第三十八話「白川郷の伝承」
村での療養から一週間が過ぎた頃、零の体調は、ようやく歩き回れる程度にまで回復していた。だが、以前のような軽やかさは、まだ戻っていない。少し動くだけで、息が上がりやすくなっている自分を、零は感じていた。
「まだ、本調子じゃないみたいね」
聖が、零の様子を見ながら、心配そうに呟いた。
「情けない話だけど、そうみたいだ。以前より、疲れやすくなってる気がする」
零がそう答えると、花霞が、静かに口を挟んだ。
「無理を重ねた後は、以前よりも、慎重になるのが道理にございます。焦らず、体の声に耳を傾けなされ」
村の異変――あの黒い霧の正体は、依然として掴めていなかった。だが、花霞や夜の警戒のおかげか、それ以来、目立った襲撃はなく、村人たちも、少しずつ落ち着きを取り戻していた。
「この村だけじゃない。もっと奥にある、白川郷という土地にも、同じような話があるらしい」
夜が、村人から聞き込んだ情報を、皆に共有した。
「白川郷……」
零は、その響きに、微かな興味を覚えた。
「合掌造りっていう、独特の建築様式で有名な集落らしいわ。雪深い土地で、古くからの信仰が、色濃く残ってるって」
聖の説明に、零は頷いた。
「行ってみよう。何か、手がかりがあるかもしれない」
⸻
だが、白川郷へ向かう道のりは、これまで以上に過酷なものだった。山深い雪道を、幾日もかけて進まなければならない。
「零、大丈夫? 顔、白いわよ」
雪道を進みながら、聖が、何度も零の様子を確認していた。
「……大丈夫、だと思う」
だが、その言葉とは裏腹に、零の息は、次第に荒くなっていった。標高が上がるにつれ、空気が薄くなる。それが、まだ本調子ではない零の体には、これまで以上の負担となっていた。
「――っ、げほっ……!」
不意に込み上げた咳に、零は、思わず足を止めた。
「零!」
聖が、慌てて駆け寄る。零は、口元を押さえながら、荒い息を繰り返した。手のひらに、微かに赤い染みが滲む。
「また、なの……?」
聖の声には、深い心配が滲んでいた。
「悪い……。少し、休ませてくれ」
零は、雪の積もった木の根元に、崩れるように腰を下ろした。全身が、鉛のように重い。
「熊谷、少し休憩を」
聖の声に、熊谷が、すぐに周囲の安全を確認しながら、簡易的な休憩の場を整えた。
「零、無理しすぎだべ。もっと早く、言ってくれてよかったんだぞ」
熊谷の言葉に、零は、力なく笑った。
「みんなに、迷惑かけたくなかったんだ」
「迷惑だなんて、誰も思ってねえべ」
熊谷は、そう言いながら、零の背中を、優しくさすってくれた。
花霞も、静かに零の傍に膝をついた。
「零殿。この雪山は、慣れた者にとっても、過酷な道のり。無理をなさる必要は、ございません」
「でも、白川郷まで、あと少しなんだろう?」
「あと少し、とはいえ、そなたの体には、既に大きな負担がかかっておりましょう」
花霞の指摘に、零は、反論できなかった。実際、視界の端が、また白く霞み始めている。
「……俺は、大丈夫だ。少し休めば」
そう言いながらも、零の声には、明らかな弱々しさが滲んでいた。
夜が、少し離れた場所から、静かにこちらを見つめていた。
「零、あんた、本当に無理ばかりする」
「悪い」
「謝るのは、もういい。ただ」
夜は、珍しく、真剣な表情で続けた。
「あんたが倒れたら、私たちがどれだけ心配するか、少しは考えて」
その言葉に、零は、胸を締め付けられる思いだった。
「……わかった。次からは、もっと早く、体調が悪いことを、ちゃんと伝えるようにする」
「それでいい」
⸻
しばしの休憩と、聖の治癒魔法のおかげで、零は、なんとか歩き出せる程度にまで、体力を回復させた。だが、以前のような軽快さは、まだ戻っていない。
一歩一歩、雪を踏みしめながら進む道のりは、零にとって、これまでのどんな戦いよりも、地道で、辛抱を要するものだった。
(体が弱いって、こういうことなんだよな)
華々しい戦いよりも、こうした日常の積み重ねの中でこそ、自分の弱さは、より鮮明に姿を現す。だが、それでも、零は、一歩ずつ、前へと足を進め続けた。
「零、大丈夫? もう少しで、休憩できる場所があるみたい」
聖の励ましの声に、零は、小さく頷いた。
「ああ、大丈夫だ。ありがとう」
雪の降りしきる山道を、零たちは、互いに支え合いながら、慎重に進んでいった。
見知らぬ、しかしどこか懐かしいこの島国の、さらに奥深く。零の病弱な体を抱えた旅は、仲間たちの支えを受けながら、それでも確かに、続いていくのだった。




