第三十一話「異国の地、日本」
ポートヘイヴンを出港してから、七日目の朝だった。
「――見えたぞ! 陸地だ!」
甲板に立っていた船員の声に、零たちは、慌てて船首へと駆け寄った。
水平線の彼方に、緑豊かな山々の連なりが、うっすらと姿を現し始めている。
「あれが、日ノ本……」
聖が、感嘆の声を漏らした。零もまた、その光景に、言葉を失っていた。
不思議な感覚だった。初めて訪れるはずの場所なのに、なぜか、胸の奥に、微かな懐かしさのようなものが込み上げてくる。
(なんでだろうな、この感じ)
理由はわからない。だが、この島国の輪郭を目にした瞬間から、零の中の何かが、静かにざわめき始めていた。
⸻
船が入港したのは、日ノ本の南方に位置する、小さな港町だった。
「これは……」
甲板を降りた零たちは、これまで見てきたどの街とも異なる光景に、思わず立ち尽くした。
木造の家々が軒を連ね、瓦葺きの屋根が整然と並んでいる。行き交う人々の服装も、着物と呼ばれる、独特の装束を纏っていた。
「言葉、通じるかしら」
聖が、不安げに呟く。だが、零は、なぜか不思議な確信があった。
「大丈夫だと思う。行ってみよう」
港の近くにあった小さな茶屋に足を運ぶと、店主らしき初老の女性が、驚いた様子で零たちを見つめた。
「おや、めずらしいお客さんだねぇ。異国の方かい?」
その言葉を、零は、当たり前のように理解できた。
「はい。海を渡って来ました」
「ほう、それはそれは。まあ、座りなさいな」
聖が、驚いたように零を見た。
「零、今の言葉、わかったの?」
「ああ、普通に。聖は、わからないのか?」
聖は、困惑した表情で首を振った。
「私には、聞き取れない言葉だったわ。でも、あなたが答えてる声は、なぜか私にも、理解できる言葉に聞こえた」
零は、戸惑いながら、自分の胸に手を当てた。
(また、これか)
以前、レイヴンクロフトの文字が、自然と読み書きできたときと、同じ感覚だった。理由はわからないが、この日ノ本という土地の言葉も、零には、なぜか馴染み深いものに感じられた。
夜も、静かにその様子を見つめていた。
「零、あんた、この国に来たことあるの?」
「いや、ないはずだ。少なくとも、俺の記憶では」
「記憶では、って言い方、気になるわね」
聖の指摘に、零は言葉を濁した。自分自身、はっきりとした説明ができない。
「……とにかく、この国では、俺が通訳の役目をできそうだ。助かるな」
その場を、なんとかそう収めた。
⸻
茶屋の店主に、この国について尋ねると、様々なことがわかってきた。
「日ノ本は、いくつもの国――『藩』ってのに分かれてるんだよ。それぞれに、お殿様がいてね。この辺りは、海沿いの小さな藩さ」
「治安は、どうですか」
「まあまあだね。でも、最近、少し物騒な噂も聞くよ」
「物騒な噂、というと」
店主は、声を潜めて続けた。
「山の方の村でね、原因のわからない病が、広まってるって話さ。お坊さんの祈祷も、お医者様の薬も、まるで効かないって」
零、聖、夜、熊谷は、思わず顔を見合わせた。
(またか)
これまでの旅で、幾度となく耳にしてきた、あの不気味な現象。それが、この見知らぬ島国にも、既に及んでいるとは。
「その村について、詳しく教えてもらえますか」
零が尋ねると、店主は、少し驚いた様子で頷いた。
「詳しくは知らないけどねぇ。ここから、山道を三日ほど行った先の、小さな村だって話だよ」
零は、聖たちと顔を見合わせた。
「行ってみよう」
「そうね。何か、手がかりが掴めるかもしれない」
聖の言葉に、夜と熊谷も頷いた。
⸻
茶屋を出た後、零たちは、旅の準備を整えながら、街の様子を見て回った。見慣れない建築様式、独特の食文化、そして――どこか、静かで、規律正しい人々の佇まい。
「この国、面白いべなぁ」
熊谷が、興味深そうに周囲を見回しながら呟いた。
「ああ。でも」
零は、街の中心に聳える、大きな山の姿を見上げた。雪を頂いた、美しい稜線を持つ、その山には、どこか神々しい雰囲気が漂っていた。
「あの山、なんていう山ですか」
近くを通りかかった人に尋ねると、その人は、誇らしげに答えた。
「あれは、富士のお山でございますよ。この国の、霊峰でございます」
「富士……」
その響きにも、零は、言葉にできない懐かしさを覚えた。
(この国には、何かがある気がする)
理由のわからない予感が、零の胸の中で、静かに、しかし確かに広がっていった。
夕暮れの空に、富士の山影が、美しく浮かび上がっている。
見知らぬはずの、この異国の地。だが、零の中には、それを「見知らぬ」とは言い切れない、不思議な感覚が、確かに芽生え始めていた。
日ノ本での旅は、こうして、静かに、しかし確かな謎を孕みながら、幕を開けようとしていた。




