第三十五話「妖の棲む森」
その夜、零は、村の集会所の片隅で、横になっていた。聖の治癒魔法と、しばしの休息で、呼吸はいくらか落ち着いていたが、体の奥に居座る重さは、まだ完全には消えていない。
「零、眠れる?」
聖が、そっと様子を見にきた。
「……ああ、大丈夫だ」
だが、その声には、明らかな弱々しさが滲んでいた。聖は、心配そうに零の額に触れた。
「熱があるわ。少し、高いみたい」
「熱……?」
零は、自分の状態を、あまり正確に把握できていなかった。異世界に来てから、こうして本格的に体調を崩すのは、久しぶりのことだった。
「無理に動いたから、悪化したのかもしれない。今夜は、しっかり休んで」
聖は、そう言うと、水に浸した布を、零の額に当てた。ひんやりとした感触が、少しだけ、火照った体を楽にしてくれる。
「……悪いな、こんなことまで」
「謝らないで。私は、治癒師なんだから。あなたを癒すのが、私の役目よ」
聖の優しい声に、零は、静かに目を閉じた。
⸻
夜半、零は、うなされるような浅い眠りの中で、ふと、目を覚ました。
体は、まだ怠く、熱っぽい。だが、それ以上に、何か、胸騒ぎのようなものを感じていた。
「……夜?」
見張り番をしていたはずの夜の姿が、集会所の中に見当たらない。
零は、重い体を引きずるようにして起き上がった。
「零、無理しないで」
異変に気づいた聖が、慌てて駆け寄る。
「夜がいない。何かあったのかもしれない」
「私が見てくる。あなたは、休んでて」
聖がそう言って外に出ようとしたとき、集会所の入り口から、夜が、静かに戻ってきた。
「……悪い、少し、様子を見に行ってた」
「夜、どこに」
「村の裏手にある、森。妙な気配がしたから」
夜の言葉に、零は、体を起こそうとした。だが、めまいがして、思わずよろめく。
「――っ」
「零、無理しないでって言ったでしょう!」
聖が、慌てて零を支えた。
「悪い……。夜、何かわかったのか」
夜は、少し表情を曇らせながら、答えた。
「森の奥に、何かが潜んでる。人の形をした、影のようなもの。ただの魔物とは、明らかに違う気配」
「病神の関係者か」
「わからない。でも、可能性は高いと思う」
零は、なんとか気力を振り絞って、立ち上がろうとした。だが、聖が、それを押しとどめた。
「零、今のあなたじゃ、戦力にならない。無理に行こうとしないで」
「でも……」
「熊谷と私で行く。夜も一緒に。あなたは、ここで、村の人たちを見ていて」
聖の言葉には、有無を言わさぬ強さがあった。零は、悔しさを堪えながらも、頷くしかなかった。
「……わかった。頼む」
聖、夜、熊谷が、慎重に森へと向かっていく。零は、その背中を見送りながら、自分の不甲斐なさに、拳を握りしめた。
(また、俺だけ、何もできない)
熱に浮かされる意識の中、零は、静かに天井を見上げた。
(こんな時にまで、体が言うことを聞いてくれない)
かつて、母を亡くしたあの冬も、自分の体は、いつも足枷のようだった。何かをしたいと思うたびに、体がそれを許してくれない。異世界に来て、その呪縛から解放されたと思っていたのに、今、こうしてまた、無力な自分に引き戻されている。
⸻
しばらくして、聖たちが戻ってきた。
「零、大丈夫? 森には、確かに、何かの気配があったけど、直接の遭遇はなかったわ」
聖の報告に、零は、僅かに安堵の息を吐いた。
「怪我人は」
「いない。だけど、明らかに、何かがこの村に近づいてきてる。用心が必要ね」
夜が、険しい表情で付け加えた。
「零の体調が戻るまで、ここで待機した方がいい。万全じゃない状態で、また敵と遭遇するのは危険」
その言葉に、零は、複雑な思いを抱いた。仲間の判断は正しい。だが、自分の体の弱さが、旅の足を止める理由になっていることが、どうしようもなく悔しかった。
「……悪い。俺のせいで」
「あんたのせいじゃない」
夜が、きっぱりとそう言った。
「体が弱いのは、あんたが選んだことじゃない。それを責めるのは、お門違い」
その言葉には、いつになく、強い温かさが滲んでいた。
「零、焦らないで。あなたが元気になるまで、私たちが村を守るから」
聖も、優しくそう言った。
零は、静かに頷くしかなかった。
熱に浮かされながらも、零は、ふと、自分の中に眠る力のことを思った。
(苦しみを、糧にする力……なら)
この病弱な体そのものが、いつか、確かな力の源になるのかもしれない。そう信じることでしか、今の零は、この不甲斐なさに、耐えることができなかった。
窓の外には、この島国特有の、澄んだ夜空が広がっている。
見知らぬ、しかしどこか懐かしいこの土地で、病弱な体を抱えながらも、零の旅は、仲間たちに支えられながら、続いていくのだった。




