第三十三話「京の都へ」
山霊との邂逅から、二日目の夜だった。
険しい山道を進み続けたことで、零の体には、これまでにない疲労が蓄積していた。
「零、大丈夫? さっきから、息が浅い気がするけど」
聖が、野営の焚き火を囲みながら、心配そうに尋ねた。
「……ちょっと、疲れただけだ」
零は、そう言って笑ってみせたが、内心では、体の異変を、はっきりと感じ取っていた。
慣れない山道、標高の変化、そして連日の緊張――それらが、少しずつ、零の体に負荷をかけ続けていた。癒えたはずの体の奥に、あの馴染みの重さが、じわじわと戻ってきている。
夜になり、皆が寝静まった頃、零は、一人、咳の発作に襲われていた。
「……っ、げほ、ごほっ……!」
口元を押さえ、必死に声を殺す。だが、込み上げてくる咳は、そう簡単には収まってくれなかった。
手のひらに広がる、赤黒い染み。それを見つめながら、零は、深く息を吐いた。
(また、か)
異世界に来て、あれほど身軽になったと思っていた体。だが、無理を重ねれば、こうして、簡単にその脆さが顔を出してしまう。
「……零?」
背後から、静かな声がした。振り返ると、夜が、寝ずの番をしていたのか、じっとこちらを見つめていた。
「起きてたのか」
「見張り番、当番だから。それより――今の、大丈夫?」
夜の視線は、零の手のひらに残る血の跡に、まっすぐ注がれていた。
「……大丈夫だ。少し、無理しただけ」
「無理って、何を無理したの」
夜の問いに、零はしばらく言葉を探した。ごまかしても、この鋭い少女には、通用しないだろう。
「昔から、こうなんだ。体力の限界を超えると、こういう症状が出る。異世界に来て、随分ましになったと思ってたけど……完全に消えたわけじゃ、なかったみたいだ」
夜は、しばらく黙って零を見つめていた。
「……無茶な奴」
「悪い」
「謝る前に、休め。明日も、山道が続く」
夜の言葉には、素っ気なさの中に、確かな気遣いが滲んでいた。零は、素直にその言葉に従い、横になった。
だが、なかなか寝付けなかった。息をするたび、胸の奥に、鈍い痛みが走る。
(情けないな、本当に)
力は、少しずつ育っている。だが、それとは裏腹に、根本にあるこの体の脆さは、決して消えてなくなったわけではない。むしろ、力を使えば使うほど、その代償のように、この症状が顔を出す。
翌朝、零は、なんとか体を起こしたものの、顔色は、明らかに優れなかった。
「零、無理しないで。今日は、ゆっくり進みましょう」
聖が、心配そうに零の顔を覗き込みながら言った。
「……悪い、迷惑かけて」
「迷惑だなんて、思ってないわ。ただ、心配なの」
聖は、そう言うと、零の背中に、そっと手を当てた。淡い治癒の光が、体を優しく包み込む。
「これで、少しは楽になるはずよ」
聖の魔法のおかげで、多少は呼吸が楽になった。だが、根本的な疲労までは、消えてはくれない。
「熊谷、悪いが、今日は少しペースを落としてもらえるか」
零がそう頼むと、熊谷は、快く頷いた。
「もちろんだべ。無理は禁物だ。それに」
熊谷は、豪快に笑いながら続けた。
「零、お前さん、体は弱いかもしれねえけど、心はちっとも弱くねえべ。だから、そういうときは、遠慮なく頼れよ。俺たちは、仲間なんだからよ」
その言葉に、零は、胸が温かくなるのを感じた。
「……ありがとう」
⸻
ペースを落としながら進んだこともあり、一行が目的の村に到着したのは、予定より半日ほど遅れてのことだった。
村に近づくにつれ、周囲には、これまでの旅で幾度となく目にしてきた、あの重苦しい空気が漂い始めていた。
「この感じ……」
聖が、緊張した面持ちで呟く。零も、静かに頷いた。
「間違いない。ここにも、あの脅威が」
だが、体調が万全ではない今の零にとって、その戦いに、どこまで貢献できるかは、正直なところ、不安が拭いきれなかった。
(それでも、行くしかない)
零は、痛む胸を押さえながら、静かに拳を握りしめた。
村の入り口に立つ、古びた鳥居が、夕暮れの中、静かに佇んでいる。
その先に広がる村の様子を、零たちは、緊張した面持ちで見つめた。
見知らぬ、しかしどこか懐かしいこの島国で、零の――病弱な体を抱えながらも、決して諦めない、その旅は、また新たな試練へと向かおうとしていた。




