第三十四話「隠れ里の病」
村の中に足を踏み入れると、そこには、静まり返った、異様な光景が広がっていた。
軒先に吊るされた提灯には、灯りが入っていない。畑には、収穫されないまま朽ちかけた作物が、無残に散らばっている。
「誰も、いないのか……?」
零が呟くと、家の奥から、弱々しい声が返ってきた。
「……誰か、そこにいるのは……」
声のする方向へ向かうと、一軒の家の戸口に、痩せ細った老爺が、力なくもたれかかっていた。
「大丈夫ですか」
零が駆け寄ると、老爺は、霞んだ目で零たちを見上げた。
「異国の……お方か……。すまねえが……水を……」
聖がすぐに水筒を差し出し、老爺に飲ませる。老爺は、ゆっくりとそれを飲み下すと、僅かに息を整えた。
「この村は、いったい、何が……」
「三月ほど前からじゃ……。夜になると、黒い霧のようなものが、山から降りてくる……。それを吸い込んだ者から、順に、こうして倒れていった……」
老爺の言葉に、零たちは、顔を見合わせた。
「今、村に、他に動ける方は」
「若い衆は……皆、隣の宿場まで、助けを呼びに行った……。じゃが、もう十日は経つのに……戻ってこねえ……」
その言葉に、零の胸が、不吉な予感で締め付けられた。
⸻
村の集会所に、辛うじて動ける住人たちを集め、聖が治癒魔法を施し始めた。だが、これまでと同様、症状は根本的には改善しない。
「くっ……ここでも、同じ……」
聖が、悔しそうに唇を噛む。零も、無力感に苛まれながら、患者たちの様子を見て回っていた。
そのとき、零自身の体にも、異変が起きていた。
(まただ……)
慣れない気候、連日の緊張と疲労、そして――この村を包む、あの重苦しい「穢れ」のような空気。それらが、じわじわと、零の体を蝕んでいる。
胸の奥が、鉛のように重い。呼吸をするたびに、微かな痛みが走る。
「零、顔色が悪いわ。少し休んで」
聖が気づいて、駆け寄ってくる。零は、首を振ろうとしたが、その瞬間、激しい咳の発作に襲われた。
「――ッ、げほっ、ごほっ……!」
「零!」
零は、その場に片膝をついた。喉の奥から込み上げる、鉄の味。手のひらに広がる、赤黒い染み。
「大丈夫、大丈夫だから……」
そう言おうとしたが、声にならなかった。視界が、じわりと霞んでいく。
「零、無理しないで! お願い、休んで!」
聖の悲鳴のような声が、遠くで聞こえた。零は、自分の不甲斐なさに、奥歯を噛みしめた。
(こんなところで、倒れてる場合じゃないのに)
村人たちは、今も苦しんでいる。仲間たちも、力を尽くしている。それなのに、自分だけが、この体の弱さのせいで、足を引っ張っている。
「零、無理すんな! ちょっとの間でいい、休め!」
熊谷の大きな手が、そっと零の背中を支えた。
「悪い……」
「謝るな。誰だって、限界はあるべ。それに」
熊谷は、優しく続けた。
「無理して倒れて、誰も助けられなくなる方が、よっぽど困るべ。今は、休むのも、大事な役目だ」
夜も、少し離れた場所から、静かに零を見つめていた。
「零。あんたが倒れたら、誰が困ると思う?」
「……それは」
「私たちだよ。あんたがいなきゃ、この旅、続けられない」
夜の素っ気ない、しかし確かな言葉に、零は、胸が締め付けられる思いだった。
⸻
聖の治癒魔法と、しばしの休息のおかげで、零の呼吸は、なんとか落ち着きを取り戻した。だが、体の奥に残る重さは、簡単には消えてくれない。
「零、少し、話を聞いてくれる?」
落ち着いた頃合いを見て、聖が、真剣な表情で口を開いた。
「これから先、こういう場面は、きっと何度もあると思う。あなたの体は、無理をすると、こうして症状が出てしまう。それ自体は、責めることじゃない」
「でも、足を引っ張ってる」
「そうじゃない」
聖は、はっきりとそう言った。
「あなたは、これまでだって、その体で、たくさんの人を助けてきた。トビアス君に言った言葉、覚えてる? 『病気は、その人の価値を決めるものじゃない』って」
零は、静かに聖の言葉に耳を傾けた。
「あなた自身が、その言葉を、一番信じるべきだと思う。無理をしないことも、時には、大切な戦い方の一つよ」
聖の言葉には、深い思いやりが込められていた。零は、しばらく黙り込んだ後、静かに頷いた。
「……そうだな。ありがとう、聖」
零は、自分の胸に、そっと手を当てた。
かつて、雪の夜、母に言われた言葉を思い出す。
――零、あなたは、生きてるだけで、十分偉いのよ。
あの言葉を、今、改めて噛みしめる。
体が弱いことは、恥ではない。ただ、その弱さと、正しく向き合いながら、それでも前へ進む方法を、探し続ければいい。
「よし……できることから、やろう」
零は、ゆっくりと立ち上がった。まだ本調子ではないが、先ほどよりは、いくらか呼吸が楽になっている。
「今は、無理のない範囲で、村の人たちの様子を見て回る。それでいい」
聖も、夜も、熊谷も、それぞれ頷いた。
村を覆う、重苦しい「穢れ」の正体は、まだわからない。だが、零たちの旅は、それぞれの弱さと向き合いながらも、確かに、前へと進み続けていた。




