第三十二話「富士の山霊」
翌朝、零たちは、山の村を目指して、街道を歩き始めていた。
「三日、と言ってたわね」
聖が、地図代わりに描いてもらった簡単な絵図を確認しながら呟いた。
「道中、何があるかわからない。気を引き締めていこう」
零がそう言うと、夜が静かに頷いた。
「この国の魔物――というか、妖の類は、私たちの知る魔物とは、また違う性質を持ってるかもしれない。油断は禁物」
道中、山道に差し掛かると、周囲の空気が、次第に変わっていくのを、零は肌で感じた。木々の緑が深くなり、時折、見たこともない鳥の鳴き声が響く。
「なんか、独特の雰囲気だべなぁ」
熊谷が、周囲を見渡しながら呟いた。
「霊的な気配が強い土地、って感じがする」
聖の言葉に、零も同意した。この国全体に、これまで訪れたどの土地とも異なる、静謐で、しかしどこか神秘的な空気が流れている。
一日目の野営を終え、二日目の道中に差し掛かった頃、突如として、山道の先に、白い霧が立ち込め始めた。
「――なんだ、これ」
零が足を止めると、霧はみるみるうちに濃くなり、視界が数メートル先も見えないほどになった。
「これは、只事じゃないわね」
聖が、緊張した面持ちで周囲を見回す。
「零、あんたの『それ』、反応してる?」
夜の問いに、零は自分の胸に手を当てた。あの馴染みの熱が、微かに疼いている。
「……ああ、何かいる」
霧の奥から、ゆっくりと、巨大な影が姿を現した。それは、これまで見てきたどんな魔物とも異なる姿をしていた。
全身が、雪のように白い毛で覆われた、狼にも似た巨躯。だが、その額には、一本の鋭い角が生え、瞳は、燃えるような赤い光を宿している。
「――何者ゾ、我ガ山ニ、踏ミ入ル者」
その声は、これまで聞いてきた「病神の使徒」たちの、こもった不気味な声とは、明らかに異なるものだった。むしろ、荘厳で、どこか神聖な響きすら感じられた。
「あなたは……」
聖が、恐る恐る問いかける。白い獣は、ゆっくりと零たちを見回した。
「我ハ、コノ富士ノ山ニ棲ム、山霊ナリ」
「山霊……」
零は、その言葉を、静かに繰り返した。
「――ソナタラ、異国ノ者ト見エルガ、ソノ中ノ一人、奇妙ナ気配ヲ纏ウテオル」
山霊の視線が、まっすぐに零へと向けられた。
「奇妙な気配、というのは……」
「病ノ匂イト、生ノ匂イガ、混ジリ合ウテオル。ソレデイテ、コノ地ニ、既ニ縁アル者ノ如キ、不思議ナ気配モ、感ジル」
その言葉に、零は息を呑んだ。
(この地に、既に縁がある……?)
理由はわからない。だが、この島国に足を踏み入れてから感じ続けている、あの言いようのない懐かしさと、山霊の言葉が、どこか重なるように思えた。
「俺は、この国に来るのは、初めてのはずです」
零が正直にそう告げると、山霊は、しばらく黙って零を見つめていたが、やがて、静かに口を開いた。
「――魂ノ縁ハ、時ニ、肉体ノ記憶ヲ超エルモノ」
その言葉の意味を、零は、すぐには理解できなかった。
「山霊様、私たちは、この先の村に向かう途中です。実は、村で原因不明の病が広まっていると聞いて」
聖が、話を切り出すと、山霊の瞳に、僅かな影が差した。
「――アノ村ノコトカ。ワシモ、感ジテオル。穢レタ気配ガ、村ヲ蝕ンデイルコトヲ」
「穢れた気配……?」
「病神ノ眷属ト思シキ者ノ、影ガアル」
その言葉に、零たちは、緊張を強めた。この見知らぬ島国にも、既に、あの脅威の魔手が伸びていたのだ。
「山霊様、お力を貸していただけませんか」
零が、率直に頼み込むと、山霊は、しばらく考えるように沈黙した。
「――ワシハ、コノ山カラ、離レルコトハデキヌ。ジャガ」
山霊の口から、微かな光の粒子のようなものが放たれ、それが、ふわりと零の胸元へと吸い込まれていった。
「な、なんだ、これは……!」
「――ワシノ加護ノ、僅カナ欠片。ソナタラノ旅路ニ、微カナ助ケトナロウ」
山霊は、そう告げると、ゆっくりと霧の中へと姿を消していこうとした。
「――一ツ、忠告シテオコウ」
去り際、山霊は、零に向かって、静かに告げた。
「ソナタ自身ノ、真ノ姿。イズレ、知ル時ガ来ヨウ。ジャガ、ソレヲ知ルコトガ、必ズシモ、幸ト限ラヌ」
その言葉を最後に、山霊は霧と共に、姿を消していった。
⸻
霧が晴れた後、零たちは、しばらくの間、無言のまま立ち尽くしていた。
「今の言葉、気になるわね」
聖が、心配そうに零を見つめた。
「零、大丈夫? 顔色、あまり良くないわ」
「……ああ、大丈夫だ。ただ」
零は、自分の胸に手を当てた。山霊から授かった、微かな加護の力が、そこに確かに宿っているのを感じる。
(真の姿、か)
これまでも、何度となく感じてきた、正体不明の違和感。それが、また一つ、深まったような気がした。
「零、あの山霊が言ってた、『縁がある』ってこと、心当たりある?」
夜の問いに、零は静かに首を振った。
「まったく。ただ……この国に来てから、なぜか、懐かしい感じがずっとしてる」
「懐かしい……」
熊谷が、腕を組みながら唸った。
「零、お前さん、案外、この国に、何か関わりがあんのかもしれねえな」
その可能性を、零自身も、否定しきれずにいた。
だが、今は、それよりも優先すべきことがある。
「とにかく、村に急ごう。病が広まってるっていうなら、一刻を争う」
零がそう言うと、聖、夜、熊谷は、それぞれ頷いた。
霧の晴れた山道を、四人は、再び歩き始めた。
見知らぬ、しかしどこか懐かしいこの島国で、零の旅は、また新たな謎を抱えながら、続いていくのだった。




