第三十九話「合掌造りの村」
雪山を越えて、二日が経った頃、ようやく前方に、白川郷の集落が見えてきた。
「あれが……」
聖が、感嘆の声を漏らした。急勾配の茅葺き屋根を持つ、独特の建築様式の家々が、雪景色の中に、静かに佇んでいる。
だが、その美しい光景とは裏腹に、集落全体から漂う空気は、これまでの村々と同じように、重く沈んでいた。
「零、無理はしないでね」
聖の言葉に、零は小さく頷いた。雪山を越えたことで、体力は、これまで以上に消耗していた。だが、幸い、あの咳の発作は、しばらく起きていない。
「大丈夫だ。ゆっくり進もう」
集落の入り口に近づくと、一人の老婆が、杖をつきながら、ゆっくりと歩いてくるのが見えた。
「……お客人か。珍しいこともあるもんじゃ」
老婆は、零たちを見て、驚いたように目を見開いた。
「実は、この集落の様子を、聞きつけて参りました」
花霞が、丁寧に頭を下げながら、そう切り出した。老婆は、しばらく黙り込んだ後、深く息を吐いた。
「……ならば、ちょうどよい。この村にも、あの祟りが、及んでおる」
「祟り……?」
零が尋ねると、老婆は、家の奥へと、零たちを案内した。
⸻
老婆の家の中には、囲炉裏を囲むようにして、数人の村人が、力なく横たわっていた。皆一様に、顔色が悪く、荒い呼吸を繰り返している。
「三月ほど前からじゃ……。この村の裏手にある、古い祠――その封が、緩んでしまったようでな」
「封……。何を、封じていたんですか」
聖の問いに、老婆は、声を潜めて答えた。
「大昔、この地には、疫病をもたらす、悪しき神が、棲みついておったそうな。村の先祖が、命懸けで、それを祠に封じ込めたと、代々語り継がれておる」
零は、思わず息を呑んだ。
(疫病をもたらす、悪しき神……。まさか)
これまでの旅で耳にしてきた、「病神」という存在。この島国にも、その影響が、古くから及んでいたのかもしれない。
「その祠、案内していただけますか」
零がそう頼むと、老婆は、僅かに躊躇いながらも、頷いた。
「……お若いの、無理はせんでくれよ。顔色が、あまりよろしくない」
老婆の指摘に、零は、苦笑するしかなかった。旅の疲れが、まだ抜けきっていないのは、傍から見ても明らかなようだった。
「大丈夫です。ここまで来て、引き返すわけにはいきません」
零の言葉に、老婆は、それ以上、何も言わなかった。ただ、深い皺の刻まれた顔に、静かな心配の色を滲ませるだけだった。
⸻
集落の裏手にある祠へと向かう道は、さらに険しい雪道だった。
「零、本当に大丈夫? 顔色、また悪くなってきてる」
聖が、心配そうに何度も声をかける。零は、額に滲む冷や汗を拭いながら、なんとか歩き続けた。
「平気だ……まだ、動ける」
だが、内心では、体の奥に、あの重苦しい感覚が、じわじわと戻ってきているのを感じていた。標高の高さ、寒さ、そして連日の疲労――それらが、容赦なく、零の弱い体を蝕んでいく。
「――少し、休んだ方がいい」
夜が、鋭くそう指摘した。
「でも、もう祠まで、あと少しだろう」
「あと少しだからこそ、ここで無茶して、また倒れたら意味がない」
夜の言葉には、有無を言わさぬ強さがあった。零は、悔しさを堪えながらも、素直に頷いた。
「……わかった。少しだけ、休ませてくれ」
雪の中、木の幹に寄りかかるようにして座り込むと、零は、荒い息を、静かに整えようとした。
(情けないな。祠まで、あと少しだって言うのに)
だが、無理をして倒れれば、それこそ本末転倒だ。院長の言葉、灰堂の教え、そして仲間たちの言葉――それら全てが、今の零に、「焦るな」と語りかけているようだった。
「零殿」
花霞が、静かに零の隣に膝をついた。
「そなたの弱さは、決して恥ではございません。ですが、その弱さと共に生きるということは、時に、待つこと、休むことを、選ぶ勇気を持つということでもございます」
花霞の言葉に、零は、静かに頷いた。
「……そうですね。少し、我慢が足りなかったかもしれません」
「無理をせぬこと。それもまた、強さの一つの形にございますよ」
しばしの休息を経て、零の呼吸は、なんとか落ち着きを取り戻した。まだ完全に本調子ではないが、なんとか、歩を進められる程度には回復している。
「よし……行けそうだ」
零がそう言うと、聖、夜、熊谷、花霞は、それぞれ頷いた。
雪の積もった道を、五人は、慎重に、しかし確かに、祠のある方角へと歩みを進めていった。
見知らぬ、しかしどこか懐かしいこの島国の奥深く。零の病弱な体を抱えた旅は、仲間たちの支えと、休むことを選ぶ勇気を胸に、一歩ずつ、その先へと続いていくのだった。




