第三話「病魔吸収」
レイヴンクロフトの街並みは、零がこれまで見たどんな街とも違っていた。
石造りの建物が緩やかな坂に沿って並び、軒先には見たこともない植物の蔓が絡みつき、淡く発光する苔のようなものが夜道を照らしている。行き交う人々の服装も、見慣れた意匠のものから、明らかに異なる様式のものまで様々だった。
「ここは、王国直轄の交易都市よ。聖教会の分院もあるから、私みたいな聖女見習いが常駐してるの」
聖が歩きながら説明してくれる。零は黙ってその後をついていった。まだ状況を飲み込みきれていない。
案内されたのは、街の中心部に建つ聖教会の分院だった。石造りの重厚な建物で、中に入ると、外の喧騒が嘘のように静まり返る。
「まずは、体を診させてもらうわね」
聖はそう言うと、零を簡素な診療室のような部屋に通した。ベッドに腰掛けるよう促され、零は言われるままに座る。
「あなた、行き倒れていたって言ったけど……着てるものを見る限り、随分と長く彷徨っていたみたいね。それに」
聖の視線が、零の手や首筋に注がれる。
「……傷が多いわね。それも、治りかけては再発したような跡が」
零は思わず目を逸らした。長年の路上生活の中で負った無数の傷、そして度重なる発作の跡。それを他人に見られるのは、慣れていても居心地の悪いものだった。
「別に、大したことじゃない」
「大したことないわけないでしょう。……いいから、ちゃんと診させて」
聖は零の手を取り、淡い光を纏わせた。温かい感触が、手のひらから腕へと伝っていく。
「――ん?」
聖の眉が、微かに寄った。
「どうした?」
「……あなたの中に、何か変な魔力の流れがあるの。治癒魔法をかけているのに、体がそれを『吸収』しようとしてる。こんなの、初めて」
零自身にも、聖が何を言っているのか、正確にはわからなかった。だが、体の奥で何かが蠢く感覚は、確かにあった。
「痛くはない?」
「……ない。むしろ」
零は自分の胸に手を当てた。
「あったかい。さっきの、牙獣と戦ったときも、そうだった」
聖はしばらく黙り込んだあと、ふと思いついたように立ち上がった。
「ちょっと待ってて。院長様に相談してくる」
聖が部屋を出ていった後、零は一人、ベッドに腰掛けたまま、自分の手のひらを見つめていた。
(なんなんだ、これは)
考えても答えは出ない。ただ、この体の中に何かが眠っていて、それが少しずつ目を覚まし始めている――そんな確信だけが、零の中に募っていった。
しばらくして、聖が初老の男性を伴って戻ってきた。白髭を蓄えた、柔和な顔立ちの人物だった。聖教会の紋章が刺繍された、格式高そうな法衣を纏っている。
「この方が、レイヴンクロフト聖教会分院の院長、ヨハネス様よ」
「初めまして、坊や。聖から話は聞きました。少し、あなたの体を診せていただいても?」
零が頷くと、院長は零の手を取り、目を閉じて集中し始めた。しばらくの沈黙のあと、院長は驚いたように目を見開いた。
「……これは」
「院長様、どうかされましたか?」
「聖よ、これは尋常ではないぞ。この者の体には、無数の『傷の残滓』とでも呼ぶべきものが刻まれている。しかも、それらが……治癒魔法によって消えるのではなく、この者自身の中に、何か別のものへと『変換』されようとしている」
院長の言葉に、聖の目が丸くなる。
「変換……?」
「うむ。私も長年、聖職に身を置いてきたが、このような症例は見たことがない。まるで――苦しみそのものを糧にする体、とでも言うべきか」
零は思わず声を上げた。
「苦しみを、糧に……?」
その言葉が、なぜか零の胸の奥に、すとんと落ちた。理由はわからない。ただ、間違っていないという確信だけがあった。
「坊や、率直に聞こう。あなたはこれまで、体に多くの不調を抱えて生きてきたのではないか?」
零は一瞬、答えを躊躇った。だが、隠す理由もない。
「……そうだ。心臓に欠陥があった。肺も弱かった。他にも、数えきれないくらい」
「そして今は?」
零は自分の胸に手を当てる。あの、いつも軋んでいた痛みはどこにもない。呼吸は驚くほど楽で、視界も、以前よりずっと鮮明に感じる。
「……何もない。全部、消えてる」
院長は深く頷いた。
「おそらく、あなたが背負ってきた苦しみこそが、今のあなたの内にある何かの糧になっているのだろう。聖教会の古い伝承に、そういう類の話が残っている。あくまで伝承の域を出ないものだが……」
院長はそこで言葉を切り、深刻な表情を浮かべた。
「この世界には、時折、常識では測れない大きな力の影響を受けて生まれる特異な存在がいる。祝福される者もいれば、呪われる者もいる。あなたがどちらなのか、今の私には判断がつかん」
「呪われる、って……」
聖が不安げに院長を見る。院長は静かに首を振った。
「決めつけるのは早計だ。だが、坊や。あなたの中にある何かは、恐らく並大抵のものではない。使い方を誤れば、自分自身をも蝕みかねない。だからこそ――」
院長は零をまっすぐに見据えた。
「その何かと、じっくり向き合う必要がある。焦らずともよい。まずは、この街でしばらく体を休めなさい」
零は黙って頷いた。頭の中には、まだ整理しきれない疑問がいくつも渦巻いていたが、院長の言葉には不思議な説得力があった。
その夜、聖教会が用意してくれた簡素な部屋のベッドに横になりながら、零は天井を見つめていた。
(苦しみが、何かに変わる、か)
長年抱えてきた不調の記憶が、体の中で何かに変わっていく。それがどんな意味を持つのか、零にはまだ全てを理解できていない。だが一つだけ、確かなことがあった。
――この何かがあれば、もう二度と、あのときのように、何もできずに終わっていくことはない。
零は静かに拳を握った。
窓の外には、見たことのない二つの月が、静かに夜空を照らしていた。
その光を眺めながら、零はふと、母の顔を思い出した。
(母さん、俺は――)
言葉にならない想いが、胸の中に静かに広がっていく。
見知らぬ場所、癒えた体、そして正体不明の何か。
零の本当の物語は、この夜から、確かに動き始めていた。




