながら尋ねると、母は、ただ、静かに微笑むだけだった。
「零、あなたは、よく頑張ってる」
「母さん、俺――」
言いたいことは、たくさんあった。だが、言葉が、うまく出てこない。
母は、そんな零を、優しく抱きしめた。あの、忘れられない、温かい感触。
「大丈夫。あなたは、一人じゃない」
「でも、俺、まだ、何も、成し遂げられてない。みんなを、救いきれてない」
零が、思わずそう吐露すると、母は、静かに首を振った。
「零、覚えてる? あなたが小さい頃、よく熱を出して、寝込んでいたときのこと」
「……ああ」
「あのとき、私、あなたに、よくこう言ったでしょう。『焦らなくていい。今日一日を、生き抜くこと自体が、もう十分に、頑張ってることなんだから』って」
零は、その言葉を、確かに覚えていた。
「今も、同じよ。あなたは、たくさんの人を、救ってきた。それを、決して、無駄だなんて思わないで」
母の言葉は、先日の紫苑の言葉と、どこか重なっていた。
「零、もう一つ、大事なことを、伝えておきたいの」
母の表情が、少し真剣なものに変わった。
「あなたの中にある、その力。それは、あなたが、これまで背負ってきた、たくさんの苦しみが、形を変えたもの」
「知ってる。俺の、病気が――」
「ええ。でも、それだけじゃない」
母は、零の胸に、そっと手を当てた。
「その力は、あなたが、諦めずに、生きようとし続けた、その意志そのものでもあるのよ」
零は、母の言葉を、静かに噛みしめた。
「だから、零。どんなに辛くても、絶望的に見えても――生きたいと願う心を、絶対に、手放さないで」
その言葉と共に、母の姿が、次第に、光の中に溶けていくように、薄れ始めた。
「母さん、待って……!」
「大丈夫よ、零。あなたなら、きっと」
その言葉を最後に、零の意識は、静かに、現実へと引き戻されていった。
⸻
「――っ」
零は、はっと目を覚ました。全身に、じんわりと汗をかいている。だが、不思議と、心は、これまでになく、静かに凪いでいた。
(母さんの、夢……)
現実か、それとも、単なる夢か、零自身にも、判断がつかなかった。だが、あの温もりと、言葉だけは、確かに、胸の中に、深く刻まれていた。
「――どんなに辛くても、生きたいと願う心を、絶対に、手放さないで」
零は、静かに、自分の胸に手を当てた。
窓の外には、まだ、夜明け前の、薄暗い空が広がっている。
零は、静かに立ち上がり、窓辺に立った。
(俺は、まだ、諦めるわけにはいかない)
母の言葉、そして、これまで出会ってきた、多くの人々の想い。それらを胸に、零は、静かに、次なる一歩を踏み出す決意を、改めて固めていった。
夜明けの薄明かりが、少しずつ、都の街並みを、優しく照らし始めていた。
見知らぬ、しかしどこか懐かしいこの都で、零の心は、母の夢によって、また一つ、確かな強さを取り戻していくのだった。




